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6-7


 学校にはなじめなかった。学校に向かう足取りは重く、着く前から帰りたくてしかたなかった。

 なによりもまず、黎は誰かと会話することができなかった。母とさえまともに話してこなかったのに、突然知らないひとたちの中に放りこまれ、先生からもクラスメイトからも話しかけられる。そんなの、黎に対応できるわけがなかった。

 なにを話しているのかもわからない。名前を呼ばれたら返事をするものだということもわからない。そもそも自分の名前すらはっきりわかっていなかった。「黎」はかろうじて自分の名前だと知っていたけれど、「芹沢」は知らなかった。なのに先生もクラスメイトも黎のことを「芹沢」と呼ぶ。自分のことを呼んでいるとわからないせいで意図せず無視するかたちになってしまい、黎はたびたび怒られた。

 そのうち、クラスメイトからはほとんど話しかけられなくなった。自分の席に座ってじっと息をひそめているくらいなら、ひとりで静かな家にいるほうがよかった。






 勉強にもついていけなかった。読み書きをするどころか、鉛筆の持ち方さえ知らなかった。

 クラスメイトたちはひらがなを読んでいるし、先生の出す問題にも答えられている。自分だけがなにもわからなかった。先生に当てられて問題を解くよう言われても、答えられたことはない。ヒントのようなことを言われてもわからなかった。けれどそういうときは黙っていれば、そのうち先生が困った顔で諦めてくれたからまだなんとかなった。

 いちばん嫌だったのは、音読だった。指名されたらひとりだけ立って、教科書を読みあげる。つっかえるなんて言葉では足りないくらいにたどたどしい音読をしているあいだ、教室中の視線がすべて黎に向く。時間がかかればかかるほど、みんながくすくす笑いはじめる。はやく読まなければと思うのに、緊張と焦りで舌がもつれる。

 音読の最中は、恥ずかしくてしかたなかった。今すぐ消えられたらいいのにと思ったのは一度や二度ではなかった。国語の時間はずっと気が気じゃなかった。






 黎は体力もなかった。体育の時間はもちろん、毎日の登下校でさえへとへとだった。休み時間に遊んでいるクラスメイトを見て、なんでそんなに動けるんだろうとふしぎに思っていた。

 夜はくたびれて一歩も動きたくなかったけれど、母と一緒にスナックへ行くのは変わらなかった。母といられる時間だから、そのこと自体は嬉しかった。

 母が働いているあいだは椅子で寝て、帰ってきたら朝までのわずかな時間だけ布団で眠る。朝は決まった時間に起きないといけないから、毎日眠くてしかたなかった。







 学校に行くようになって唯一よかったことは、給食だった。

 それまで食事は夜だけだったから、昼にも食べられると知ったときは心底驚いた。食事があたたかいことにも、これまでずっと感じていた強い空腹感がなくなったことにも。冷たいままのごはんを食べるのも、おなかが空いているのも当たり前のことだと思っていた。






 学校は嫌でたまらなかったけれど、なんとか休まず通えていた。授業も、なにをしているのかわからないなりに言われたことをノートに書いていた。

 そんなある日、国語のノートを最後まで使いきった。授業は続いているのにもう書くところがなくて途方に暮れていると、黎の様子を見た先生が「新しいノートをおうちの方に買ってもらってね」と言った。

 黎にとってこれまでは母の言うことだけが絶対だった。でも学校では先生の言うことも聞かないと怒られることもわかりはじめていた。

 だから黎はその日、昼の仕事から帰ってきた母に、先生から言われたことを伝えた。母はそれを聞き、顔を歪めて大きな舌打ちをした。


「買ったばっかりじゃん。なんでもうなくなるのよ」


 母は心底面倒くさそうにそう吐きすてた。次の日母はノートを買ってきてくれたけれど、黎は母にいけないことをしてしまったという気持ちがぬぐえなかった。

 先生に言われたことを母に伝えたら、母を怒らせてしまった。母を怒らせたくない。だから次にノートを使いきったときは黙っていた。そうしたら今度は先生に「ちゃんとノートは書きましょう」と怒られてしまった。しかたなく母にノートを買ってほしいと伝えたら、やはり母は不機嫌になった。

 先生の言うことを聞かないと怒られるけれど、先生の言うことを聞くと母に怒られる。どっちも怒らせないためにはどうすればいいのか、黎にはさっぱりわからなかった。他の子たちに比べると、しょっちゅう先生に怒られている気がした。自分がわるいこだから先生からも母からも怒られるんだと思っていた。

 怒られたくない。怒られないために、ちゃんとしたいいこになりたい。けれど母が言っていた「小学生だからちゃんとして」というのがどういうことなのかは、まだわからないままだった。






 学校へ通いはじめてからしばらくして、クラスメイトの何人かが半袖の服を着てくるようになった。みんな毎日違う服を着ていたからすごいなあと思っていたら、あっという間にクラスメイトも先生も半袖を着るようになり、長袖を着ているのは黎だけになった。みんなと違うことは感じていたけれど、なにが違うのかはよくわかっていなかった。黎はそれまで、半袖の服を着たことがなかったから。

 全員が半袖を着てくるようになって何日かたったころ、先生が黎のそばへ寄ってきた。気遣わしげな顔で「芹沢さんは半袖着ないの? 暑いでしょう?」と声をかけてきたが、黎には暑いという感覚がよくわからなかった。返事もせずに先生を見ていると、先生は小さくため息をついた。


「もう夏なんだから、ずっと長袖だと暑くて体調が悪くなっちゃうかもしれないよ。おうちの方に半袖の服を着せてもらうように言ってね」


 黎はそれを聞いて困ってしまった。半袖の服なんてない。つまり、半袖の服を買ってもらわないといけないということだ。ついこのあいだ服を買ってもらったばかりだし、どの服もまだまだきれいだった。それなのにまた服を買ってもらわないといけないなんて、とんでもないことのように思えた。母にそんなことを言う気にはなれなかった。

 けれど翌日も長袖を着ている黎を見て、先生はまた半袖の話をしてきた。母に半袖の話をしないかぎり先生にも言われつづけるのかもしれないと思うと、気持ちがどんよりしてしまった。

 黎はしかたなく、仕事から帰ってきた母に、先生から半袖の服を着てくるように言われたことを伝えた。それを聞いた母の顔がかっと赤くなったのを見て、黎は瞬時に間違えたことを悟った。


「なにそれ。服買えってこと?」


 母は真っ赤な顔でどすどすと足音を鳴らしながら黎に詰めよってきた。ぎこちなくうなずくと、母はすさまじい形相で黎を睨み、大声でなにかをまくしたてはじめた。


「わたしは自分の服も買えないのに」


 母がなにを言っているのかほとんどわからなかったけれど、それだけは聞きとれた。

 たしかに、母はいつも同じような服を着ていた。ぜんぶ見たことのある服だった。早口でわめきちらす母がその日着ていた服は半袖だったけれど、首元が伸びていたし、袖のところはほつれていた。

 母をこんなに怒らせてまで新しい服を買ってもらう必要性が黎にはわからなかった。これまで長袖で生きてきたんだから、急に半袖を着ないといけない理由もわからないままだ。だから服はいらないと母に伝えたかった。「おかあさん」と口をひらいた、そのときだった。


「うるさい!」


 つんざくような怒声とともに乾いた音が鳴り、頬に鋭い痛みを感じた。母は肩で息をしながら、大きく見ひらいた目で、黎と宙に浮いている自分の右手を見くらべていた。さっきまでの怒鳴り声が嘘のように部屋は静かになり、母の荒い息遣いだけが響いていた。なにが起こったのかわからないまま母を見ていると、母の瞳からぼたぼたと涙があふれてきて、黎はまたしても驚いてしまった。

 母はその場にうずくまり、わあわあと大きな声をあげて泣いた。黎はどうしていいかわからないまま、泣きじゃくる母の背中をひたすらさすった。母を見ているうちに、黎の目からも涙が出てきた。

 母に怒られるのは嫌だ。でも母が泣くのはもっと嫌だった。張られた頬はじんじんと疼いていたけれど、それよりもどうしてか、誰にも叩かれていない胸の真ん中のほうが痛かった。母が黎に手をあげたのは、そのときが初めてだった。

 母はひとしきり泣いたあと、化粧が崩れた顔を洗い、黎に弁当を食べているように言ってどこかへ出かけてしまった。めそめそと泣きながらも母に言われたとおり弁当を食べていると、ほどなくして母が帰ってきた。

 母は泣きはらした顔でむっつりと黙ったまま、黎の前にレジ袋を置いた。中には半袖の服が何着か入っていた。母が買ってきてくれたのだ。申し訳なくてしかたなかった。自分はこのあいだ新しい服を買ってもらったから、今度は母が新しい服を買うべきだと思った。

 母はその日スナックには行かず、シャワーを浴びたらさっさと寝てしまった。黎も同じようにシャワーを浴びて歯を磨いたあと、いつもよりもずいぶんと早い時間に布団へ入った。買ってきてもらったばかりの服とランドセルを抱えて目をつむった。母が小さくすすり泣く声がずっと聞こえていて、なかなか眠れなかった。

 翌日、母が買ってきてくれた半袖を着てみると、腕のところがすかすかとしてなんだか変な感覚だった。むきだしの腕はひょろひょろと青白く、自分の腕なのに奇妙なものを見ている気分だった。

 半袖を着てきた黎を見て先生は「涼しくなってよかったね」とほほえんでいたけれど、黎はちっとも嬉しくなかった。こんな服のせいで母が泣いたんだと思うと気が重かった。

 それから、母は昼も夜も仕事に行く日が増えた。いつ見ても疲れた顔をしている母を見て、こどもながらに母が大変な思いをして仕事をしているのはわかった。

 母がそんな思いをするくらいなら、母が泣くくらいなら、服なんていらなかった。母がいてくれれば、それだけでよかった。





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