5-3
そろそろ寝るかという灯真の言葉を合図に、ふたりで寝支度を整え灯真の寝室へ来た。先にベッドへ乗りあげた灯真が、布団をめくって黎を見る。
「どーぞ」
「……おじゃまします」
「ふは、なんだそれ」
無言で布団へ入るのもなんだか違うような気がして一声かけたけれど、どうやらこれも違ったらしい。テーブルランプのやわらかなあかりの中、灯真はくつくつと肩を震わせていた。
灯真は笑いの余韻を引きずりつつ寝転がり、棚から本を取った。今夜も本を読んでから寝るらしい。黎も横になり、灯真が持つ本を見る。どんな本なんだろう。裏表紙にあらすじが書いてあるけれど、読めない漢字がたくさんある。読めるところだけゆっくりと目で追っていたら、本の向こうから灯真が目元だけを覗かせて黎を見た。その瞳がいたずらっぽく細められる。
「なに見てんの」
「……寝る前に本読むと、寝れるの?」
「俺はね。副交感神経が優位になって、寝るスイッチ入りやすくなるっていうか」
難しいことを言われ、黎の眉が寄る。灯真が吐息だけでふっと笑ったのが聞こえた。
「それ、俺もやれる?」
「寝る前の読書? もちろん。誰でもやれるよ」
「タブレットでもいいの?」
「あー、タブレットはあんまよくないな」
「そうなの?」
灯真の返事を聞いて、黎はぱちりと目を丸くする。
「タブレットとか、スマホもそうなんだけど、画面が明るいだろ? だから、目が冴えちゃうんだよ。だから、読むなら紙の本がいいよ」
「そうなんだ」
「寝る前の習慣にしてもいいし、寝つきがよくないなって思ったら試してみてもいいんじゃない?」
灯真に言われ、黎は小さくうなずく。やってみて合わなければやめてもいいと思うと、気が楽だった。灯真がふありとあくびをし、本に栞を挟んで棚へ置く。その手でそのままランプを消そうとしたところで、怪訝な顔で黎を見た。
「……黎さあ、枕くらい買う?」
「え、いらない。なんで」
「だって、それ、腕だるいだろ。首も痛そうだし」
それ、と灯真は黎が枕のように頭を乗せている腕を指さした。黎は首を小さく横に振る。
「平気。痛くない」
「ならいいけどさあ……」
灯真はあまり納得していなさそうな様子で引きさがる。かと思ったら、「あ」と小さく声を上げ、黎を見た。
「腕枕してやろっか?」
「……え」
突然の提案に、黎はぎょっと目を瞠ってしまった。腕枕って、なんでそんなことを、急に。しかし灯真は黎が断るよりも前に「いや、それもなんか違うか」と呟いた。
「腕枕も結局寝づらくて、首痛くなるもんなあ」
灯真はからりとそう言ってテーブルランプを消した。ふわふわとあくびをこぼしながら横になる。そうなのか、と黎は納得しかけて、まだ暗さに慣れない目で灯真を見た。灯真はなんで、そんなことを知っているのだろう。
「……久我さん、腕枕、されたことあるの?」
「ん? あるよ。したこともある。普通の枕使ったほうが絶対いい。お互いに」
灯真があっけらかんと言う。黎は灯真を凝視したまま、耳の奥できいんと鳴る嫌な音を聞いていた。
黎も、腕枕をした経験はあった。過去の飼い主たちにねだられ、毎晩その状態で眠ったこともある。
でも、されたことはない。灯真は、あるのだ。どちらも。昼間に感じていた胸のもやもやがまたせりあがってくる。
「……久我さんは、誰にでも、そうなの?」
黎の口からぽろりと声がこぼれる。灯真は「んあ、なに?」と気の抜けた声で聞きかえしてきた。こんなこと聞くつもりはなかったのに。一度あふれてしまったら、止められない。
「慣れてるの? 誰とでも、そういうことするの?」
「なんだそれ。別に、誰とでもはしねえよ」
灯真は声に眠気をまといながらかすかに笑う。そうなのか、と黎は肩の力を抜きかける。
「そんな、誰でも見境なく一緒に寝たりしないって。さすがに相手は選んでるよ。つきあってたやつくらい」
抜きかけたのに、続けられた言葉を聞き、黎の体がふたたびこわばった。心臓がどくんと跳ねる。
「……くがさん、つきあってたひと、いるの」
「ふ、いないと思った? いるよ、それくらい」
「いま、も?」
「いないいない。いたらこんな毎日おまえといないって」
そうなのか、と黎は思う。安心していいのかわからなかった。心臓が強く脈打っている。黎の動揺など気づいていないのか、灯真が大きなあくびをした。
「おやすみ、れい」
「……おやすみ」
もうすでに眠いらしく、灯真が少し舌足らずに黎へ声をかけた。それからすぐ、灯真が静かに寝息を立てはじめる。黎はその呼吸音を聞きながら、暗闇に薄ぼんやりと浮かぶ灯真の輪郭を見つめつづけていた。
灯真はおとなだ。黎よりも十歳以上も歳上の、おとな。
そんな彼が、これまで誰とも関係を持たなかったわけがないと、今ならわかる。わかるけれど、考えたこともなかった。空調が効いて快適なはずなのに、背中に冷たい汗が噴きでている。
灯真も、誰かとつきあうのだ。これから先、灯真に恋人ができるかもしれない。そうなったとき、自分は、きっと、灯真と一緒にいられなくなる。なにも間違えてなかったとしても、ここにいられなくなる。捨てられる。これまでの飼い主たちが、恋人ができたから黎を捨てたように。なにもできない役立たずの黎に愛想を尽かして、魅力的な恋人を見つけたように。灯真も、いつか。
そうなったら、自分は、またひとりになる。ひとりになりたくない。ここにいたい。
「すてないで……」
声を出すつもりはなかったのに、喉から勝手に声がもれた。
捨てないで。捨てないで。もっと役に立つから。がんばるから。
でも、なにをがんばればいいんだろう。灯真は黎になにも望まない。なにも望んでいない。黎は灯真の恋人にはなれない。灯真は黎と、決してセックスをしない。
胸が苦しい。もやもやして、なにかがこみあげてくるようだった。昨日は目を閉じて灯真の呼吸に合わせていたら眠れたのに。黎はすがるように灯真の服の裾を掴む。すると灯真がもぞりと身じろいだ。黎はどきりとして肩を揺らす。
「ねれない?」
少し眠っていたからかかすれた声で灯真が訊く。黎が返事できないでいると、灯真が黎と向かいあうように横向きになった。伸びてきた手がぽん、ぽん、と黎の背中をゆるく撫でる。その優しくて穏やかなてのひらにいざなわれ、黎の体から少しだけ力が抜けた。黎は大きく息を吐き、固く目を閉じる。
捨てないで、と思う。それと同時に、いつか捨てるなら、もう優しくしないでくれとも思う。
これまで誰に捨てられても生きてこれたのに、ひとりでも生きてこれたのに。灯真に捨てられたとき、自分は、きっと、もう。
そんなことを考えながら眠ったせいだろうか。久しぶりに、溺れる夢を見た。
苦しくて、もがいているのに体はどんどん沈んでいく。光が届かないところに、真っ暗なところに、どんどん沈んでいく。
はっと目を覚ますと、部屋の中は真っ暗だった。黎は荒い呼吸をしながら、灯真を見る。眠っているはずなのに、灯真はまだ黎の背中にてのひらを添えていた。
もうこれ以上、灯真になにも与えられたくない。なにも求めたくない。そう思うのに、灯真のてのひらがあたたかくて、どうしようもなく胸が苦しかった。




