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6-11


 学校に行かないまま、春になった。ほんとうなら四年生になっていたはずだ。けれど、学校にはちっとも未練がわかなかった。

 背が伸びたからか、一年生のときに買ってもらった服は小さくなってしまった。腕まわりも足まわりもすかすかしているのに、丈が短い。腹は丸出しになるし、足首まであったはずのズボンの裾は、ふくらはぎのあたりまでしかなかった。

 でも破れたわけではないし、なによりたくさん服を買ってもらったのにまた買ってほしいと母に言うのは気が引けたから、そのままにしていた。母はなにも言わなかったから、これが正解なんだと思っていた。

 一方、母は黎の知らない新しい服を着ていることが多くなった。母は自分の服を買えないと泣いていたけれど、黎が学校に行かなくなったから服を買えるようになったのかもしれないと思った。きれいな服を着てきれいな髪型できれいな化粧をしている母はとてもきれいだったから、母には黎のことなど気にせずそのままでいてほしかった。

 母はほとんど家にいなかったけれど、ごくたまに夜も家にいたときは、誰かとずっと電話していた。ハルナのように甘い声で楽しそうに笑う母を久しぶりに見て、なんだかとても嬉しくなった。

 そのころの母はいつも機嫌がよさそうで、泣くことも怒ることもなかった。電話の相手のおかげなのかもしれないと思っていた。

 母が黎を見ていなくても、母とのあいだに会話がなくても、母が楽しそうにしているならそれでよかった。ほんとうはもう少し母と一緒にいたかったけれど、それはわがままだと思っていた。






 暑くなりはじめたある日、夜になっても母が昼の仕事から帰ってこなかったことがあった。そんなことはこれまで一度もなかった。

 母が帰ってこない理由がわからなかった。なにか大変なことが起こったのではないかと思うと気が気ではなかった。座ってなんかいられなくて、真っ暗な部屋の中をうろうろと歩きまわった。その最中、いろんなものにぶつかったり蹴飛ばしたりしてしまった。いつもなら怒られるかもしれないとこわくなるし、昨日の夜からなにも食べていないからおなかもずっと鳴っていたけれど、そんなことぜんぶ気にしていられないくらい不安でしかたなかった。

 結局朝になっても母は帰ってこず、黎は気づけば泣きながら眠っていた。外から物音が聞こえた気がして飛びおきては、いつまでたってもひらかないドアを見てがっかりした。

 そうして待ちつづけていたら、母は夕方になってあっさりと帰宅した。黎が慌てて駆けよると、母は一瞬驚いた顔をしたあと、すっと目を逸らした。


「もうかえってこないとおもった」


 泣きじゃくりながら言うと、母は少しだけ笑って「帰ってくるよ」と言ってくれた。母がそう言うのならと黎は安心した。

 母はその夜は出かけず、黎は母の気配がある家でゆっくりと眠ることができた。できることならもう二度と、あんな思いはしたくないと思った。

 けれどそれから少しもたたないうちに、また母が帰ってこない日があった。黎はその日も心配でしかたなかったけれど、母が帰ってくると言っていたのを信じておとなしく待っていた。母に言われたとおり、いいこにしていようと思った。

 結局翌日の夕方に、母はまた帰ってきてくれた。待っていれば母はちゃんと帰ってきてくれるのだと黎は学んだ。母が帰ってきてくれるのなら、ひとりぼっちの留守番も我慢できると思った。

 それからも母は何日かごとに、夜になっても帰ってこない日があった。母が朝出かける前、今日は帰ってくるのかと注意深く様子をうかがってみたものの、帰ってくる日と帰ってこない日で違いがあるのかはわからなかった。

 そのころには母が帰ってこないことにも少しずつ慣れてきてしまって、無駄に歩きまわったりすることもなく、真っ暗な部屋でしょんぼりと膝を抱えながら待てるようになった。待っていれば、母は必ず翌日に帰ってきてくれたから。






 本格的に暑くなった、ある日のことだった。

 昼の仕事から帰ってきた母が渡してくれたレジ袋に、弁当だけでなく菓子パンがふたつ入っていた。そんなことは今までなかった。黎はふしぎに思いながらも弁当だけをもらい、パンは袋ごと母へ返そうとした。けれど母はそれを受けとらなかった。


「おなかすいたら、食べな」


 母は詳しいことはなにも言わず、黎にそれだけ言った。これは自分の菓子パンなのだとわかり、黎は大いに喜んだ。菓子パンはめったに食べられない甘くておいしいものだったから。そのころの黎は常におなかがすいていたけれど、せっかく買ってもらったのだからすぐに食べてしまうのはもったいないと思い、大事に少しずつ食べることにした。

 スナックへ一緒に行けなくなってからは急ぐ必要もなくなっていたので、出かける支度をしている母を眺めながらのんびりと弁当を食べた。母はいつものようにきれいな服ときれいな髪型ときれいな化粧で、いつもよりも大きな鞄を持って出かけていった。

 母はドアをあける前、振りかえって黎を見た。目が合った嬉しさで少しだけさみしさがまぎれ、「いってらっしゃい」と手を振った。母はなにも言わずぱっと目を逸らし、足早に出かけていった。

 黎は弁当を食べおえ、束の間の満腹感を覚えながら、ランドセルと菓子パンを眺めてとろとろとまどろんだ。朝になって母が帰ってくるのが待ちどおしかった。

 けれど母は、朝どころか昼になっても帰ってこなかった。黎は激しくうろたえた。最近は昼の仕事から帰ってこないことはあったけれど、夜の仕事から帰ってこないことはなかったから。

 母は必ず帰ってくる。だって、帰ってくると言っていた。今までだってちゃんと次の日には帰ってきてくれたのだから、今回だって、ちゃんと帰ってきてくれる。

 自分にそう言いきかせながら母を待ちつづけたけれど、とうとうその日は、夜になっても母は帰ってこなかった。大事に食べようと思っていた菓子パンは、耐えきれずひとつだけ食べた。真っ暗な部屋でもそもそと食べる菓子パンは、たまにしか食べられない贅沢だったはずなのにあまり味がしなかったし、いつもの弁当と違って食べても満腹になれなかった。だからといってすぐにふたつ食べるのはやはりもったいなく感じ、次に空腹を我慢できなくなったら食べることにして取っておいた。黎はその日、ランドセルを強く抱きしめたまま浅い眠りと覚醒をくりかえした。

 外がだんだんと明るくなって、朝になっても、母は帰ってこなかった。腹の音が止まらなくなったので、結局昼ごろにはふたつめの菓子パンも食べてしまった。めそめそと泣きながら食べたパンも味がしなかった。母は、その日も帰ってこなかった。真っ暗な部屋には、自分の腹の音がずっと響いていた。

 母が帰らないまま三度目の夕方になり、もしかしたら今日も帰ってこないのではと怯えはじめたころ、突然母が帰ってきた。母の顔を見た途端、黎はわんわんと泣きじゃくってしまった。


「泣かないでよ、うるさいな」


 不機嫌そうにくちびるを尖らせた母に叱られ、黎は必死に涙をこらえた。泣きながら食べた弁当の味もあまりわからなかった。

 その夜、母はどこにも出かけずに黎のそばで眠ってくれた。けれど黎は、自分が寝ているあいだに母がいなくなったらどうしようと考えるだけでおそろしくてたまらなくて、せっかく母がいるのにあまり眠れなかった。

 それから何回か同じようなことがあった。母が弁当の他に菓子パンも買ってきてくれると、そこから何日か母が帰ってこなくなるという合図だとわかった。最初はそれがわからず、菓子パンを頻繁に食べられることをのんきに喜んだりもしていたが、そんな喜びもすぐに消えてしまった。いつも同じ弁当でも、なんならなにも食べられなくてもいいから、母にいてほしかった。それはわがままだとわかっていたから、黎はなにも言えなかった。

 菓子パンは大事に少しずつ食べるようにしてはいたけれど、いつもすぐにおなかがすいてしまい、長持ちはしなかった。水道の水を飲むと少しは空腹がまぎれると気づいてからは、水をたくさん飲むようにしていた。

 それでも我慢できなくなったら、自分の親指をしゃぶった。嚙むようにしてしゃぶっていると、なにか食べているわけじゃないのに少しは食べた気分になれた。母が帰ってこない日が増えるにつれて、黎の親指はぼろぼろになっていった。







 母がいなくてさみしい夜も、ひとりぼっちのおそろしさも、手足がしびれて力が入らなくなるような空腹も、がんばって我慢できた。我慢していたら、いつか必ず母が帰ってきてくれるとわかっていたから。母がどうして帰ってこないのかはわからないけれど、きっとスナックの仕事をがんばっているんだろうと思っていた。留守番しているあいだは、明るく笑うハルナの姿を思いだしていた。

 学校に行かなくなっても、母が帰ってこない日が増えても、黎は毎日シャワーを浴びるようにしていた。母にそう言われていたから。空腹で動くのが億劫でも、体を引きずるようにして浴室へ向かった。風呂に入ったあとは毎日同じタオルを使って体を拭き、ずっと同じ服と下着を着ていた。

 タオルはだんだんと硬くごわつくようになり、いつしか変な形に固まって戻らなくなった。拭いても拭いてもうまく拭けず、頭も体も濡れたままだった。自分からは顔をしかめてしまうくらい嫌なにおいがしていたけれど、そのうち慣れたのかよくわからなくなった。

 それでも黎は、風呂に入るようにしていた。シャンプーやボディーソープがなくなっても、シャワーだけは浴びるようにしていた。あたたかいお湯を全身に浴びているあいだは、少しだけ気分がほぐれるような気がしていた。

 けれどあるとき、どれだけお湯を出そうとしても冷たい水しか出てこなくなってしまった。母に教えてもらったとおりのことを、今までと同じようにやっているはずなのに。しかたないから冷たい水を頭からかぶると、がちがちと歯が鳴るくらい体が震えた。

 黎は自分がシャワーを壊してしまったからお湯が出なくなったのだと思っていた。数日ぶりに母が帰ってきたとき、怒られるのを覚悟でお湯のことを伝えた。しかし母は「そうなんだ」と言っただけだった。母はいつからか、家で風呂に入らなくなっていた。でも母は会うたびいいにおいがしていた。

 結局それ以降も、シャワーからは水しか出なかった。しかたないので、黎はそのまま水でシャワーを浴びつづけることにした。

 冷たいシャワーを浴びたあとは、いつも体が冷えきっていた。家の中は汗をかくほど暑いはずなのに、シャワーを浴びてしばらくは体の震えが止まらなかった。

 お湯が出なくなってからは、よりいっそう髪がべたべたするようになり、体もかゆかった。かゆいところを掻くと、伸びっぱなしの爪のあいだにカスのようなものがたまるのがふしぎだった。

 冷たいシャワーにも少しずつ慣れてきたころ、体がだるくて起きていられなくなったことがあった。頭がぼうっとするし、ずきんずきんと痛いし、夏のはずなのに寒くて寒くてしかたなかった。ふとんにくるまっても体ががたがたと震えていた。

 しばらくすると今度は体が熱くなってきた。それなのに体の真ん中は冷たいままで、肌がぞわぞわしていた。おなかがすいたし喉も渇いていたけれど起きあがってなにかをする元気はなくて、黎はランドセルを抱きしめたままふとんの中でひたすらじっとしていた。

 なぜか無性にさみしくて、勝手に涙があふれてきた。はやく母に会いたかった。はやく帰ってきてほしかった。ぐったりしている黎を見て、頭を撫でてほしかった。

 黎の願いが通じたのか、体がおかしくなった翌日には母が帰ってきてくれた。おかえりなさいと母を出迎えたかったけれど、起きあがる元気はなかった。それに、横になっていたら、母がいつもと違う黎の様子に気づいてくれるかもとも思っていた。

 けれど母は、黎になにも言わなかった。いつものレジ袋を枕元に置いただけで、すぐに黎のそばを離れてしまった。このままではまた母がいなくなると思い、黎はなんとか気力を振りしぼって起きあがった。


「おかあさん」


 かすれた声で母を呼ぶと、母が黎を見た。母は無表情だった。


「おかあさん、からだ、へん。だるい……」


 なんとかそう言うと、母の眉が迷惑そうに歪んだ。


「なに、体調悪いの? 寝てれば治るから」


 母はそれだけ言って、黎にふれることもなく出かける支度を始めてしまった。黎は母の姿を目で追いながら、くちびるを嚙んだ。

 一緒にいてほしかった。頭を撫でてほしかった。でもそんなわがままを言ってまた迷惑そうな顔をされたらと思うと、なにも言えなかった。

 その日も、母が家にいたのはほんのわずかな時間だけだった。そのころの母は何日かに一度、夕方ごろに家に帰ってきて黎の食事を置いたあと、すぐにまた出かけるようになっていた。ここしばらく、母とはほとんど一緒に過ごしていなかった。おかあさん、とドアの向こうへ呼びかけた声は音にすらならなかった。

 黎は母に言われたとおり、とにかく眠った。眠くなくても目を閉じて横になっていた。食欲はあまりなかったけどおなかがすいていたから、横になったままパンをかじった。水を飲むために起きあがらないといけないのはつらかったけど、喉が渇いているほうがもっとつらかったからがんばった。

 ひたすら横になりつづけたからか、母が帰ってきた翌々日には体のだるさがいくぶんかやわらいでいた。母の言うとおり、寝ていれば治ったのだ。母はすごいと思った。母の言うとおりにしていればいいのだ。母の言うことが正解なのだ。

 だから母が前に言ったとおり、いいこにしていれば母はいつかずっと家にいてくれるようになると思った。母があまり家にいないのは、黎がまだいいこじゃないからだと思っていた。





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