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出勤する灯真を見送るため、灯真のうしろをついて玄関へと向かう。廊下を歩いている最中、灯真はなぜか物言いたげな顔でちらちらと黎を振りかえっては、すぐに目を逸らすのをくりかえしていた。なんだろう、と黎は首をひねる。
朝食のときから、いや、朝起きたときから、灯真はどことなく様子がおかしかった。ずっとなにか言いたそうにしているのに、なにも言おうとしない。
ちりちりとつのる不安を紛らわせるように、しわひとつない灯真のスーツの背広を眺める。長かった残暑も終わり、灯真は今週からジャケットを羽織って出勤するようになった。とはいえ外はまだ暑いらしく、週頭からずっと不服そうにしていた。
革靴を履いた灯真が、三和土から黎を見る。灯真にしては珍しく、ずっと目が泳いでいた。何度かためらうように口をひらいてはとじたあと、灯真が上目遣いになる。
「なー、れい……」
ぎこちなく、遠慮がたっぷりと含まれた猫撫で声だった。黎の頬がかすかにゆるむ。
「なに?」
「あのさ……今日の晩メシ、なに作るかもう決めた?」
おそるおそる訊かれ、黎はきょとんとしてしまった。首を小さく横に振る。
「まだ決めてない」
黎が答えると、灯真の顔が少しだけほころんだのがわかった。
「じゃあさ、今日、肉じゃが食べたい」
「肉じゃが?」
予想していなかったリクエストをなぞるように言うと、灯真が無言でうなずいた。黎は表情をくもらせる。
「……でも、材料足りないよ。いんげんも、しらたきもない。あと、牛肉も」
「それはぜんぜん、かまわないっていうか、具材はあるものだけで大丈夫だから。いんげんもしらたきもなくていいし、肉も、豚肉でいいし。……だめ?」
灯真が体を丸めるようにして黎の様子をうかがう。黎は少し迷ったものの、そっと息を吐いて表情をゆるめた。
「だめじゃない。ちゃんとしたのじゃないけど、それでもいいなら、作るよ」
黎が言うと、灯真がぱっと顔を上げる。
「いいよ、ぜんぜんいい。黎の肉じゃが食べたい」
どこかあどけなさを感じる表情で言われて、だめと返せるはずもない。黎はやわく眉を下げ、「わかった」とうなずいた。灯真が嬉しそうにはにかむ。
「あとさ、黎、甘いものいっぱい食べれる?」
「いっぱい……たぶん、食べれると思うけど。いっぱいがどれくらいかわかんないから、わかんない」
灯真にしては曖昧な質問だ。訝しみながらも答えると、灯真の瞳がますます細くなった。
「食べれるなら大丈夫。そんだけ。んじゃ、行ってきます」
「うん、行ってらっしゃい」
灯真は小さく手を振り、いそいそと玄関を出ていく。鍵が閉まる音が聞こえてから、黎はかすかにため息をもらした。
踵を返し、足早にキッチンへと向かう。冷蔵庫の中を確認してみたけれど、やはり、肉じゃがを作るには材料が足りなかった。にんじん、じゃがいも、玉ねぎはある。でもいんげんとしらたきはないし、肉は豚肉だけ。灯真はそれでもいいと言っていたけれど、黎は気落ちしてしまった。とぼとぼと昼間の定位置であるローテーブルの前に座る。
灯真のことを甘やかしたいと話して以降、灯真はときどき、夕飯のメニューをリクエストしてくれるようになった。といっても今までは、買い物のときに言ってくれていたから、そのときに必要な材料も買いそろえていた。当日になって言われたのは、今日が初めてだ。
肉じゃがは、灯真が好きだと言っていたこともあって、これまでにも何度か繰りかえし作ってきた。料理をすることにも少しずつ慣れてきたから、野菜も均等な大きさに切れるようになったし、最初のころのように、手間取っているあいだに肉を焼きすぎるなんてこともない。
最初は一品作るのでいっぱいいっぱいだったけれど、最近は自分の中での時間配分もうまくできるようになってきて、一時間あればメインの料理と汁物まで作れるようになった。もう少し時間をかければ、副菜だって増やせる。
でもいつだって、黎はレシピのとおりに作ってきた。今回のようにあるものだけで作るというのは初めてだ。うまくいくのかわからなくて不安がこみあげてくる。灯真は失敗してもそれをばかにしないし、食べられるところはちゃんと食べてくれる。でもせっかく灯真がリクエストしてくれたんだから、成功させたかった。
「できるかな……」
ひとりきりのリビングに、ため息まじりの声がこぼれる。朝のうちから夜の心配をしていてもしかたがないとわかっていても、不安はぬぐえなかった。
それを紛らわせたくて、黎はローテーブルにドリルとノートを広げる。小学校四年生向けの、算数ドリル。その表紙を見ているだけで、またため息が落ちた。
小学校一年生向けのドリルから始まった漢字の勉強は、六年生向けの漢字ドリルまで無事に終わった。灯真と毎晩続けている読書でも読める漢字は増えたし、タブレットで映画や本を検索したときも、前より文章の内容がわかるようになってきた。
漢字ドリルが終わったとき、灯真から、次はどうするかと訊かれた。なにをすればいいかわからないと答えると、灯真は算数を勧めてくれた。
「計算は、生活してたらいろんなところで出てくるから。勉強しておいて損はないと思う」
灯真にそう言われ、黎は一年生向けの算数ドリルから始めることにした。毎日こつこつと続けているけれど、算数は、漢字よりもうんと難しい。わからないところは灯真に教えてもらっているけれど、それでもやっとやっとだ。先に進むにつれて、つまずくことがさらに増えた。四年生向けのドリルはまだ始めたばかりだが、わかるまでにかかる時間は漢字と比べものにならない。
黎はもうひとつ息を吐き、表紙に書かれている四年生という字を指先でなぞる。小学校四年生。――黎にとって、未知の世界。
黎は不安や気落ちを飛ばすようにかぶりを振ってから、昨日の続きのページをひらいた。分数の計算のページだ。あまりにもわからなかったから、昨日は読書を休んで灯真に教えてもらった。赤いボールペンで書きこまれた灯真の字を追いながら、そっと気合を入れなおす。
今までの、灯真と出会う前の自分なら、きっと、わからないまま放りだしていたと思う。正直、問題は難しいし、できない自分を直視しないといけないから、嫌になる。
でも今は、わからないままではなく、できるようになりたいと思えるようになっていた。「わからない」が「わかる」になる楽しさを、灯真が教えてくれたから。
ペンを持ち、ドリルと向きあっているうちに、黎は勉強に集中し、気づけば不安も気落ちもどこかへ消えていた。




