6-5
「……できた」
「だろ?」
隣に座る灯真が顔をくしゃりとさせて笑う。黎は正しく計算できた答えを見て、ほうと息を吐いた。
夕食を終えてから、黎はわからなくて後回しにしていた問題の解き方を灯真に訊ねた。灯真の丁寧な説明のおかげで、あんなに難しいと思っていた計算があっさりとできてしまった。すごい、と黎は灯真を見る。灯真はにこにことほほえみながらも、少しだけ首をかしげた。
「久我さん、すごい」
素直に伝えると、灯真は一瞬面食らったような顔をしたあと、照れくさそうにはにかんだ。髪の隙間から見える耳がほんのりと赤くなっている。
「そんな、あらたまって言われたら、なんか恥ずかしいじゃん」
「でも、すごいから」
この気持ちをすごい以外にどう伝えたらいいのかわからない。この問題がわかることも、それを黎に説明できることも、黎がわかるように導けることも、なにもかもがすごいと思った。
そもそも前から思っていたことだが、灯真は何事においても教えるのがとても上手だ。黎にもわかりやすい。灯真は学校の先生ではないのに、さらりと教えられることもすごいと思った。……自分とは違う。黎はなんだか胸がほんの少し重たくなるのを感じた。
「久我さんは、学校、がんばったの?」
「んあ? 学校?」
灯真が気の抜けた声をもらす。黎は小さくうなずいた。灯真が腕を組み、「うーん」とうなりながら考えこむ。
「がんばったといえば、がんばったかあ……? 別に、すげえ成績よかったとかじゃないけど、まあ……まじめにはやってたか」
「学校がんばったから、仕事、できてるの?」
問いかけた声は、緊張からかわずかにうわずっていた。灯真がぱちりと瞬く。
「うーん……まあ、そう……なのか?」
そう言って、灯真はまた考えこむ。黎は灯真の眉間に寄っているかすかな皺をじっと見つめた。
「まあ、うん。学校、っていうか、大学卒業したから、今の仕事できてるわけだしな。大卒しか採用してないし。だからまあ、たしかに、がんばった結果なのかもしれん。大学入るまでにけっこう勉強したし、入ったあとも単位とか就活とかがんばったし」
「そっか……」
黎はぽつりと呟き、視線をテーブルに落とした。広げたままのドリルには自分の汚い字がのたくっている。字の練習はしたけれど、まだきれいとは思えないままだ。隣で灯真がふっと笑った気配がする。
「なあに。難しい顔して、なに考えてんの」
軽い声音の奥には、気遣わしげな色がにじんでいた。黎は目の端で灯真をとらえながら、そろりと口をひらく。
「学校って、大変?」
「んー……」
少しだけ間があいたあと、灯真が言葉を選ぶように話しはじめた。
「まあ、人によるってのは大前提として、あくまで俺の場合は、って話をするんだけど」
灯真はそう前置きをして、小さな咳払いをした。
「大変な部分もたしかにあったけど、卒業してかなりたった今なら、楽しかったって気持ちのほうが大きいかな。俺はね」
「勉強、楽しかったの?」
「うーん、勉強ねえ」
黎が訊くと、灯真はわかりやすく苦笑した。
「勉強が純粋に楽しかったかっていうと、そんなことはないかな。正直、だるいなって思うこともいっぱいあったし。楽しかったのは、ほぼ勉強以外の部分だな。部活したり、ともだちと遊んだり。勉強はやらなくていいならやりたくないと思ってたし、テストは嫌いだったし、大学んときはレポートまとめるとかもっと嫌いだった」
勉強以外の部分、という言葉に、黎はぎゅっとくちびるを結ぶ。黎がわずかに覚えている学校の記憶は、勉強以外のものがほとんどだ。そしてそのどれもが、思いだすだけで口の中が苦くなるようなものだった。黎が黙っているのを見てか、灯真の声のトーンがほんのりと上がる。
「でも、おとなになった今だからそう思うんだけどさ。あのころはなんでこんなこと勉強しなくちゃなんねえんだ、こんなん覚えてなんの役に立つんだ、って思ってたようなことが、社会に出てから意外と役に立ったり、あーあのとき習ったことだ、って急に出てきたりするんだよな。だから、やっててよかったとは思うよ。ぜんぶむだではなかったんだろうなって、今なら思えるっていうか。ぜんぶちゃんと、俺の武器になってるっていうか」
「武器?」
急に出てきた物騒な言葉に、黎は軽く目をしばたたく。灯真はどこかいたずらめいた笑みを浮かべた。
「そうだよ、武器。ほら、このまえ観た映画でさあ、体のあちこちに武器隠してて、次々にそれを出して戦うやつ、あったじゃん。あんな感じ。俺も気づかないうちに、ポケットの中とか、靴の裏とかに武器が隠されてるんだよ。隠したのは俺なんだけど、忘れてるっていうか。で、急にそこにあることに気づくみたいな」
黎は聞きながら、灯真と一緒に観た映画のことを思いだす。今の黎には、勉強がどんなときにあの映画の武器のように役立つのかはよくわからない。でもあのとき主人公の体のいたるところから出てきたさまざまな武器は、たしかに主人公のピンチを救っていた。今日やった分数の計算だって、いつかやっていてよかったと思える日が来るんだろうか。
「どうした? 学校、なんか気になることあった?」
灯真がやわらかな声で訊く。そこにからかいの色はいっさい感じられなかった。黎は小さく息を吸ったあと、そのまま止まる。口の中で次に出す言葉を選んでから、灯真を見た。
「仕事は、大変?」
そう訊くと、灯真は一瞬だけ目を丸くしたもののすぐにまた表情をゆるめた。
「まあ、それもあくまで俺は、って前提で話すんだけど、大変と楽しいが半々くらいかな。いや、大変のが多いかも」
そうなのか、と黎は思うが、声にはならなかった。灯真がふっと苦笑する。
「仕事そのものは、やっぱね、大変だよ。うまくいかないことばっかりだし、理不尽に怒られることもあるし、むちゃぶりされてどうすんだよこれってなることもあるし、人間関係もめんどくせえなって思うこといっぱいあるし。やってらんねえなってため息つきたくなることばっかり」
そう言って灯真はからりと笑った。黎はかすかに瞠目して灯真の話を聞く。灯真が仕事に対してそんなふうに感じているなんて思っていなかった。そんな様子、黎の前では一度も見せたことがなかったから。
「でもまあ、うまくいかなかったところがいい感じにまとまったりとかすると、やるじゃん俺、みたいな、楽しいとも違う、なんだろうな……誇らしさ? は感じたりするし。総合すると、大変だけどそればっかりじゃないって感じかな。さっきも言ったけど、あくまで俺は、って話だから、世の中みんな同じ感想ではないだろうけど」
黎はくちびるを結び、灯真の話を嚙みしめる。灯真はゆるやかに眉を下げ、ふたたび話しはじめた。
「俺は別に、やりたい仕事もなかったし、内定もらえたから今のとこにそのまま就職しただけだしなあ。給料も福利厚生もまあまあいいし、腹立つことあっても辞める理由にはならない程度だし。そんなだから、やりがいみたいなのは薄いんだよなあ。仕事はちゃんとやるけど、食っていけるぶんだけ稼げればそれでいいし、仕事に楽しさは求めてないっていうか」
灯真は話しながら、くったりとテーブルに上体を伏せた。少し伸びた前髪がさらりと額を流れる。なんとなくその前髪を指で払うと、灯真がくすぐったそうに瞳を細めた。それからその姿勢のまま、まっすぐに黎を見る。
「なんか相談あるなら聞くし、なんもないなら、ないでいいよ。まだ聞きたいことあるなら、俺でよければ答えられることは答えるし」
軽やかで、けれど黎を気遣っているのがわかる声音だった。詳しいことはなにも言っていないはずだ。でもぜんぶ見透かされているのかもしれない。そう感じても嫌な気分にはなっていないのが、自分でふしぎだった。なにがあったのと踏みこまれるのは、こわいことだったはずなのに。灯真は黎をむりやり暴こうとしないからかもしれない。
黎はひとつ深呼吸してから、半身だけひねって灯真を向く。
「俺、久我さんに恩返ししたい」
灯真をまっすぐに見てそう言うと、灯真の瞳がゆっくりと丸くなった。
「そのために、お金欲しいから、仕事したくて」
続けてそう言うと、灯真の表情が一瞬険しくなったように見えた。それに気おされ、黎はぱっと目を背ける。背中を冷たい汗が伝う。けれど一度話しはじめてしまった口をうまく止められない。
「でも、俺、学校行ってないから、仕事、できなくて……」
話しながら、頭の中で、なにか間違えたかも、という恐怖がふくれあがる。さっきの表情の理由がわからない。こわい。どう続ければいいのかもわからなくなって、言い終わりが尻すぼみになる。
灯真は静かだった。それすらもこわくて、黎は首をすぼめながらちらりと灯真の様子を見る。まだあの表情をしていたらどうしよう、と思ったけれど、いつのまにか体を起こしていた灯真は、さっきとはうってかわって困ったようなやわらかい笑みを浮かべていた。灯真が鼻から息を吐いた音がかすかに聞こえる。
「まあ、おまえの言いたいことはわかった。つっこみたいところはいっぱいあるけど、一個ずつ聞いていくか」
言いながら、灯真が黎のほうへ体ごと向けて座りなおす。なんとなく黎もそうしたほうがいいのかと思い、同じように灯真のほうを向いて座った。灯真が穏やかな、けれど真剣な表情で黎を見る。
「じゃあ、まず、恩返しって? なんでそんなこと思ったの」
灯真のまなじりにふっと皺が寄る。怒られているわけではない、と思う。黎は小さく息を吸ってから口をひらいた。
「あの、俺、昨日も言ったけど、久我さんに拾ってもらえてよかったと思ってるし、久我さんに、感謝してる。久我さんに拾ってもらえたおかげで、俺、ちょっとは人間になれたから」
黎がまっすぐに言うと、灯真の眉が訝しげに歪んだ。灯真のくちびるが、にんげん、と音を出さずに動く。黎は乾いたくちびるを舐めうるおしてから続けた。
「だから、俺、久我さんに恩返ししたい。でも、なにしていいか、考えたけどわかんなくて、もしお金があったら、できること、増えるんじゃないかって思った。それに、お金があったら、久我さんの誕生日も、祝えたから……」
「ええ? 祝ってもらったじゃん」
灯真がふしぎそうに首をひねって笑う。昨日の話を蒸しかえすことになってしまったのが、なんだか急に恥ずかしくなってきた。耳が熱い。目線がどんどん落ちていく。
「俺としては、誕生日はもう祝ってもらったし、うれしかったし、満足してるんだけどさ。なんていうの? 逆サプライズ? よくわかんねえけど、そんな感じになっちゃったし、おまえが消化不良になってんのは、まあ、わかる。だから、そうだなあ……」
灯真はそこで言葉を区切り、黎の顔を覗きこんだ。いたずらっぽく細められた瞳が優しくて、黎は小さく息を呑む。
「じゃあ、また今度、肉じゃが作って?」
「それでいいの?」
「それがいいんだよ」
黎が面食らって訊くと、灯真がからりと答えた。
「おまえの作ってくれるメシはなんでも嬉しいし、うまいけど、肉じゃががいちばん好きだな。だからまた作ってほしい。あ、俺が好きだって言ったからって、毎日作るのはなしだからな?」
「そうなの?」
「そうだよ。どんだけ好きなものでも、毎日食べてたら飽きちゃうかもしれないじゃん。それに、俺はおまえの作ってくれる他のメシも食べたい」
「……うん、わかった」
黎がうなずくと、灯真の頬にえくぼが浮かんだ。そのあどけない表情のおかげか、こわばっていた体の力がかすかに抜ける。
「そもそも恩返しって言われても、俺だっておまえのおかげで助かってることいっぱいあるんだから、なんていうか、win-winの関係性だと思ってるけど」
「うぃんうぃん?」
黎が聞きかえすと、灯真は「そう」とうなずいた。
「お互いいいことある、みたいな。少なくとも、一方的じゃないよ。おまえが俺に感じてる恩ってのがどんなもんなのかはわかんねえし、恩返しをどういうものだと思ってるのかもわかんねえけど……俺はおまえがいてよかった、おまえも、まあ、そう思ってくれてるらしい。それでいいじゃん、って俺は思うけど」
灯真は照れくさかったのか、最後はぶっきらぼうに言った。黎はうまく返事できずにくちびるを結ぶ。
たしかに灯真は、黎のおかげで毎日が楽しいと言ってくれた。昨日だけじゃなく、前にも、何度か。
だからって、自分が感じている恩とつりあいが取れているとは思えなかった。黎が黙ったままでいると、灯真がまた話を続けた。
「おまえが仕事をしたいなら、仕事探したりサポートするよ。でもその理由が俺への恩返しのためだけなら、賛成できない。いつも言ってるけど、俺を、誰かを、行動の理由にしてほしくないから」
さっきよりも真剣な声音で言われ、黎は結んだくちびるに力を入れる。
「たしかに、誰かのために働いてるひとはいると思うよ。家族を養うためとかさ。それがモチベーションになるひともいれば、足枷になるひともいると思う。誰かのために働くのも、悪いことじゃないと思う」
灯真はそこで一度息を継ぎ、あらためて黎と目を合わせた。
「でも別に、俺はおまえが働いてなくても生活できるし、そもそもおまえに、金銭的な援助をしてもらう必要もない。してもらいたいとも思ってないし、恩返しという名目ならなおさら金を受けとりたくない」
「で、でも、俺のお金、ぜんぶ、久我さんが出してくれてるから」
「まあ、そうだなあ」
黎が食いさがると、灯真が困ったように眉を下げた。黎は唾を呑み、その勢いのまま話を続ける。
「俺、久我さんにいっぱい買ってもらってるし、ごはんとか、髪切るのとかも、久我さんがお金出してくれてるし、それ、俺が、自分で払ったら、久我さん……久我さんは……」
それはほんとうに恩返しなんだろうか。言いながら自分で思ってしまい、それ以上なにも言えなくなった。それで灯真が喜ぶとも、恩を返せているとも思えない。灯真と話せば話すほど、恩返しとはなんなのかわからなくなっていった。目の前の灯真はまだ困り顔でほほえんでいる。
「……おれ、また、まちがえた?」
ぽつりと訊くと、灯真がほほえんだまま首を横に振った。
「間違えてないと思うし、おまえの気持ちは嬉しいよ」
灯真の声が優しく響く。けれど黎はかくんと肩を落としてしまった。
「黎、仕事したことある?」
黎は一瞬ためらったけれど、すぐに首を横に振った。隠したところで灯真にはばれてしまうだろう。
「働くってさ、けっこうしんどいことばっかりだよ。慣れてないうちはなおさら。もうやだな、辞めてえなって思ったとき、でも俺に恩返ししないといけないからって理由でむりやりがんばりそうだなって、勝手に心配しただけ。杞憂かもしれねえけど」
灯真の話を聞き、黎はそっとくちびるの内側を嚙む。そんなことないとすぐに否定できないのが答えだと思った。灯真はそれすらもわかっているように、穏やかな声で話しつづける。
「おまえが働かなくても、俺とおまえ、ふたりで暮らしていけるくらいの稼ぎがあるのはほんとう。貯金もそれなりにあるし、今この段階で、おまえが生活を心配していきなり働く必要はない」
灯真はそこで、少し長く息を吐いた。
「でも、まあ、だからって、それがおまえが働かなくていい理由にもならないよなあ」
あっけらかんと言われ、黎は思わず瞬きをしてしまった。どういうことだろう。そろりと灯真の様子をうかがう。灯真はあいかわらず眉を下げたまま、ぽつぽつと続けた。
「別にさ、おまえが働きたいって思ったこと自体に対しては、反対してないよ。いや、そもそも最初から反対はしてないんだけどさ」
「そう、なの?」
「そうだよ。働きたい理由が恩返しのためだけってのは、どうなのって思っただけ」
そうだったのか。なんだか少しだけ気が抜けてしまい、もぞもぞと膝を抱えて座りなおした。
「おまえの思う恩返しのためだけに働くってのは、賛成できない。だからって、おまえがそうしたいと思うなら反対まではしないし、応援も、サポートもする」
賛成はしないが反対もしない。結局どっちなんだろうと思わないでもなかったが、ひとまず黎の意思を否定しているわけではないらしい。黎は灯真には聞こえないよう、小さく安堵の息を吐く。灯真はあぐらをかいた体をゆらゆらと左右に揺らしながら話を続けた。
「言いたいこと、うまくまとめらんねえんだけどさ。お金は、そりゃあ、あればあるだけいいよな。今は俺が健康に仕事できてるからいいけど、もしかしたらなんかの理由で働けなくなるかもしれない。そんときに、貯金とか備えはいっぱいあったほうがいいだろうし。おまえが今の状況に負い目を感じてるっていうか、気ぃ遣うっていうか、まあ、そういう気持ちもわかるし。俺は別にいいよって思うけど、逆の立場だったら俺も気まずいって思うだろうからな」
そこまで言って、灯真はゆるく笑ってうなじをさすった。黎はなんと返せばいいかわからず、曖昧に顎を引く。
「たとえばおまえが働きはじめたとして、恩返しのためー、みたいな感じで稼いだぶん全額俺に渡そうとしてきたら、俺はそれを受けとりたくない。恩返しとかよくわかんねえし、俺はおまえに恩を返してほしくて、今一緒に暮らしてるわけじゃないから」
灯真は言葉を選んでいる雰囲気を出しながらも、黎に向かってきっぱりと言った。その言葉に、喉の奥が締まったような息苦しさを覚える。
「でもそうじゃなくて、稼いだぶんで自分の欲しいもの買ったり、自分のために使って、将来のために貯金して、そんでも余ったぶんを生活費として入れてもらうってのは、これからも一緒に暮らしていくうえでありかもしれないね。そうしたら、俺は浮いたぶんのお金を貯金しておいたり、おまえとちょっと贅沢したりできるし、おまえは今感じてる負い目を解消することができる。どう? 悪くないんじゃない?」
そう言って、灯真が黎に笑いかける。恩返しはいったん横に置いておくとして、灯真の案はとても魅力的なように思えた。さっき灯真が言っていたwin-winという言葉を思いだす。どちらも嫌な思いをしない、ちょうどいい正解なのかもしれない。やはり灯真はすごい、と気持ちがはずみかけたけれど、そもそも自分が働ける前提で話が進んでいることにいまさら気がついた。空気が抜けるように高揚がしぼんでいく。
「でも、俺、学校行ってないし、仕事、できないから……」
「あー……」
黎がぼそぼそと言うと、灯真がふっと苦笑した。急に恥ずかしさがこみあげてきて、黎は膝を抱える腕に力をこめる。
「おまえは学校行ってないから働けないってさっき言ってたけど、世の中、学歴とか関係なくできる仕事なんていっぱいあると思うよ?」
「……そうなの?」
黎は思わず顔を上げ、灯真を見る。さっきまで暗かった視界がふっと明るくなったような気がした。灯真がうなずく。
「やりたい仕事次第だけど、とりあえずお金稼ぎたいってだけなら、選択肢はいろいろあるんじゃねえかな。コンビニとか飲食店とか。高校生でもバイトしてる子は世の中たくさんいるし」
「高校生……」
言いながら、口の中に苦いものが広がる。灯真の表情が一瞬だけくもった気がした。
「中卒……最後に卒業したのが中学ってひとでも、世の中働き口はあるはずだよ」
「中学校も、行ってないひとは?」
問いかけた声は乾いてかすれていた。灯真の表情がさっとこわばる。それを見て、黎はだめなんだと察してしまった。
灯真は黎の問いに答えてくれず、重い沈黙がふたりのあいだにのしかかる。黎はさっきまで見えていたかすかな光さえも閉ざされた気分になってしまった。くちびるを歪め、膝に額をくっつける。
「……黎」
ふいに名前を呼ばれ、肩が勝手に跳ねる。けれど黎は顔を上げなかった。上げられなかった。灯真が息を吸った音が聞こえる。
「黎、中学行ってねえの?」
黎はそれにも返事ができなかった。答えたくなかった。恥ずかしくて、まぶたの裏が熱かった。しばらく感じていなかったみじめさが、背中にじっとりとまとわりついている。顔を伏せたまま無言でいると、灯真が身じろいだ気配がした。静かに息を吸ったあと、ふたたび黎に話しかける。
「中学行ってなくても、できる仕事はあるはずだよ。おまえが働きたいなら、探す手伝いもする。……でも、その前に」
灯真はそこで言葉を区切り、今度は大きく深呼吸をした。
「……黎。おまえが、嫌だと思うかもしれないこと、訊いていい?」
おそるおそる確認され、黎は顔を伏せたままくちびるを嚙んだ。なにを訊かれるんだろう。わからない。でも今は、灯真を拒みたくない。
黎は迷った結果、ほんのわずかだけうなずいた。灯真のためらう気配がひしひしと伝わってくる。
「……黎は、これまで、どういうふうに生きてきたの」
薄い氷の上にそっと石を落とすような、慎重な声だった。黎はうつむいたまま静かに瞠目する。
「なにか事情があるんだろうなってのは、最初からわかってた。訳ありだってわかったうえで、おまえをここに住まわせた。ほんとうはもっとはやく訊くべきだったのかもしれない。でも訊けなかった。最初は、ここまで長く一緒にいると思ってなかったし、そのうち出ていくだろうなって思ってたから、あえて訊かなかった。でも、思ってた以上におまえとの生活が楽しくて、気づいたらあっという間に半年以上たってて、今度は……訊けなくなった」
灯真はそこでそっと呼吸を整えた。黎は顔を上げずに灯真の話を聞く。
「おまえが踏みこまれたくなさそうにしてるのも、過去にふれてほしくなさそうなのも、なんとなく気づいてた。おまえの嫌なことは極力したくないと思ってる。でもこれはおまえのためとか言ってるけど、俺がただ逃げてるだけなのかもな。俺と出会う前のおまえが、どこでなにをしてどう生きてたのか知るのが、こわいのかもしれない」
こわい、という言葉に、黎ははつりと瞬きをする。のろのろと顔を上げると、灯真は弱々しい笑みを浮かべていた。
「でも、いつまでもそんなこと言ってられないんだよな。俺はこれからもおまえと一緒に暮らしたい。それなのに、おまえの見たいところだけ見て、知らないところは知らないまま目を背けようとしてた。それじゃ、いつかどこかで破綻すると思う。別にさ、なにもかもぜんぶ赤裸々に話してほしいってわけじゃない。でも、たとえば、なんでおまえがあの日、あんなところにひとりでいたのかとか、なんで誕生日わかんねえのかとか、おまえに帰る場所はあるのかとか、おまえに……保護者はいるのかとか。これから先も一緒にいたいと思うなら、知っておかないといけないことは、あるんだと思う」
灯真はそこまで言って長く息を吐きだした。一度目線を外したあと、真剣なまなざしで黎を見る。
「言いたくないことは言わなくていい。おまえの話したいこと、話せることだけでいい。嫌だと思ったらやめていい。だから……おまえが、黎がこれまでどうやって生きてきたのか、教えてもらえたら嬉しい」
灯真がぎゅっとくちびるを結ぶ。黎と丁寧に向きあおうとしてくれているのが痛いほどに伝わってきた。わかるからこそ、こわい。話すのが、こわい。黎はまた目線を逸らす。
「……きいても、おもしろくないよ」
「おもしろさを求めてるわけじゃないよ」
「きいたら、くがさん、おれのこときらいになるかも」
「なんだそれ」
灯真がふっと笑う。張りつめていた空気がほんのわずかゆるんだような気がした。
「嫌いになるようなとんでもねえ話なの?」
黎は黙ったまま目を逸らしつづける。灯真は「うーん」と小さくうなったあと、「黎」と呼んだ。
「おまえのこと、捨てるつもりはないよ。いまさら簡単に嫌いになると思えない。でもいろんなことは聞いてから考えるって言ったら、ずるいかな?」
それを聞いて、黎の目元からわずかに力が抜けた。肺に詰まっていた息を吐き、ゆっくりと灯真を見る。
「ずるいね」
黎が言うと、灯真が困ったように眉を下げた。
ほんとうにずるい。話したあとで、やっぱり嫌になったから捨てると言われるかもしれない。こわい。嫌われたくない。捨てられたくない。そう思うのに……このひとになら、話してもいいと思えてしまうところが、ずるいと思った。黎は深呼吸をしてから、まっすぐ灯真を見る。
「うまく話せないと思うけど、それでもいい?」
「もちろん」
灯真の表情が真剣なものに変わる。黎は膝を抱えた手にぎゅっと力をこめた。これまで誰にも話したことのない記憶をゆっくりとたどる。自分が、これまでどういうふうに生きてきたかを。




