6-2
「ごちそうさまでした」
手を合わせた灯真が、満面の笑みで言う。黎も同じように手を合わせて挨拶をしたけれど、灯真のような元気は出せなかった。灯真は椅子の背もたれに体を預け、
「あー、うまかった。ありがとな」と腹をさする。
夕飯は灯真のリクエストどおりに肉じゃがを作った。しかし、具材が揃ってないから今までと同じようなものを作ることはできなかった。
失敗したわけではないし、食べられないような味だったわけでもない。灯真は食べているあいだずっとにこにこと笑っていたし、何度もおいしいと言ってくれた。食べたいと言っていた灯真自身が喜んでくれているのだからそれでいいと思うものの、やはり正しい状態のものを出せなかったのが気になってしかたなかった。灯真も黎の心情を察しているのかもしれない。テーブルに頬杖をつき、ふっと眉を下げる。
「納得いってない?」
黎は素直にうなずく。
「おいしかったのに」
「でも……」
でも、と言ったものの、その先に続く言葉が見つからない。きれいに空になっている灯真の皿をじっと見ていると、灯真がくつくつと喉を鳴らした。
「いいじゃん。レシピどおりに作れるのもすごいけど、今あるものだけでなんとかできるのもすごいことだと俺は思うよ」
その言葉を聞いて、黎はそろりと灯真を見る。灯真は穏やかに笑っていた。
「レシピをアレンジするのはなんも間違いじゃないし、実際、すげえおいしかったよ。お世辞なんかじゃないの、おまえもわかってるだろ?」
そう言って、灯真はにっと口角を上げた。黎の口元もつられてかすかにゆるむ。
「そもそも俺が無茶振りしたのが発端なのに、おいしい肉じゃが作ってくれてありがとな」
黎は小さくうなずいた。あんまり納得はできていないけれど、灯真が喜んでくれたなら、それでいいのかもしれない。
「黎、まだ腹に余裕ある?」
どことなくそわついた様子で訊かれ、黎はうなずく。すると灯真の目がぱっと輝いた。
「んじゃさ、一緒にケーキ食おうぜ」
「ケーキ?」
灯真の提案に、思わず声がもれる。急にどうしたんだろう。黎がきょとんとしていると、灯真は食器をまとめて下げ、冷蔵庫から箱を取りだした。灯真が帰ってきたときに持っていたものだ。なんだろうとは思ったものの、黎からはふれていなかった。あれは、ケーキの箱だったんだろうか。でもなんで?
片手に丸皿を二枚とフォークを二本、片手に箱を持った灯真が、食卓に戻ってくる。まだ状況についていけてない黎をよそに、灯真はうきうきと箱をあけた。中のケーキを皿に移す。
いちごの乗ったショートケーキと、チョコレートのケーキ。そのふたつが乗った皿を、灯真は黎の前へ移動させた。それを見て「え」と声をもらす。
「おまえのぶんもふたつあるけど、食べきれなかったら残していいから」
灯真は箱の中からまたケーキを取りだしていた。どうやら灯真のぶんも同じ組み合わせらしい。そのままいそいそとフォークを持った灯真に、黎は「あの」と呼びかける。
「久我さん、これ」
「ん?」
「なんで、ケーキ」
「食べていいよ。黎のぶんだから。いらない?」
灯真に訊かれ、黎は混乱したままケーキを見る。いらないわけではない。食べていいと灯真が言っているのだから、言葉どおり受けとっていいのだろう。でも、自分はなにもしていないのに。
黎がうろたえているあいだに、灯真はケーキを食べはじめた。ショートケーキをひとくちほおばり、「うま!」と目を輝かせている。なんだかそのあどけない表情のせいか、黎の体からふっと力が抜けてしまった。目の前のケーキからただよう甘いかおりに、こくんと喉が鳴る。
「……食べていいの」
「いいよ。いっぱい食べな」
「俺、なんにもしてないのに?」
黎が訊くと、一拍遅れて灯真がふはっと笑った。
「あたりまえじゃん。なんもしてなくてもケーキは食べていいんだよ」
そうなのか、と黎は目を丸くする。ケーキは特別なごほうびだと思っていた。なにもしていなくても食べていいのか。しかも、ふたつも。
黎はちらりと灯真の様子をうかがう。灯真は頬をゆるませてケーキを食べすすめていた。黎の視線に気づく様子はない。黎はおずおずとフォークに手を伸ばし、ショートケーキの三角の先端をフォークで切りとった。そうっと口へ運ぶと、口の中いっぱいに頭が痺れそうなほどの甘みが広がる。ぱちぱちと目を瞬かせていると、灯真が吐息だけで笑った音が聞こえた。どうやらこれは灯真に見られていたらしい。
「黎、甘いもの好き?」
灯真に訊かれ、黎は食べながら考えこむ。どうなのだろう。食事の好き嫌いさえあまりわかっていないのに、甘いものを食べたことがほとんどないから、なおさらわからない。でも、と黎は小さく息を吸い、灯真を見る。
「わかんない。けど、おいしいのは、わかる」
「だろ!」
黎の返事を聞いて、灯真がぱっと顔をほころばせた。
「これ、スーパーの近くにあるケーキ屋さんで買ってきたんだけどさ。おいしいんだよ、そこのケーキ。たまーにしか行かないんだけど」
「久我さんは、甘いもの好きなの?」
「毎日食べたいってほどじゃないけど、好きだよ。たまに食べたくなる」
そうだったのか、と黎はかすかに顎を引く。会話が途切れ、灯真はまたケーキに手をつけた。どうやらショートケーキとチョコケーキを交互に食べすすめているらしい。どちらも半分ほど減っていた。なんとなく真似してみたくなって、黎もチョコケーキを食べる。ショートケーキの生クリームの甘さとは違う、チョコレートの濃厚さが舌の上に広がった。
「あー、コーヒー飲みてえ。先淹れればよかった。黎も飲む?」
「久我さんが飲むなら」
「ん」
灯真はケーキを途中にして立ちあがり、キッチンへ向かった。そのままコーヒー豆をがりがりと挽きはじめる。ケーキの華やかな甘い香りにコーヒーの香ばしさが混ざった。なんだか、とても贅沢なことをしている気分だ。黎はゆっくりとケーキを食べながら、はふりと息を吐いた。
甘いものを食べるのは、ずいぶんと久しぶりだ。灯真と暮らしはじめてからは、たしか一度もない。その前まで遡ることになるが、最後に食べたのがいつかまでは思いだせなかった。ましてや、お店のケーキなんて。初めてではないはずだが、かなり遠い記憶だ。そのとき一緒に食べた飼い主の記憶がふっとよみがえりそうになり、黎はあわててかぶりを振った。静かな部屋に、お湯が沸くしゅんしゅんという音が響く。
しばらくして、灯真がふたりぶんのコーヒーを持って戻ってきた。
「ありがと」
礼を言ってマグカップを受けとると、灯真がにっと笑った。向かいに座りなおした灯真が、ゆっくりとコーヒーをすする。黎もコーヒーを飲むと、口の中を満たしていた甘さがコーヒーの苦味で流されていった。甘いものと苦いものを一緒に口にするのはこれが初めてだが、どうやら相性がいいらしい。ふしぎだ。真逆なのに。
目の前の灯真をちらりと見る。灯真は見るからに上機嫌でケーキとコーヒーを楽しんでいた。なんだかよくわからない流れだったけれど、灯真が楽しそうにしているならそれでいいか。黎もまなじりをかすかにゆるませ、黙々と食後のデザートを食べすすめた。
黎が最後のひとくちを食べおえたときにはすでに灯真もケーキを食べおわり、かすかにほほえんでコーヒーを飲んでいた。黎も少しぬるくなったコーヒーを飲み、一息つく。ちらりと灯真を見ると、黎の視線に気づいたのか灯真もこちらを見た。黎は小さく息を吸いこんでから口をひらく。
「久我さん」
「んー?」
「今日、なんで、ケーキ買ってきたの?」
たぶんこれは、灯真にしてみればなんでもない質問なんだと思う。けれど黎は、灯真になにかを訊くときいまだに緊張してしまっていた。
灯真の目がきょろりと泳ぐ。それから落ちつきなく座りなおしたかと思うと、今度は指先で頬をかいた。「あー……」と小さくうなっているのを聞いて、黎は思わず目を瞬かせる。なんだか、ものすごく言いにくそうだ。もしかしたら、深い事情があったのかもしれない。やっぱりいい、と言おうとしたけれど、それよりも先に灯真が口をひらいた。
「俺さあ。今日、誕生日なんだよね……」
歯切れ悪くこぼされた言葉の意味を、黎は最初、うまく理解できなかった。たんじょうび。たんじょうび。頭の中で灯真の紡いだ音をくりかえしなぞっているうちに、は、と息を呑む。誕生日?
「え、久我さん、誕生日?」
動揺しながら訊くと、灯真ははにかみながらうなずいた。途端、心臓がどくんと大きく跳ねる。
「くがさん、たんじょうび……」
同じことを口に出してくりかえす。頬がひきつっているのが自分でもわかった。あまりの衝撃に、せわしない瞬きが止まらない。
「なんで、言ってくれなかったの」
「えー、だって、自分から誕生日アピールするのって、なんか恥ずかしいじゃん。学生とか若い子ならまだしも、もう三十過ぎてるおっさんだぜ?」
軽い調子で灯真が苦笑する。それを聞いて黎はまたしても衝撃を受けた。そうか。自分から灯真の誕生日を聞いておくべきだったのか。これまでの飼い主たちは聞いてなくてもあらかじめ言ってくれていたから、気づかなかった。飼い主の誕生日を知ろうともせず祝ってすらいないなんて、ペット失格だ。そんな考えが頭によぎって、黎は慌ててかぶりを振った。灯真は黎をそんなふうに扱っていない。わかっていても、思考の癖はなかなか治らないらしい。黎は顔を歪め、クリームがところどころについているアルミホイルをじっと睨む。
「俺、久我さんに、なんにもしてない」
「えー? してくれたじゃん」
苦々しく言うと、間髪入れずに灯真が気の抜けた声をもらした。なにを言っているんだろう。怪訝な顔で灯真を見る。目が合ってすぐ、灯真がにっと口角を上げて笑う。
「肉じゃが、おいしかったよ」
どこかあどけなさも含まれている笑みには、嘘も気遣いも見えない。たぶん、心からそう思っているのだろう。それがわかったから、黎の表情はますます歪んだ。
「でも、あれ、ちゃんとしたのじゃなかったから……」
黎が言うと、灯真は苦笑まじりに「えー」とまた声をもらした。
「さっきも言ったけど、ほんとうにおいしかったって。ちゃんと肉じゃがだったじゃん。むしろ、俺が当日になってからわがまま言ったんだし、おまえが気にすることはなんもねえよ」
灯真があっけらかんと言う。けれどそれを聞いたからといって、じゃあいいかとは思えなかった。
灯真にとってあの肉じゃがは、誕生日のお祝いと同じ意味を持っていたんだろう。それならなおさら、きちんと具材が揃った状態で食べてほしかった。完璧には作れなかったとしても、正しいものを。くちびるを噛んだまま黙りこんでいると、灯真はテーブルに頬杖をついて眉を下げた。
「そもそもさあ、俺がいきなり肉じゃが作ってって言いだしたのが悪いんじゃん。あらかじめ言っておけよって話じゃねえ? そうしたら、黎も準備できたじゃん。でも俺は……ちょっと、恥ずかしかったから、なかなか言いだせなくて、黎はそんな俺のわがままをしっかり叶えてくれた。俺は嬉しかったし、おいしかったし、すっげえ満足してる。黎はそれじゃ納得しない?」
やわらかな声でゆっくりと言われ、黎は嚙みしめていたくちびるをそっとほどいた。灯真が嬉しかったと言ってくれているなら、これ以上はきっと、自分の気持ちの押しつけだ。納得できたかと聞かれると難しいが、このままだと灯真を困らせるだけだというのもわかる。黎は曖昧に顎を引いた。灯真がふっと息を吐いた音が聞こえる。
「それにさあ、一緒にケーキも食べてもらったし」
どこか照れくさそうな、けれど嬉しそうにしているのがにじんだ声で言われ、黎は怪訝な顔で灯真を見た。どういう意味かよくわからない。ケーキを食べたのが、どうしてお祝いにつながるんだろう。少しだけ首をひねると、灯真がうなじをさすりながらはにかんだ。
「今までは、誕生日って言ってもひとりで過ごしてたし、ひとりでわざわざケーキ買ってきて祝うみたいなのも、なんか……虚しいっていうか、さみしいっていうかだからさ、ケーキなんて食べてなかったんだよ。でも、今年はおまえがいたから。誕生日にケーキ食ったの久しぶりだわ。調子乗っていっぱい買ってきたけど、うまかったし、よかった」
そこまで言って灯真はひとつ息を吐き、黎をまっすぐに見た。
「おまえのおかげだよ。ありがとう」
黎ははっと息を呑む。灯真は瞳を細め、話を続けた。
「これ言うと、おまえの負担になるかもって思ってたから、ずっと言ってなかったんだけどさ。帰ってきて玄関のドアあけてメシのにおいすると、すっげえ安心するっていうか。嬉しいんだよな。それも、おまえのおかげ。おまえはいつもなんもしてないとか言うけど、俺はおまえから毎日いろんなもんもらってるよ。だからあんまり難しいこと考えなくていいと思う」
黎はわずかに瞠目して灯真の話を聞く。灯真は小さく咳払いをしてから、今度はやけに真剣な顔つきで黎を見た。
「俺がこういうこと言ったからって、メシ作るのはおまえの義務じゃないから、それは忘れんな。作りたくないとかやる気出ないときには無理して作らなくていい。わかった?」
わざとらしく厳しい声で言われ、黎はかすかに眉を下げてうなずいた。それを見た灯真が、「よし」と満足そうに笑う。黎は肺に詰まっていた息をゆっくりと吐いてから、灯真をまっすぐに見た。
「久我さん」
「ん?」
「なんかしてほしいこと、ない? 誕生日の、おいわい」
「えー、ない。もうもらったもん」
からりと笑いながら即答され、黎は肩を落とす。灯真にとって黎からの誕生日祝いは、肉じゃがとケーキを一緒に食べることで終わっているらしい。祝われる本人がそれで満足しているのだから引きさがるべきだとわかっていても、やはりじゃあいいかと思うことはなかなか難しかった。だって、なにかしたかった。なんでもいいから、なにか。
会話が途切れ、部屋が静かになる。黎は気まずさを紛らわせるためコーヒーを飲みほしたが、もうずいぶんと冷めてしまっていた。せっかく淹れてもらったのに、となおさら気分が沈む。




