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6-6


 ゴミのにおいがする薄暗い部屋の隅。膝を抱え、ただじっと息をひそめる。

 やがて乱暴な解錠音が部屋に響き、帰ってきた母が黎の前に冷えた弁当を無言で放りなげる。母が化粧をしているうちに、自分の手のサイズには合っていない割り箸を使ってその弁当を食べる。こどもにはずいぶん多い量だったが、一日に一度だけ与えられる食事は残すことなく、母が化粧を終えるまでに食べきるようにしていた。そうしないと、化粧を終えた母に食事を打ちきられてしまうから。

 くたびれたスウェットとひっつめ髪には不釣り合いな濃い化粧をした母が、黎に向かって顎をしゃくったのを見て、母を追い、玄関を出る。母の仕事場へ向かうあいだ、自分の一歩前を行く背中はけっしてこちらを振りかえらない。

 それが、黎の中にあるいちばん古い記憶だった。






 ずっと母とふたりきりだった。とは言っても、母は昼も夜も働いていたから、黎はほとんどの時間をひとりで過ごしていたのだが。

 母が昼間どこで働いていたのかは知らない。薄暗くなるころに帰ってきた母の準備が終わったら、一緒に夜の職場であるスナックへ行く。母がそこで働いているあいだ、狭い休憩室の椅子に座って眠っていた。

 母とのあいだに会話はほとんどなかった。母が黎に話しかけるのは、低い声でなじるときと高い声で怒るときくらい。黎から話しかけることはなかった。母は機嫌がいいと穏やかにほほえみながら黎を撫でてくれたこともあったけれど、それはごく稀だった。

 いつ、なにがきっかけで爆発するのかわからない母を怒らせたくなくて、黎は自然と部屋の隅で小さく縮こまり息をひそめて生きるようになった。そうしていても母の気に障ったときは、気味が悪いとなじられた。






 スナックで働く母は、家にいる母とは別人のようだった。ぼさぼさだった髪をきれいにまとめ、襟ぐりの伸びたスウェットからドレスに着替えると、母はハルナと呼ばれる女性に変わった。

 ハルナというのが母の本名なのかはわからない。けれどみんなからそう呼ばれていたから、それが母の名前なのだと思う。

 客の話に甘えた猫撫で声で相槌を打ち、声を出して笑い、いつも笑顔を絶やさない。客からも、従業員やママと呼ばれていたスナックのオーナーからも好かれていた。母は客に「ハルちゃんと話していると元気が出る」と言われては嬉しそうに頬を染め、ママから「困ったことがあったらいつでも頼ってね」と言われては少女のように目を潤ませていた。

 みんなにかわいがられ、愛嬌があり、いつも明るい頑張り屋のハルナ。けれどハルナがドレスを脱ぎ、黎とふたりで帰路につくと、黎のよく知る母へとまた戻っていた。帰るなりトイレで嘔吐しながら「あのジジイ」とさっきまで楽しそうに談笑していた客を悪し様に言うことだって何度もあった。

 どちらが本当の母なのかは黎にもよくわからない。もしかしたら母も、母に与えられた役割を演じていたのかもしれないと、今は思う。






 父の記憶はない。会ったことも、顔を見たことすらもない。

 父に関して知っているのは、母と黎を捨てどこかで生きていることと、黎とよく似た顔をしていることだけ。母からはそれしか聞いていない。名前すら知らないままだ。

 母は黎の顔を見ては、「あいつにそっくりな顔」とよく言っていた。黎の両頬を片手で鷲掴みにして睨みつけるときもあれば、切なさをにじませた表情で黎をじっと見るだけのときもあった。母は家にいるとき、他人を口悪くののしることが多々あったけれど、父への罵詈雑言だけは聞いたことがなかった。






 あんたなんか生まれてこなければよかった。あんたがいるせいでこんな生活になっている。あんたはわたしがいなければ生きていけない。

 母からよく言われていたことは、今でも覚えている。名前を呼ばれるよりも恨み言を言われるほうが多かった。小さいころはずっと、自分の名前は黎ではなく「あんた」だと思っていた。

 それでもたまに、ほんとうにごくたまに、母は憐憫をたっぷり含んだまなざしで黎を見て、「あんたにはわたししかいないから、ずっと一緒にいてあげる」とささやいてくれた。

 黎には母しかいなかった。母とふたりきりだった。母がずっと一緒にいてくれると、黎は信じていた。






 けれど黎の世界は、あるとき急に外へと広がった。

 冬の寒い日だった。夕方、いつものように帰ってきた母は、黎の前に弁当だけでなく大きな箱を置いた。そんなことは初めてだった。弁当に手を伸ばしながらもその箱の様子をうかがっていると、母は化粧をするでもなく黎を眺め、薄く笑った。


「あんたのランドセルだよ」


 黎は動きを止め、母を見た。ランドセルという単語の意味はわからなかった。けれど、黎が両手でも抱えるのが難しいほど大きなこの箱が自分のものだと言われたことは、理解できた。母から服と食べるもの以外でなにかを買ってもらえたのだって、初めてのことだった。

 目の前の状況が信じられなくて、その日最初の食事に手をつけることなく、母と、ランドセルの箱をしきりに見くらべた。母は甘さのにじんだため息をつき、ふいとそっぽをむいた。


「高かったんだから、大事にしてよ」


 母はそう言って浴室へ向かった。それはスナックの仕事が休みの合図だった。黎は母のいなくなった部屋で、そろそろとランドセルの箱にふれた。どこもつぶれていない新品の箱は、つやめいて見えた。

 やがて風呂から出てきた母は、弁当を食べることもなくランドセルの箱をしげしげと眺めていた黎を見て、おかしそうに笑った。


「箱から出せばいいじゃん」


 そう言われても、黎はそもそもその箱の中になにかが入っていることさえわかっていなかった。

 母は面倒くさそうにしながらも黎の前に座り、ランドセルの箱をあけてくれた。あけた瞬間、嗅いだことのないにおいがぷんと広がる。中からひっぱりだされたのは、蛍光灯のあかりを反射してつやつやと輝いている、黒いランドセルだった。ふわあ、と黎の口から感嘆の息がもれた。


「これ担いで、小学校行くんだよ」


 母が言った小学校という言葉も、そのときは理解していなかった。自分がこの部屋を出てどこかに行かなければならないということも。黎はただただ目の前にあるうつくしい黒色を眺めていた。この黒くて大きなランドセルが自分のものだということが嬉しくてたまらなかった。


「……おかあさん、ありがとう」


 久しぶりに発した声はかすれ、舌もうまく回らなかった。それでも母に礼を言うと、母の口角がかすかに上がった。

 幸せ、というものがどういうものなのか、黎には今もよくわからない。

 でもあの夜、ゴミだらけの狭い部屋で母と向かいあってランドセルを見ていた時間は、黎にとってたしかに幸せな時間だったと思う。

 その日以降、母が昼の仕事に行っているあいだはずっと、ランドセルを眺めて過ごすようになった。傷ひとつない革がぴかぴかと光っているように見えた。箱も捨てず、ランドセルと一緒に大切に扱った。

 誰もいない静かな部屋で息をひそめるように過ごしていた時間は、ランドセルのおかげで胸の奥がふわふわとあたたかくなるようなものに変わった。

 けれどまだその時点では、ランドセルの使い道も、母がこれを買ってくれた理由もわかっていなかった。母が初めてなにかを買ってくれたというのが、ただただ嬉しいだけだった。






 黎がなにかおかしいと感じたのは、母が黎の服や靴をまとめて買ってきたときだった。これまで服は破れたり小さくなったりして着れなくなってから買うものだったし、靴は母のおさがりのサンダルをずっと履いていた。

 けれどそのときは今の服がまだ着られるのに一気に何着も買ってくれたし、見たこともないスニーカーと靴下も買ってくれた。初めて履いた靴下の感触はごわごわしていて、なんだか気持ち悪かったのをぼんやりと覚えている。今でも少しだけ靴下が苦手だ。

 母はそれからも、ノートや鉛筆、筆箱などを買ってきては、そこに黎の名前を書いてくれていた。今なら学校の準備をしていたとわかるが、そのころの黎には見たこともないものばかりだったし、そのすべてが黎のものだと言われた。

 ランドセルを皮切りに、黎のものがどんどん増えていく。ランドセルは嬉しかったけれど、こうして自分のものをたくさん買ってもらうようになると、嬉しさよりもなんだかおちつかなさのほうが強かった。

 黎は母とランドセルがあればそれでいいと思っていた。ランドセルをどう使うのかも知らないのに。母がどんな気持ちで黎の入学準備を進めていたのかも知らないのに。


「なんでこんなにお金かかるの」


 黎の持ち物に名前を書いていた母が忌々しげに呟いた声は、今でも頭の隅にこびりついている。






 それから、身だしなみの整え方を教えこまれた。

 まず、母が黎の髪を切ってくれた。これまでずっと伸ばしっぱなしだった髪が一気に短くなり、頭がすうすうして寒かった。母の手によって短くなった髪はあちこちががたがたしていて、母は鏡越しにむすっとしていたけれど、黎は目に髪がかからないから前がよく見えることをのんきにふしぎがっていた。

 頭や体の洗い方も、風呂でみっちりと教わった。今までひとりでやっていたのでは足りていなかったらしい。母は毎日風呂に入って頭と体を洗うよう黎に言った。これまで風呂は母に入れと言われたときだけ入るようにしていたけれど、今後は自分から入らないといけなくなった。

 歯磨きだって、朝起きたあとと夜眠る前にやることになった。なんでそうしないといけないのかはわからなかったし、母も理由までは教えてはくれなかった。ただ、母にそうしろと言われたからそれを守ることにした。黎にとって、母の言うことがすべてだった。


「もう小学生なんだから、ちゃんとして」


 そのころの母は、黎に向かってしきりにそう言っていた。小学生、という言葉の意味はわからなかったけれど、これまでの自分はちゃんとしていなくて、これからはちゃんとしないといけないんだというのは、幼いながらに理解した。どうなればちゃんとしていることになるのかは、わからないままだった。






 毎日ランドセルを眺めて過ごし、家の中にいても手足や鼻の先が冷たくて痛くなる時期が終わったころだった。

 その日の朝、黎は初めて母に起こされた。「これ食べて」と渡されたのは、値引シールが貼られた甘いパンだった。朝からなにか食べられることも、それがめったに食べられない甘いパンなことも嬉しくてゆっくり食べていたら、化粧をしていた母にはやく食べろと急かされてしまった。


「食べたらシャワー浴びて歯磨きして」


 黎はパンをほおばりながら驚いてしまった。朝からシャワーを浴びてこいと言われたのもその日が初めてだった。母は黎に言うだけ言って、また化粧を再開した。いつも夜にしている化粧とは雰囲気が違っていたのを覚えている。

 パンを食べ、シャワーと歯磨きを済ませると、すぐに母が洗面所にやってきた。「それ着て」と渡されたのは、先日母が買ってくれた新品の服だった。母は見たことのないきれいなワンピースを着ていた。

 ドライヤーで髪を乾かしてもらったのもそのときが初めてだった。いつも濡れたまま放置していてぼさぼさだった髪が、母の手によってきれいに整えられていく。黎はそれを見て、母はすごいとのんきに思っていた。まるで魔法の手だった。

 母は髪を乾かしおわると、ランドセルを担いで玄関へ来るよう言った。黎はついに小学校へ行く日が来たのだと悟った。

 ランドセルの中には母が買ってくれたものが入っていて、持ちあげると重かった。ぶかぶかの服に、ぶかぶかの靴を履き、大きなランドセルを背負って母の背中を追う。明るい時間に母と外へ出るのも、このときが初めてだった。いつもカーテンの隙間から見ていた青空が頭上に広がっているのに、これからなにが起こるのかわからない不安のせいで黎は緊張しつづけていた。






 長い道のりの先にあった小学校は、黎にとってあまりにも未知の場所だった。

 人が、とにかく多かったのだ。

 黎はそれまで、母とふたりの世界で生きてきた。スナックの従業員や客の姿は見ても、会話することはなかった。ましてや、黎と同じこどもは見たこともなかった。

 人の多さと騒がしさにたじろいでいると、黎の前を歩いていた母がわずらわしそうに顎をしゃくった。早く来いの合図だ。黎は足がもつれそうになりながらも母を追った。母に手を伸ばしたくなったけれど、そんなことをして怒られたらと思うとこわくてできなかった。

 それでも母が前を歩いてくれているから大丈夫だと思っていた。母がなにかの書類を渡したり書いたりしているのを隣でそわそわと眺めていたら、急に横からぱっと手を掴まれた。驚いてそちらを見ると、黎よりも背の高い男の子が黎の手を掴んでにこにこと笑っていた。


「教室、こっちだよ!」


 男の子が黎の手を引いて歩きはじめる。黎は混乱していた。どこに連れていかれるのかさっぱりわからなかった。母に助けてほしかった。母と一緒にいたかった。すがるように母を見ると、母はもう黎を見ておらず、背を向けてどこかへ歩いていた。手を引かれるままに歩きながらも、黎は小さくなる母の背中をずっと見ていた。置いていかれた、と、絶望した。

 そこからはなにが起こったのか、あまりよくわかっていない。連れていかれた先で椅子に座って待たされ、知らないおとなの話を聞いたと思ったらまたどこかへ連れていかれ、そこでも椅子に座って長い話を聞かされた。とにかくずっと誰かが喋っていたけれど、なにを言っているのかはひとつもわからなかった。また元の部屋まで戻ってきたとき、廊下の隅のほうでむっつりとしている母の姿を見て心底安堵したのは覚えている。

 なにもかもが終わり、とてつもない疲労感を抱えながら母と帰路についていたとき、母は黎を見ることもなく「明日からひとりで学校行くんだよ」と言った。あの場所へたったひとりで行かないといけないと知り、黎は内心で激しく動揺した。

 あんなところ、行きたくなかった。こわくてたまらなかった。家で眺めているときはきらきらと輝いて見えたランドセルが、背中にずっしりとのしかかっているようだった。





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