5-6
「……じゃあ、久我さんにとって、俺って、なんなの……」
黎は灯真を見ないまま、ほとんどひとりごとのように呟く。問いかけのようなかたちにはなったけれど、返事を求めていたわけではなかった。むしろ聞きたくない。答えを知りたくない。それなのに、気づけば勝手に言葉がこぼれていた。灯真が大きく瞬きをしたあと、ふうんと息を吐く。
「俺にとってのおまえ、ねえ……」
灯真はそう言って、考えこむように黙りこんでしまった。いまさら聞きたくないとも言えず、黎はくちびるを噛んでどこでもない一点を見つめる。
黎にとってはずいぶんと長く感じた沈黙のあとで「そうだなあ」と灯真が口をひらいた。
「なんだろうね。わかんねえけど……ペットが近いのかも」
その返答を聞き、黎はますます絶望感に包まれた。ペットという言葉が頭の中で反響する。
ペット。灯真にとって自分は、ペットらしい。それが黎の役割らしい。今までにも他の飼い主からペットと言われたことはあるのに、どうしてこんなに心臓が痛いんだろう。やっと役割がわかったのだ。それなら、その役割に徹すればいいはずだ。そうすれば、ここにいられるのだろうか。黎は灯真を見ないまま、いびつな片笑みを浮かべる。
「……じゃあ、俺、なにしたらいい?」
かすれた声で訊くと、灯真が「ん?」と瞬きをした。
「俺、ペットなんでしょ。久我さんの好きにしていいよ。久我さん、なにしてほしい?」
「はあ? いや、なんの話?」
「だって、久我さんが俺のこと、ペットって言ったんじゃん。ペットなら、ペットらしく、ご主人様のためになることするよ」
「は、ちょ、ちょっと待てって」
焦ったような声を出した灯真が上体を起こして黎を見る。
「なんの話してんの、おまえ」
困惑した表情の中に、かすかな苛立ちが見えた気がした。空気がびりびりしている。こわい。灯真を見るのがこわい。枕にしていた腕で顔を隠す。
「……だって、久我さんが、言ったんじゃん。俺のこと、ペットだって、久我さんが」
そうだ。灯真が言った。だから黎はそのとおりふるまおうとしただけだ。それなのに、どうして灯真は怒っているんだろう。言われたとおりにしようとしただけなのに。灯真ががりがりとうなじを掻く。
「そりゃ、まあ、たしかに言ったけど、でも俺は」
灯真の話を遮るように「だったら」と声を上げる。
「ちゃんと、ペットにならないとでしょ。ペットは、ご主人様を癒すためにいるんでしょ。ご主人様の、飼い主の言うこと聞いて、飼い主のしてほしいことして、飼い主の好きなようにされるのが、ペットなんでしょ」
かつて言われたことをなぞるように言うと、灯真が短く息を呑んだ音が聞こえた。黎はそれに構わず続ける。
「だから久我さんも、俺のこと、好きにしていいよ。俺、久我さんの言うことなんでも聞くし、してほしいことなんでもするよ。だって、俺――」
「黎」
低い声で名前を呼ばれ、黎の喉がひゅっと閉まる。ただ名前を呼ばれただけなのに、その声の鋭さがこわくて、黎はそれ以上なにも言えなかった。そんな声で名前を呼ばれたのは、初めてだ。いや、もしかしたらあの夜にも呼ばれたかもしれない。間違えた、あの夜にも。
重苦しい沈黙のあと、灯真が大きく息を吐く。
「……黎」
さっきよりも少しやわらかくなった気はするものの、まだ低くざらついた声で呼ばれ、黎の目が泳ぐ。顔を隠している腕は外せなかった。
「黎。ごめん」
突然謝られ、黎は瞠目する。慌てて灯真を見ると、灯真はなにかを堪えるみたいな険しい表情で黎を見つめていた。
「そんなつもりで言ったんじゃなかった。ごめん」
「ちが、久我さんが、謝ることじゃ」
「さっきみたいな話、誰かとしたことあんの?」
黎の言葉にかぶせるように灯真が訊く。黎は少しためらってから、無言で首肯した。
「誰かに、言われたことあんの?」
続けてかけられた問いには、反応を返せなかった。そうだとはっきり肯定できなかった。灯真に、それを知られたくなかった。
灯真は黎の沈黙をどう受けとったのか、力なくうなだれた。
「……黎。俺はさ、ほんとうに、そんなつもりで言ったんじゃないんだよ」
灯真の声はさっきまでとは違い、どこか弱々しい響きをしていた。
「俺はさ、前も言ったかもしんねえけど、おまえがこの家で、なんのストレスもなく、安心して、のびのびと好きなことしながら健康でいてくれれば、それでいいんだよ。それがいいんだよ」
ぽつぽつとこぼされる言葉を聞き、黎は小さく瞬きをした。灯真は話を続ける。
「俺の言うこと聞くとか、してほしいことなんでもするとか、そんな、そんなん、俺、求めてない。おまえはそんなんしなくていい。おまえの好きなことをすればいいし、やりたくないことはやらなくていい。おまえは、おまえの自由に、やりたいように生きていいんだよ」
静かで、どこか苦しそうで、絞りだすような声だった。
好きなことをすればいい。やりたくないことはやらなくていい。それはたしかに、灯真が日頃から黎に言っていることだった。灯真に拾われた当初からずっと、灯真はその意見を変えていない。きっとそれはほんとうに灯真の本心なのだろう。わかっていたはずなのに、今は、少し、わからなくなっている。
黎は灯真から目線を逸らし、「でも」と呟く。
「ペットは、飼い主を癒すためにいるんじゃないの」
黎にそう言ったのは、誰だっけ。黎の中にこびりついた役割。視界の端で灯真の顔が痛々しく歪む。
「俺はそんなふうに思ってない」
きっぱりと否定され、黎の眉がきゅっと寄った。
「たしかに、一緒にいたら癒されることはあると思うよ。でもそれは結果的にそうなるっていうか……癒してもらうことを目的としてるわけじゃないと思う。いや、俺は実際、ペットと暮らしてるわけじゃないんだけどさ」
そこまで言って、一度区切るように灯真が息を吐いた。弱々しい笑みを黎に向ける。
「なんかさ、俺の思ってるペットと、おまえの思ってるペット、全然違ったみたい。そのせいで、おまえのことびっくりさせたし、傷つけたよな、きっと。ごめん」
また謝られてしまい、黎は大きくかぶりを振ってから灯真と同じように上体を起こした。だからといってなにを話せばいいのかわからない。灯真はまた深く息を吸ってから、まっすぐに黎を見た。
「俺はさ、とにかく、おまえが元気だったらいいんだよ。おまえが元気に過ごすためなら、必要な世話はちゃんとやるし、当たり前のことだと思ってる。迷惑とか負担とか思ったことないし、なんも嫌じゃない。ぜんぶ、俺がやりたくてやってること。おまえは気にしなくていい。なんかしないととか考えなくていい。おまえに言うこと聞かせたいとか、おまえを俺の好きなように扱いたいとか、そんなん一回も考えたことない。そもそも、俺はおまえの飼い主でもなんでもない。おまえのことをペット扱いしてたわけでもない。俺がよけいなこと言ったのが悪かった。ほんとうにごめん」
そう言って灯真は頭を下げた。灯真の声も表情も真剣で、心からそう思っているのだと伝わってくる。けれど納得はできず、黎の顔が歪む。
「……でも、それじゃ、俺、久我さんからもらってばっかりだ」
「ええ? そうかあ?」
灯真がどこか気の抜けた声を出す。そうは思っていないみたいな声だった。怪訝な顔で灯真を見ると、ふしぎそうな顔で首をひねっていた。
「俺、おまえからけっこういろんなもんもらってんだけどな」
それを聞いて、黎の眉がますます寄る。灯真はこめかみを搔き、話を続ける。
「だってさあ、俺、おまえと一緒に暮らすようになってから、毎日楽しいし。……なんか、これ言うの恥ずかしいんだけど、俺、おまえといる時間……好きだよ。かなり」
ほんとうに恥ずかしいと思っているのだろう。灯真の声はだんだん尻すぼみになっていった。黎はきょとんとしたまま灯真を見る。そんなこと言われても、と思った。だって黎は、なにもしていない。
灯真はもぞもぞと座りなおしてから、やわらかく眉を下げて黎を見た。
「おまえがなんで急につきあおうって言ってきたのかはわかんないけど、俺は今のままがいい。今のままが楽しいから」
灯真はそこまで言って、一度深呼吸した。それからまっすぐに黎を見つめなおす。
「おまえのこと、大事にしたいと思ってるよ。でもそれは、恋人みたいな意味じゃない。俺はおまえを恋人みたいな扱いしたくないし、されたくもない。今のままがいい。それじゃだめかな?」
灯真が眉を下げたままはにかむ。黎はそれにうまく反応を返せなかった。
黎はなにもしていないのに、灯真は今のままが楽しいと言う。それは……嬉しいと思う。黎も、今のままがいい。今のままでいられるなら、それがいい。
でも、それじゃ、だめだ。だめなのだ。黎は肩を落としうなだれた。「どうした」と灯真が身じろぐ。
「……俺は、久我さんの、恋人になりたい」
かぼそい声で言うと、灯真が小さく息を呑んだ音が聞こえた。
「だって、そうしないと……久我さんに、恋人ができたら、俺、捨てられるから」
言いおわらないうちに、黎の瞳からほたりと涙が落ちる。一度あふれた涙は、そのまま止まることなくいくつも落ちてシーツに吸いこまれていった。
ほんのわずかな沈黙のあと、灯真がかすかに息を吐いた。
「……そっか。おまえ、そんなこと考えてたのか」
灯真が黎の目元を親指の腹でぬぐう。それでもひっきりなしに涙があふれてくるせいで、灯真の指を濡らしてしまった。
「そんな理由で追いだしたりしねえよ。たとえ恋人ができたからって、おまえはまた別だろ」
やわらかな声で言われ、黎はくちびるを嚙む。
追いださない。捨てない。ずっと一緒。そんな言葉をかけてきたこれまでの飼い主たちは、みんなもれなく黎を捨てた。今はそう言っていても、灯真だって、いつか。
「つうか、さっきも言ったじゃん。俺、おまえといると楽しいし、おまえといる時間好きなんだって。今の生活がいちばんいい。いまさらなんかあったからって、すぐに追いだすとかしねえよ」
「うそだ」と黎は思わず呟く。それが聞こえたらしく、灯真は「嘘じゃねえよ」と眉を下げて笑った。
「だって、俺が、間違えたとき……」
黎が弱々しい声で言うと、灯真は「ああ」と苦笑した。
「あんときはまだ、おまえのことよくわかんなかったからさあ。わけわかんねえまま急にあんなことされたら、そりゃ腹も立つだろ。でも今はあんときよりもおまえのこと知ったつもりだし。今度なんか腹立つこととか気にさわることがあったとしても、そんときはいきなり出てけって言うんじゃなくて、まず話をしようぜ」
そこまで言って、灯真はふと口をつぐんだ。目線を落としてなにかを考えこんだあと、あらためて黎を見る。
「おまえさあ、喧嘩ってしたことある?」
急に話が変わり、黎はきょとんとしてしまった。喧嘩という言葉を理解してすぐ、黎の顔がくもる。
「……したことあるよ。けんか」
黎が答えると、灯真は意外そうに「へえ?」と声をもらした。
「言われっぱなしのやつじゃなくて、おまえからも言いたいこと言いかえしたの?」
続けて訊かれ、黎は考えこんでしまった。言いかえしたことなんてない。言いたいことはなかったし、相手が怒っているなら、それは黎に非があったということだ。じゃあなおさら、なにか言えるような立場ではないと思う。
黎が黙っていると、灯真は鼻から息をもらした。
「一方的に怒られるのは喧嘩って言わねえよ。そんなん、ただ怒られたり不満ぶつけられたりしてるだけじゃん」
「それが、けんかじゃないの」
「えー、違うと思うけど。腹立つことあったら、お互い言いたいこと言って、そのあとはなにが問題だったかちゃんと話しあって、最後はお互いが納得してるうえでごめんねの仲直り、ってやつじゃねえの。怒られることになったとしても、怒られてる側にだって言い分はあると思うし、それは相手に伝えていいことだと俺は思うけどな。意見を押しつけんのはよくないとは思うけど」
そうなのか、と黎は瞬きをする。その拍子に目尻に溜まっていた涙がまた落ちた。
相手の気が済むまで怒られたら、悪かったこと、怒らせたことを謝って、相手にゆるしてもらう。それが喧嘩だと思っていた。灯真の言う喧嘩は知らない。
灯真は目元をゆるませて話を続ける。
「なんかあったら、喧嘩しようぜ。俺は遠慮しねえから、おまえもすんな。お互い言いたいこと言いあったら、最後は仲直りしよう。なんかあったら即追いだすとか出ていくとかじゃなくて、そうやって解決しようよ。それでもだめなら、またそんときに考えよう」
「……だめだったら、捨てるの」
「えー、極端だなあ」
灯真がふっと息を吐く。
「俺はおまえのこと、捨てるつもりないよ」
「ずっと一緒は、信じられないって言ってた」
「あー、まあ、たしかに言ったけどさあ」
黎の指摘が気まずかったのか、灯真が一瞬目線を揺らした。うなじをさすったあと、また黎を見る。
「少なくとも、俺は自分からおまえの手ぇ離すつもりはないよ。おまえがここにいたいと思うならずっといればいいし、他に行きたいところができたら行ってもいい。おまえの好きなようにしていい。おまえは自由なんだから。もしもおまえがどっか行くって決めたとしても、それでもう二度と会えなくなるってわけじゃないだろうし。会いたいと思えば、会えるよ。きっと」
やわらかな声でゆっくりと言われ、喉の奥がぐっと熱くなった。一度止まりかけたはずの涙がまたこみあげてきて、視界が一気にぼやける。
「おれ、ずっと、でていかないかもしれないよ」
「いいじゃん」
「くがさんが、おじいちゃんになっても、おれ、ずっとここにいるかも」
「そんときはさすがにおまえもおじいちゃんだし、じいちゃん同士仲良くやろうぜ」
遠い未来の話を当たり前に肯定され、小さな嗚咽がこぼれる。
「おれは、ひとりでも、いきていけたのに。くがさんが、おれのこと、ひろったんだよ。もう、おれ、ひとりには、もどれないかも。だから、くがさんが、ちゃんとめんどうみてよ……」
ぐずぐずと泣きじゃくりながら、すがるように言う。涙でうまく見えないけれど、灯真が黎の言葉を受けとめてくれているのは感じた。するりと伸びてきた手が黎をそっと抱きよせる。黎は灯真の胸元に頭を押しつけ、声を出して泣いた。
「ちゃんと面倒見るよ。だから、今のまま、俺と一緒に暮らしてよ。俺だって、おまえがいなかったらひとりで生きていけたのに。いまさらおまえがいなくなったら、さみしくなるじゃんか」
灯真のてのひらが、ゆっくりと背中を撫でさする。
すてないで。ここにいたい。くがさんといたい。
黎は嗚咽の合間に、ずっと、ずっと隠しつづけてきた願いを何度もこぼした。灯真は黎の背中をあやすように撫でながら、黙ってそれを聞いてくれていた。
しばらく泣きつづけていたら、そのうち声がかすれて出てこなくなった。体を起こしているのもだるくなり、灯真に体重を預ける。灯真は黎の体を抱きしめたまま、そっと横にしてくれた。
黎はぐずぐずとしゃくりあげながら、灯真の服をぎゅっとつかむ。灯真がふっと笑ったような声が、自分の嗚咽の隙間を縫って聞こえた気がした。
「いっぱい泣いたら、そのまま寝な」
ぽん、ぽん、と灯真のてのひらが黎の背中をゆるく叩く。その優しいリズムとぬくもりに導かれるように、気づけば眠っていた。あの溺れるようなこわい夢は、一度も見なかった。




