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6-4


 灯真の見送りを終え、ローテーブルの前に座り深く息を吐く。ひとりきりの部屋は静かなのに、頭の中が騒がしい。灯真がいるあいだは平気だったけれど、ひとりになった途端に昨晩の記憶が怒涛のように押しよせてきた。黎はもう一度ため息を吐き、へなへなとラグに横たわる。

 なにかしたかった、と強く思う。灯真の誕生日を、ちゃんと祝いたかった。誕生日はめでたい日だということくらいは知っている。そこに自分は含まれないが。

 黎にとって、「なにかしてほしいことない?」は魔法の言葉だった。それを言えば飼い主たちは、なにかしらの要求を黎に伝えてくれる。たいていの場合セックスの内容か癒し、甘やかしで、物や金を要求されることはなかった。要求されたところで黎がなにも用意できないことは、彼ら彼女らもわかっていただろうから。

 飼い主たちに言われた「してほしいこと」を繋ぎあわせて、黎はこれまで生きてきた。明言されていなくても「してほしいこと」があるならなんとか察することもできた。

 それでも飼い主たちはいつのまにか、「してほしいと言ってないこと」を黎がやっていなかったら黎に不満を持ったり、「しなくていいと言っていたはずのこと」を黎に要求してくるようになった。そうして最後は、黎に愛想を尽かして追いだした。例外はほとんどない。飼い主たちの欲求を満たすのが黎の役割で、「してほしいこと」ならどんなことでもできる限りするのが飼ってもらうための対価で、それができなければ捨てられる。それが当たり前だと思っていた。

 でも、灯真は違う。半年以上一緒に暮らしてきて、灯真になにかを求められたことはあまりない。最近になってようやく食べたい料理をリクエストしてくれたり、膝枕してほしいと言ってもらえるようになってきたくらいだ。そしてどんなときでも必ず、灯真は黎に「嫌だったら嫌だと言え」と前置きをしてきた。嫌だと思うことはないし、嫌だと思う権利もないし、嫌だと思ったとしてもそんなことは表に出さず、相手のしてほしいことはするのが黎の役割だと思っていたのに。

 これまで灯真になにかをされて嫌だと思ったことは一度もない。でももし今後そう思ったとして、それを黎が態度に出したら、灯真は二度とそれをしないんだろうな、と黎は思っている。もしかしたらそのときは黎の気分じゃなかったと判断して、また後日同じことをしてくるかもしれない。けれどその可能性は低いだろうなと思っているし、無闇に試す勇気はない。そんなことをして灯真が甘えてくれなくなるほうが困る。だって、灯真を甘やかしたい。これまでの飼い主たちのように求められたからそうするのではなく、自分から積極的に甘やかしたいと思っている。思っているのに、そのチャンスはなかなか訪れない。黎も自ら進んで誰かを甘やかしてきたことがないから、どうすればいいのかまだ測りあぐねている。

 そんな黎にとって、昨日はおそらく大きなチャンスだったはずなのに。小さなため息がラグに吸いこまれる。

 灯真が黎にはっきりと肉じゃがを食べたいと言ってくれたのだから、ちゃんとしたものを作りたかった。灯真は昨晩の不完全な肉じゃがでも満足したと言ってくれたし喜んでくれていたのだから、それでいいはずだ。わかっているのにどうしても割りきれないまま、ぐずぐずと同じことばかり考えていた。どれだけ考えたところで灯真の誕生日は昨日で終わったし、昨日に戻って正しい肉じゃがを作ることはできないし、そもそもどうがんばっても昨日足りなかった具材は用意できないのだが。だって黎には、自由に使える金がない。

 お金があれば、と黎は考える。お金があれば、足りない具材を買ってくることができた。灯真の誕生日を祝うプレゼントを買うこともできたかもしれない。どんなものが欲しいのかはわからないけれど、お金があれば、用意できたかもしれない。お金さえあれば。

 灯真はもちろん、かつての飼い主たちからも、お金をもらったことは一度もない。飼い主たちからは気まぐれのようにあげると言われたことは何度かあったけれど、黎はそれをすべて断っていた。

 対価として住む場所と食事を与えてもらっているのに、そのうえでさらにお金をもらうなんておそれおおいし、持っていたとしてもどうせ自分のためには使わない。欲しいものはなかったし、生きていくのにどうしても必要なものは飼い主たちが与えてくれていたから、自分で買う必要がなかった。プレゼントと称して飼い主たちのために使うなら、最初から飼い主が持ったままのほうがいいと思っていた。

 それに、どうせ最後は着の身着のままで追いだされる。飼い主たちのもとから持ってこられたものなんて、そのとき着ていた服と履物以外にはなにもなかった。それならなおさら、お金をもらったところでどうしようもない。

 もしもお金が稼げたら、と想像してみたことは何度かある。でもそれはむりだ。まともに学校へ通ったことさえない自分が、働けるはずもない。そもそも世の中にはどんな仕事があって、自分にはどんな仕事ができるのかすらもよくわかっていなかった。

 けれど今は、お金があれば、と強く思っていた。お金があれば、灯真のためになにかをできていたかもしれない。正解の肉じゃがを作ることも、プレゼントを買うことも、――灯真に恩を返すことも、できたのかもしれないのに。

 おまえに出会えてよかったと思ってるよ。昨晩の灯真の声が、ふいに鼓膜によみがえる。なんとなくおちつかない気分になって、黎は寝転がったまま膝を抱えるように体を丸めた。

 出会えてよかったなんて言ってくれたのは、灯真が初めてだった。黎もまた、灯真と出会えてよかったと思っている。黎を拾ってくれた灯真に対して、強い恩を感じている。

 黎はこれまで、誰かに飼われていないと生きていけないと思っていた。おまえはわたしがいないと生きていけない。幼いころに聞かされつづけた言葉は、それを言った母がいなくなった今もなお心の奥底にこびりついている。

 実際、母にも飼い主たちにも世話をしてもらわないと生きていけなかった。ひとりでは食事の用意も、着ていた服の洗濯もできなかった。わたしがいないとだめだね。呆れたように言う飼い主たちの口端がいびつに上がっていたのを覚えている。そのとおりだった。黎は、母や飼い主がいないと、だめだった。

 でも、今は違う。黎はもうひとりで料理ができるようになったし、料理の最中に手が空いたら洗い物や片付けだってできるようになった。洗濯機の使い方も、掃除のやり方も覚えた。風呂とトイレとキッチンではそれぞれに違う洗剤を使うこともわかるし、乾燥まで終わった洗濯物を畳むこともできる。ゴミの分別だって、灯真に確認しなくてもわかるようになってきている。

 ぜんぶ、灯真が教えてくれた。

 自分で身の回りのことができるようになって、黎は自分が今までほんとうにペットのように生きてきたのかもしれないと思いはじめた。呼吸をして、食事をして、眠って、合間に飼い主を癒すだけ。

 でも今の自分は、少しずつ人間みたいな生活ができるようになっているのではないか。最近、そう思うことが増えてきた。

 最初は灯真のためになにかをしたいと思ったのがきっかけだった。灯真にしてもらってばかりではなく、自分からもなにかしたい、と。

 対価を渡さなければ、役に立たなければいけない。そんな理由ではなく、自分から誰かのためになにかをしたいと思えたのは、灯真が初めてだ。これまでの飼い主たちと灯真とで違うことはたくさんある。けれどどうして灯真にだけは自分からなにかをしたいと思ったのかは、まだよくわからないままだ。

 きっかけはたしかに灯真のためだし、今も料理は灯真に食べてもらえることがモチベーションになっているところはある。でも前より手早く調理できるようになったり、初めての料理をレシピどおりにちゃんと作れたりすると、食事で腹を満たすのとは違う満足感を覚えてもいた。灯真が食べなかったとしても、それですっぱりと料理をやめてしまうことはないだろうと思っている。

 掃除だって、灯真が毎週やってくれているから黎がやるまでもなく家の中はきれいだし、灯真の言葉どおり、ほんとうにやってもやらなくても変わらないんだと思う。しかし、自分でも掃除をすると、心地よい疲労感と充足感に包まれる。

 そう。きっかけは灯真のためだったかもしれないけれど、今はそれだけでもないのだ。灯真のおかげで家事を覚えられた。でも灯真がいなくなったとしても、覚えたことはきっと忘れない。……灯真が、いなくなったとしても。黎は膝を抱えたまま、そっと息を吐く。

 灯真とずっと一緒にいられたら、と思う。灯真もずっとここにいていいと言ってくれている。けれど黎は、いつか来るかもしれない終わりを考えずにはいられなかった。普段はそこまで強く意識しているわけでもないが、ふとしたときに暗闇の中からふっとそんな考えが湧いてくる。

 これまで黎にとって、飼い主たちから捨てられる日が来るのは当たり前のことだった。過ごした時間の長さに関わらず、いつか必ず捨てられる。例外はない。誰かに飼ってもらわないと生きていけないから、捨てられたらまた飼い主を探さないといけない。黎はずっとそうやって生きてきた。

 でも今なら、家事を覚えた自分なら、もしかしたら、誰かに飼ってもらわずともひとりでも生きていけるんじゃないだろうか。夢物語かもしれないが、黎はほんのりとそんなことを思っていた。

 住むところとお金さえあれば、食事の用意はできる。家の掃除も、洗濯も、ゴミ出しもできるし、ひとまず生活はできるのではないだろうか。

 買い物のやり方だって、灯真の隣で毎週見ているからなんとなくわかってきた。文章の読み書きも昔よりできるようになったし、計算だって簡単なものならできるようになった。少なくとも、誰かに飼われないと生きていけなかったころとは違う。自分でできることがこの半年あまりでたくさん増えた。

 もっとも、その住むところとお金を確保するというのが、黎にとってはいちばん難しいことなのだが。

 とにかく、灯真に捨てられたとしても、なんらかの理由で離れて暮らすことになったとしても、前のような生き方には戻らないんじゃないか、と黎は思っていた。灯真は黎に、生きる術を教えてくれた。これがあれば、この先ひとりになったとしても生きていけるかもしれない。灯真が教えてくれた生きる術と、灯真と過ごした記憶があれば。

 灯真のためになにかしたいと自分から思えたことで、家事を覚えられた。それは元をたどれば、灯真が黎にタブレットを買ってくれたことが大きな始まりなのではないかと思っている。黎がやりたいと思えることを探せるように、灯真が導いてくれた。そこから少しずつ、少しずつ自分でやりたいことを探せるようになり、自分で物事を考えられるようにもなってきた。灯真が黎をペットではなくひとりの人間として扱ってくれたから、黎は、人間に近づけている。

 だから黎は、灯真に強い恩を感じていた。灯真が拾ってくれたおかげで、昔の自分とは違う自分になれたのだから。

 この恩を返したい。黎はここ最近強く思うようになっていた。お礼がしたいという言葉では足りない。恩返しがしたい。そう思いはするものの、なにをすればいいのか、黎には見当もつかなかった。「なにかしてほしいことない?」は灯真には通用しないのだ。黎が自分で考えて、恩返しの手段を見つけなければならない。それは好きなことを見つけるよりも、途方のないことのように思えた。

 お金があれば。黎はぼんやりと考える。お金があれば、灯真に恩を返す手段も見つけられるかもしれないのに。

 お金があったからって、なにもできないかもしれない。なにか欲しいものがあったとしても、灯真は自分で買えるだろう。黎がわざわざ買う必要はない。

 でもお金があれば、少なくとも黎にかかるお金を自分で払うことはできる。食費、日用品、灯真が定期的に連れていってくれている美容院……。生きているだけでお金がたくさんかかることは知っている。母がそう言っていたから。

 灯真がそれを喜ぶかどうかはわからない。そうしたところで恩返しになるかもわからない。でもお金があれば、それをお試ししてみることもできるのに。今はお金がないから、試すこともできない。

 それにお金があれば、学校にだって通えるかも。黎はローテーブルの下の収納箱にちらりと目を向ける。

 箱のいちばん上には算数ドリルが乗っている。昨日もよくわからないところがあったけれど、灯真に聞くタイミングがなかったから今もわからないままだ。つまずいてばかりで、進みは遅い。それでも、昨日は一ページ進めることができた。灯真に教えてもらうこともあるけれど、黎が自力で解いているのだ。学校で習ったことのないところなのに。

 難しい漢字が読めないままなのは恥ずかしくて嫌だという理由で、漢字ドリルを始めた。それが今は自ら進んで勉強しているなんて、灯真に拾ってもらう前の自分が聞いたら絶対に信じないだろう。もしくは、衝撃を受けすぎて絶句するかもしれない。以前の黎にとって、勉強とはそれほどまでに縁遠いものだったし、忌むべきものでもあった。

 それなのに今は、誰に強制されることもなく、やりたいからやっている。

 勉強したってわかるようになるわけがないとずっと思っていた。でも今は、難しい漢字も少しずつ覚えられている。手を使わなくても計算ができるようになったし、足し算だけじゃなくて引き算もかけ算も割り算もできるようになったし、九九だってなにも見ずに言えるようになった。学校に行っていたときは、ちっとも覚えられなかったのに。筆算のやり方も覚えたから、時間をかければ何桁でも計算できるようになったし、簡単なものなら暗算でもわかるようになった。分数の計算だって、少しずつできるようになってきている。自分が、と考えると、なんだかふしぎな気分だった。

 黎がおとなになったからできるようになったのかはわからない。もしかしたら灯真の家で勉強できているからなのかもしれない、と思う。学校は黎にとって、ひとつも心休まる場ではなかったから。

 この家には、灯真と黎のふたりだけ。灯真は黎を傷つけないし、できなくても笑わない。だから黎も、こわがらずに勉強と向きあいつづけられているのかもしれない。

 灯真の影響で黎は自分の中にも、やってみたい、という気持ちがあることに気づかされた。なにかができるようになると、その気持ちはますます強くなる。掃除ができるようになるともっと手早く丁寧にやってみたくなるように。料理ができるようになると他のレシピも作ってみたくなるように。黎の中には今、他にもいろんな勉強をやってみたいという気持ちがうずうずと芽生えていた。

 学校では国語と算数以外にどんなことを勉強していただろうか。ほとんど覚えていない。たいして通っていないのもあるだろうが、学校の記憶はひどくおぼろげで断片的だ。勉強の内容までは思いだせなかった。あのころは学校へ行くのも勉強するのも乗り気でなかったのに、今となってはそれがもったいないことだったのかもしれないとさえ思いはじめている。とはいっても、あのままきちんと学校に通えていたとして、今のように勉強をやってみたいと思えているかはわからないが。

 学校で勉強してみたい。小学校だけじゃなく、中学校や、高校のことも。学校へ行けば、ちゃんと勉強して卒業できれば、仕事もできるかもしれない。

 黎はふわふわとそんなことを考えては、それを自分でうちけしてきた。学校へ通うなんて、それもまた夢物語だ。黎は学校には行けない。お金がないからだ。学校はお金がたくさんかかると、母が言っていた。


「はーあ」


 黎はわざと声に出してため息をつく。

 お金がないから学校へ行けない。学校へ行くためにはお金を稼がなければならない。お金を稼ぐためには仕事をしなければならない。けれど仕事をするためには、学校を卒業していないといけない。学校を卒業するためにはお金がいる。なのに黎にはお金がない。肉じゃがの材料すら自分で買うことができない。堂々巡りだ。

 黎は寝転んだまま手を伸ばし、収納箱からタブレットを取った。検索アプリに、仕事、と入力してみる。出てきた検索結果をするするとスクロールしてみたけれど、今度は意図していないため息が静かに口からこぼれおちた。

 検索してみたところで、ここからどうやって仕事を見つければいいのかわからない。そもそも自分のように学校へまともに行ったこともない人間が仕事をできるのかもわからない。なにもわからないけれど、今の自分が行き止まりにいることはうっすらとわかる。ずっと毎日を生きることでせいいっぱいだった。自分に与えられた役割をまっとうすることに必死で、自分の状況に目を向けたことなどなかった。目を向けたら自分がどうしようもないことに気がついてしまうから、見ないようにしていたのもあるだろう。

 以前美容室でチバに髪を切ってもらっているとき、これからなんでも挑戦できる、みたいなことを言われたのを覚えている。でも実際は、挑戦なんてできないのかもしれないとも思ってしまう。

 お試し、と言う灯真の笑顔をふいに思いだす。学校も、仕事も、お試しできたらいいのに。学校に行って、仕事もできたら、きっと灯真に恩返しができるのに。

 黎はもう一度「はーあ」と声に出し、タブレットをラグに置いた。そのままとろりと目を閉じる。

 今は体を起こす気分になれない。少しだけ眠って、起きたら勉強をしよう。

 これは逃げているだけなのかもしれないと頭の隅でぼんやりと思いながら、黎はラグの上でまどろんだ。


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