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6-8


「……黎、なんか飲むか」

 小さく咳きこんでしまったのが聞こえたらしい。灯真に訊かれ、黎はそっとうなずく。自分で取りに行こうと腰を浮かせたが、先に立ちあがった灯真に「待ってな」と言われたので、黎はおとなしくその言葉に従うことにした。


「なに飲む?」

「なんでもいい」


 反射で答えたあと、黎ははっとする。「なんでもいい」は灯真を困らせてしまうから、あまり言わないようにしていたのに。


「ん、わかった」


 しかし灯真はそう言って、キッチンへ向かった。かすかな物音を聞きながら、黎は静かに息を吐く。

 こんなにたくさん自分のことを話しているのは初めてのことだった。話しすぎると喉がかすれてくるらしい。あまりにもまとまりがない気がするけれど、これでいいのだろうか。灯真はときどき相槌を打ってくれるものの、ずっと険しい顔をしていた。素足のつまさきを自然とこすりあわせる。


「おまたせ」


 レンジの音が鳴ったあと、戻ってきた灯真が黎にマグカップを渡してくれた。てっきり水だと思っていたので、少し面食らう。「ありがとう」と言って受けとると、マグカップはほんのりとあたたかかった。甘やかな香りがふわりと漂う。


「ホットミルクにした。熱いから、ゆっくり飲みな」


 灯真が自分のカップに息を吹き、口をつける。黎は乳白色の水面をしばらく見つめたあと、そっとひとくち飲んだ。あたたかなホットミルクが体の真ん中を滑りおちていくのを感じる。ひと息ついてから顔を上げると、灯真と目があった。さっきまでよりも表情はやわらいだが、それでもいつもより険しさは残っている。


「話、途中にしてごめんな。好きなタイミングでいいから、続き聞かせて」


 灯真に言われ、黎はうなずいた。あまり思いださないようにしていたことを話しているからか、胸の内側がずっとざわめいている。それでもホットミルクのおかげか、さっきまでよりもいくぶんかましだった。

 黎は両手でマグカップを持ったまま、深呼吸をする。それからカップに視線を落とし、ふたたび口をひらいた。






 半袖の件からほどなくして、夏休みを迎えた。夏のあいだは学校に行かなくてもいいと知り、周りの子たちが喜んでいる中で黎はほっとしていた。学校に行かなければ、あれこれ買ってもらう必要もなく、母によけいなお金を使わせることもないと思ったから。給食が食べられないことだけは残念だったけれど、母が泣くことに比べればなんでもなかった。

 母は仕事のためか、ほとんど家にいなかった。仕事に行かない時間は眠って過ごすことが多かった。

 家の中はだんだんと荒れていった。

 母に言われたとおり毎日風呂に入るようにはしていたけれど、きれいなタオルがなくなったから、同じタオルを何日も使って体を拭いた。タオルを動かすたびに嫌なにおいがぷんと漂って、せっけんの香りを上書きするようだった。服もずっと同じものを着ていた。そのころの黎は、洗濯がどういうものなのかよくわかっていなかったし、自分で洗うという発想もなかった。

 家の中にはゴミ袋がいくつもたまるようになっていた。たまに母がまとめて捨ててくれたけれど、しみついたゴミのにおいはなかなか消えなかった。

 宿題をする以外は、いつもどおり部屋の隅で膝を抱えてじっと座っていた。そんな黎を見て母は「することないなら掃除でもしてよ」と言った。

 言われたとおり掃除をしようと思ったけれど、ほうきもちりとりもないし、雑巾もない。とりあえずタオルで床を拭いてみたけれど、雑巾じゃないからかうまく水を絞れず床を濡らし、ゴミ袋にぶつかってゴミを散らかし、散々な結果になってしまった。

 仕事から帰ってきた母は部屋の惨状を見て、黎を激しく叱った。

 役立たず。よけいなことするな。

 母は黎の前髪を掴んで、そう怒鳴っていたと思う。うまく聞きとれなかったからはっきりとはわからない。叩かれた頬がじんじんと痛く、耳がきいんとしていた。でもそんなことより、母の役に立てないことが申し訳なくてしかたなかった。

 夏休みが終わる少し前くらいから、母はスナックの仕事のあとも家で酒を飲むようになった。これまで家で酒を飲んでいる姿は見たことがなかった。

 母はあまり酒に強くなかったのかもしれない。スナックで酒を飲んだあと、帰ってきて吐くことはたまにあったけれど、家でも飲むようになってからはほとんど毎晩吐いていた。母が吐く音が聞こえたら、寝ていてもすぐに起きて母のところへ駆けつけるようにしていた。鼻を刺すようなにおいが充満するトイレで、便器を抱えるようにうずくまって吐いている母の背中を一生懸命さすった。丸くなった母の背中は骨が浮いていて、いつもてのひらにごつごつとした感触が伝わっていた。






 夏休みが終わって学校が始まると、クラスメイトたちはみんな真っ黒に日焼けしていた。青白いままなのは黎だけだった。夏休みの思い出を授業で聞かれても、なにも答えられなかった。

 自由研究や工作はできなかった。どうすればいいかわからなかったから。それに対して先生は困った顔で「おうちの方に手伝ってもらわなかったの?」と言った。毎日大変な思いをして働いている母に、宿題を手伝ってほしいなんて言えるはずもなかった。むっつりと黙りこんでいたら、先生は小さなため息をこぼし、それ以上はなにも言わなかった。

 先生が黎に困っているのはなんとなくわかっていた。でも黎だって先生に困っていた。

 ノートがなくなったら「おうちの方に買ってもらって」と言う。図工で使うから牛乳パックやラップの芯などを持ってきてと言う。音読を聞いてもらう宿題を出す。どれも黎には難しすぎることばかりだった。みんなはちゃんとできているのに、黎だけができなかった。

 先生が連絡帳になにを書いていたのか、ひらがなさえまともに読めなかった当時の黎にはわからない。けれど毎日渡すように言われていた連絡帳を見ては、母は顔を真っ赤にして怒っていた。頭にきんと響く早口でなにかをわめきながら、黎を叩いたり、黎になにかを投げつけたりしてきた。あるいはわんわんと大きな声で泣きじゃくっている日もあった。それでも母は学校に来て先生と話すとき、ハルナのようににこにこしていた。

 なにをされたとしても、母を怒らせたり泣かせたりしてばかりいる自分が悪いと思っていた。ちゃんとできない自分が、悪いと思っていた。





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