5-7
翌朝アラームが鳴るまで、黎は目を覚ますことなく眠りつづけた。灯真は黎を抱きしめたまま眠っていたらしい。重いまぶたをあけられなくて手こずっているあいだに、灯真は黎の頭を撫でたあと、毛布を直してくれた。いつもの朝の流れだ。それがわかって、黎は口元をかすかにゆるませてしまった。
灯真がなんで毎朝こんなことをしてくれるのかはわからない。でも、わからないままでも別にいいかと思えた。
昨夜のことを考えると気まずさも感じていたが、灯真はいたっていつもどおりに見えた。朝食のあとに家中の掃除をして、デリバリーでハンバーガーのセットをふたりぶん頼み、隣に並んで映画を見た。映画に集中していたからか、終わるころには気まずさもすっかり薄れていた。
「……なあ、黎」
映画が終わり、昼食の片付けもしたあとでふいに呼ばれ、灯真に顔を向ける。灯真はなぜかうろうろと目を泳がせていた。どうかしたのだろうか。首をかしげながらも灯真を待つ。灯真はたっぷりとためらってから、ちらりと黎を見た。
「……黎さあ、ほんとうに、俺のこと甘やかしてえって思ってんの?」
「うん」
「ふ、即答かよ」
迷うことなくうなずくと、灯真が小さく笑った。
「ふーん、そっか」
灯真はぽつりとそう言ったあと、わざとらしい咳払いをした。
「黎さあ」
「うん」
「俺がなんか言っても、嫌なことは嫌って言えよ。隠すな。我慢すんな。おまえの気持ちを優先しろ。わかった?」
少し強い口調で言われ、黎はぱちぱちと目を瞬かせる。嫌なことは嫌と言う、というのは灯真がいつも黎に言っていることだ。でも、なんで今その話を急にされたのかわからない。ひとまずうなずくと、灯真が「よし」と口角を引いた。それから息を吸い、口をひらく。しかしそのまま待ってみても、灯真はなにも言おうとしなかった。
黎は訝りながらも灯真を待つ。灯真は一度口を閉じ、うなじをさすった。耳が赤くなっていることに気づき、あれ、とわずかに目を丸くする。
「……あのさ」
しばらくして、灯真がようやく口をひらいた。
「あの……黎さあ」
「うん」
「その、あー、えっと……」
灯真は目線を彷徨わせて言いよどんだあと、また大きく息を吸いこんだ。
「黎、その……膝枕してくんねえ?」
あんなにたくさん息を吸ったとは思えないくらい小さな声で言われ、黎はきょとんとしてしまった。「いいよ」と答えると、灯真がぱっと黎を見る。
「え、いいの?」
「うん」
「膝枕だぞ」
「うん。わかるよ」
「いいんだ……」
灯真は何度も黎に確かめたあと、小さく息を吐いた。少しして、「ふーん」と呟く。
「ほんとにいいんだな」
「うん。いいよ」
「んじゃ、ソファ座って」
言いながら、灯真がソファを指さす。灯真が座っていないのに自分から座るのはまだ緊張した。それでももう抵抗感はほとんどない。黎がソファに座ると、灯真もどかりとソファに腰を下ろした。
「なんかさあ」
灯真は前を向いて話す。黎は灯真の横顔を見た。
「おまえにこんなこと頼む日が来ると思わなかったわ」
ぽつりとそう言って、灯真は遠慮がちに体を横にした。ふとももにちょこんと頭が乗せられる。
「ほんとに嫌じゃねえんだな」
灯真は横になったまま、黎を見ずぶっきらぼうに言う。黎は灯真をじっと見ながら「嫌じゃないよ」と答えた。「ふーん」とまたそっけない声が返ってくる。
「なんで」
「なんでって……」
そんなこと訊かれても、と黎は思う。この状況が嫌じゃないと思うことに理由が必要なのだろうか。むしろ灯真はなぜそこまで、黎が嫌がると思っているんだろうか。黎は鼻からそっと息をもらした。
「なんでか説明するのは、難しいけど、嫌じゃないから、嫌じゃない」
灯真がそこまで訊いてくるのならなにか理由があるのかもしれないけれど、今の黎にはその理由が見つけられなかった。灯真は少しだけ黙ったあと、また「ふーん」と言った。けれどさきほどまでよりもその声はやわらかい。
「おまえ、物好きだね」
灯真はかすかに肩を震わせて、寝返りを打ち黎のほうを向いた。そのままもぞもぞと身じろぎしていたが、やがておさまりのいいところを見つけたらしい。灯真が深く息を吐いた。
「ちょっと寝る。おまえは好きなことしてな。タブレットとかさわっててもいいし」
「タブレット……」
黎はローテーブルの下の収納箱に目を向ける。タブレットはそこに入れたままだ。ここからだと手を伸ばしても届きそうにない。まあいいかと目線を外そうとしたとき、「どうした?」と灯真が顔を上げて黎を見た。
「タブレット、届かないなって思ってただけ」
黎が言うと、灯真が「ああ」と小さくこぼした。
「ごめん、取れないな。どくわ」
そう言って、灯真は体を起こしてしまった。「あ」と反射で声がもれる。せっかく起きてくれたんだから、と腕を伸ばそうとして、黎ははっと思いついた。隣で目をしぱしぱさせている灯真を見る。
「く、久我さん」
声をうわずらせながら呼びかけると、灯真が黎に目線を向けた。
「久我さん、タブレット、取ってほしい」
それを聞いて、灯真がぱちりと瞬きをした。
「いいけど、黎はいいの? さわるけど」
首をかしげて確認され、黎はうなずく。灯真は目元をゆるませて「そっか」と言い、タブレットを取って渡してくれた。
「ありがと」
「いーよ」
灯真はにっと頬にえくぼを浮かべ、また黎の膝を枕にして寝転んだ。さっきよりもしっかりと頭を乗せられたことに気づき、黎の口元がかすかにほころぶ。
「なんかあったり、動きたくなったらすぐ起こしていいからな」
「うん、わかった」
黎がうなずいたのを確認し、灯真が目を閉じた。ほんとうにこのまま眠るつもりらしい。黎はふしぎな気持ちで灯真を見つめる。その寝顔を見ているうちに、撫でたい、と思った。声をかけてもいいだろうか。もう眠ってしまっただろうか。でも、なにかあれば起こしていいと言ってくれたから。
「……久我さん」
ひそめた声で呼びかけると、灯真の眉がぴくりと動いた。目はあけないまま「どうした?」と声をかけられる。
「あの、久我さんのこと、撫でてもいい?」
緊張しながら訊くと、灯真がふっと目元をゆるませた。
「いいよ、それくらい。好きにしな」
快諾してもらえて、黎はほっと息をこぼす。灯真は「つうか……」と薄目をあけて黎を見た。
「別に、撫でるくらい、聞かなくても好きにしていいのに。俺は聞いてないわけだし……そんなん、俺が、なんか……」
灯真はぼそぼそと言って身じろいだ。
「聞かれたら、やだ?」
「いや別に、そういうわけじゃないけど……」
なんだか不服そうに聞こえたけれど、嫌というわけでもないらしい。はっきりは答えてくれなさそうだ。黎は首をひねって考える。聞かなくてもいい。でも、聞いても嫌じゃない。
「……じゃあ、聞いたり、聞かなかったりするかも。それでもいい?」
黎が訊くと、灯真がふっふっと肩を揺らした。
「いいよ。んじゃ、俺もそうする」
そう言って、灯真がまた目を閉じた。今度こそ眠るのかもしれない。そうっと頭を撫でてみる。灯真は目をあけることなく口元をほころばせた。
「おやすみ、久我さん」
「うん、おやすみ……」
返ってきた声はどこかあどけない。ほんとうに眠かったんだろう。会話が途切れてからも、黎は灯真の頭をゆっくりと撫でつづけた。そのうち、灯真の呼吸が深く、静かな寝息に変わる。黎は灯真の髪にふれたまま、小さく息を吐いた。
これは、甘やかしていることになるのだろうか。灯真の寝顔を見ながら考える。さっき、あれだけ念入りに確かめていたくらいだ。たぶん、灯真の中でこの膝枕は、甘えていることになるのだと思う。……これが? 考えれば考えるほど、なんだか拍子抜けしてしまった。
灯真がこれまでの恋人たちに、どうやって甘えてきたのかは知らない。たしかに普段の灯真からは、こんな姿はあまり想像できないかもしれないな、と思う。だからといって、今目の前で甘えて寝ている灯真を見ても、印象が変わったとまでは思わなかった。むしろ……もっと甘えてほしいと思う。またしたい。またしてほしい。いつか、遠慮がなくなるくらいまで。
灯真は黎にこんなことを言う日が来ると思わなかったみたいなことを言っていたけれど、黎も思っていなかった。そもそも、ほんとうに甘えてもらえるとも思っていなかった。だって黎は、灯真の恋人ではない。恋人じゃなかったら、甘えてもらうことも、甘やかすこともできないと思っていた。
でも灯真は今、黎に甘えて眠っている。黎がどれだけ頭を撫でても、起きる気配はない。灯真からなんの役割も与えられないまま、灯真を甘やかせている。
灯真は結局、黎になんの役割もくれなかった。ペットではないとはっきり否定された。恋人でもない。じゃあ、灯真にとって黎はなんなのか、黎にとって灯真はなんなのかは、わからないままだ。
でももしかしたら、自分たちのあいだにそういう役割はなくてもいいのかもしれない。灯真は黎の前では素でいてくれているらしいし、黎も、役割がもらえないから結果的にそうなっていただけだけど、ずっとただの黎だった。灯真は今のままがいいと言ってくれたし、黎も、今のままがいい。じゃあ、このままでもいいのかもしれない。
役割どおりの生き方しか知らない黎にとって、今までの経験がなにも使えなくなるというのは、少しこわい。けれどちっとも嫌ではなかった。
灯真の言っていたように、自由に生きるというのはどういうことなのかまだよくわからない。でも灯真と一緒ならそれも少しずつ見つけられるかもしれないという予感が、たしかに芽生えていた。……そう、一緒に。
灯真は黎を捨てるつもりはないと言っていた。ずっと一緒という言葉は、黎だって信じていない。灯真もいつか心が変わって黎を捨てるかもしれないという恐怖は、黎の頭の隅にこびりついている。たぶんこれは、この先何年一緒にいたとしても、薄れることはあっても消えることまではないだろう。
でも、信じたい、と黎は思う。灯真と一緒に暮らしつづける未来を、信じたい、と。
こんなことを思えるようになったのは、捨てないでとか、ここにいたいとか、そういう黎の中でずっとこごりつづけていたものを受けとめてもらえたおかげだろう。胸のつかえが取れたみたいな、すっきりとした気分だった。
黎はかすかに口元をゆるませたまま、灯真の頭を撫でつづける。すっかり眠ってしまったらしく、灯真が目を覚ます気配はなかった。
「……久我さん、ありがとう」
小さく呟いてみたけれど、灯真からの返事はない。ほんとうは面と向かってちゃんと伝えるべきなのかもしれないけれど、今はまだ、気恥ずかしさのほうが勝ってしまった。
タブレットを取ってもらったものの、今はそれよりも灯真を撫でていたかった。静かな部屋で灯真の寝息を聞きながら、ゆっくりと灯真を撫でつづける。灯真の寝顔は、ずっと穏やかだった。
ちょっと寝る、と言っていたわりに熟睡したらしく、灯真が起きたのは眠ってから三時間ほどたったころだった。のっそりと体を起こした灯真は、カーテン越しに見える空が赤く染まっていることに気づき、「げ」と小さく声をもらした。
「めちゃくちゃ寝てるじゃん。なんで起こしてくんなかったの」
「起こしてって言われなかったから」
灯真はソファの上であぐらをかき、ふてくされながら黎を見た。なにかあったり動きたくなったら起こしていいとは言われたけれど、それ以外の理由は聞いていない。黎には起こす理由もなかったし、すやすやと眠っていたからそのままにしていたのだが、よくなかったのだろうか。灯真の様子をうかがうと、灯真はこどもっぽくくちびるを突きだして拗ねていた。けれどその目元には、どことなく照れが混ざっているように見える。
「夜寝られないかも」
灯真はそう言って、大きく伸びをした。
「明日日曜日だから、夜ふかししてもいいんじゃないの?」
「そうだけどさあ。あんまり夜更かしすると、生活リズム崩れるじゃん」
「……起こしたほうがよかった?」
聞けば聞くほど、よくないことをしたのではという不安がつのる。おそるおそる訊くと、灯真がふっと表情を崩した。
「寝すぎたやつあたりしてるだけでおまえは悪くないんだから、気にしなくていいし、堂々としてればいい。寝すぎたやつが悪いくらい言っていいんだよ」
そうなのか、と黎は目を瞬かせる。それは黎にとって、これまでやってはいけないと思っていたようなことばかりだった。内心衝撃を受けていると、灯真は険しい顔で首や肩周りを揉みはじめた。
「やっぱソファで爆睡すると体いてえわ。おまえ、よくここで寝てたなあ」
しみじみと言われ、黎ははっと考える。そういえば、腕が痺れたり首が凝ったりはまだ続いているけれど、他のところは前よりだるくない気がする。ちゃんとした布団で寝ているからだろうか。考えこんでいると、灯真が大きなあくびをした。
「……今日もお試しする?」
軽い調子で、けれどどこかうかがうような声音で訊かれ、黎は灯真を見る。灯真も黎に顔は向けていたけれど、視線は合わなかった。黎はうなずきかけて、止まる。それからそっと息を吸いこんだ。
「お試し、やめてもいい?」
黎が訊くと、灯真がぱっと黎を見た。その目がわずかに大きくなっている。灯真がなにか言う前に、黎は続けた。
「お試しやめて、これから、ずっと一緒に寝てもいい?」
心臓がどくんどくんと大きく跳ねている。黎は灯真から目を逸らさずに手を握りしめた。灯真はぽかんとした顔でしばらく黎を見つめたあと、ふはりと表情を崩す。
「あたりまえじゃん。おまえが嫌じゃないなら、いくらでも」
「嫌じゃない」
「ふーん。でも狭いよ」
「狭くない」
「ふ。そっか」
黎が間髪入れずに答えると、灯真はくすくすと笑った。それから黎を見てやわく眉を下げる。
「それならさあ、やっぱり、枕買ったら? 腕も首もいてえだろ」
黎は反射的にいらないと言いかけて、今度も止まった。緊張をまぎらわせるように唾を飲みこむ。
「……久我さんが嫌じゃないなら、枕、買ってほしいって、言ってもいい?」
かすかにうわずった声で訊くと、灯真が大きく瞬きをした。それからすぐに、くしゃりと笑う。
「もちろん。明日買いにいくか。今日は我慢して」
やわらかな声で言われ、黎はうなずく。さっきまでどくどくと暴れていた心臓は、今はもう穏やかにおちついていた。
いつかこの家を去る日が来るかもしれない。そのときに自分の痕跡を残したくない。
でも、そんな日は来ないと信じたい。そんな日が来ないように、灯真と一緒に、がんばりたい。
黎は灯真を見て、そっとはにかむ。
「ほんとは、枕ないと、寝るとき、首痛かった」
黎が打ちあけると、灯真は一瞬目を丸くしたあと、やわらかくほほえんだ。




