5-1
「なあ、黎」
夕食を終え、音読の準備を進めていたとき、灯真がふいに黎を呼んだ。黎は無言のまま、隣に座る灯真を見る。
「やっぱさあ、布団買おうよ」
「いらない」
黎はすぐさま首を横に振る。それを見た灯真が、わかりやすく顔をくもらせた。
「でもさあ、やっぱ体によくねえだろ。いつも思うけど、痛くねえの?」
「平気。痛くない」
「なんでだ、若いからか?」
灯真がふしぎそうに首をひねる。黎はとりあえず視線を前に戻し、収納箱にしまっておいた本を取った。昨日の続きをひらく合間に、鼻から静かに息をもらす。
灯真から布団を買わないかと言われたのは、これで三度目だ。一度目は灯真の家に来てすぐのころ。二度目は春になったころだったと思う。そして今回。黎はこれまですべて断ってきた。
ソファで寝るのは体の負担になってよくない、と灯真は言う。ちゃんとした寝具で寝たほうがいい、と。
けれど黎にしてみれば、雨風がしのげるきれいな室内で、暑くも寒くもなくて、毛布もあって、床じゃないところで横になれるなんて、じゅうぶんすぎるほどだった。
たしかにこのソファは黎の体には小さいから、足は伸ばせない。けれど、もともと体を丸めて眠るのが癖になっていたから、さして影響はなかった。さすがに寝返りは打てないから朝起きたときに体が凝りかたまっていることもあるが、体が痛いとまでは思わない。座った状態で膝を抱え、すぐ横を虫が這うような環境で目を閉じるしかなかったころとは比べるまでもなかった。
しかし、たとえソファがなくて、床で寝るしかなかったとしても、黎は灯真の申し出を拒否していただろう。
この家で暮らすようになって半年が過ぎた。ここ最近、タブレットを皮切りにノートや筆記具、字の練習の本やドリルを買ってもらってはいるけれど、灯真がくれた収納箱にぜんぶおさまるくらいだ。今でさえ買ってもらいすぎかもと思っているし、黎が必要だと思えないものは買ってもらわなくていい。服は今でも灯真のものを借りているし、食器類も灯真の家にもともとあったものを使わせてもらっている。
ここは、自分の家ではない。いつここを追いだされるかわからない。そうなったとき、この家に自分の痕跡をできるだけ残したくなかった。今までの飼い主たちからは買いあたえられるまま受けとってきたし、追いだされるときはそれらをぜんぶ残してきたけれど、灯真相手には、なぜかわからないけれどそうしたくなかった。
「……あ」
灯真の声が聞こえ、ふたたび顔を向ける。
「黎、俺と一緒に寝る?」
「…………え?」
言われた意味がわからず、黎はかなり遅れて声をもらした。黎の困惑をよそに、灯真は明るい声音で話を続ける。
「一緒に寝ればさあ、新しく買わなくたって黎も布団で寝れるし、体も痛くならないし、いいんじゃねえ?」
灯真の声が頭を通りぬけていく。ひとつひとつの言葉の意味はわかるのに、ひとまとまりの文章にすると途端によくわからなくなった。灯真はなにを言っているんだろう。黎の頬がひくりと動く。
「わかんない。このままでいい」
「うーん、そっか」
黎の返事を聞いて、灯真がうなじをさする。「そっか」ともう一度呟いたあと、わずかな間をあけて灯真はへらりと笑った。黎の目が瞬く。それは、灯真が体調について話していたときと同じ笑顔だ。なにかをごまかそうとしているときの笑い方。でも、なんで今そんな顔をしているんだろう。黎は訝るように灯真を見る。
「まあ、そうだよなあ。一緒に寝るのは、ちょっとあれか。嫌だよなあ」
「……まって、ちがう」
へらへらと笑う灯真に、黎は慌てて否定を返す。灯真は笑んだまま小さく首をかしげた。
「違う、なんか、あれ、え……? 俺が嫌なの……?」
灯真の言い方だと、まるで黎が嫌な思いをするから断ったみたいだった。そんなわけないのに。嫌なのは灯真のほうじゃないのか。話しているうちに混乱してきてしまった。灯真が指先でこめかみを掻く。
「いきなりそんなこと言われても、なんていうか、嫌かなっていうか、困るよなって。ごめんな、考えなしに言って」
「違う、久我さん」
黎はあらためて首を横に振る。違う。黎は嫌だなんてひとことも言ってない。灯真が黎の体のことを考えて言ってくれたのはわかっている。黎は息を吸いこみ、灯真を見て口をひらいた。
「違う、あの、久我さんと寝るのが嫌だから、このままでいいって言ったんじゃない。嫌って思ってない」
「そうなの?」
灯真がどこか気の抜けた声を出す。黎はそのまま話を続けようと思ったけれど、うまく言葉が出てこなかった。灯真から目線をそらし、わずかに眉を寄せる。
「……久我さんは、嫌じゃないの?」
「なにが?」
「俺と寝るの」
「ぜんぜん。なんで?」
「だって……」
言いかけて、黎は口ごもる。その先に続く言葉をあまり言いたくなかった。黎は静かに深呼吸してから、膝を抱えなおした。
「……だって、俺、間違えたから」
かすれた声で呟くように言う。少しの間をおいて灯真が「ああ」と声をもらした。
「あー、うん、そっか。そう、だよなあ」
灯真はぽつぽつと言葉をこぼしたあと、小さく息をもらした。黎は目線だけを灯真へ向ける。
「まあ、でも、この前だって一緒に寝たし、大丈夫だったじゃん」
「そう、だけど……」
この前、と言われ、灯真が体調を崩したときに一緒に寝た夜を思いだす。あのときも、黎は自分が間違えるかもしれないから、と灯真に伝えたけれど、灯真は大丈夫なんじゃないかと言っていた。結局あの夜に関しては、なにも間違えていないと思う。たぶん。なにかを間違えていたとしたら、自分は今ここにはいない。とはいえ一度間違えてしまったことを考えると、じゃあもう大丈夫だなんて自分では思えなかった。
だいたい、今回は理由がない。前回は灯真が体調を崩し、さみしいと言っていたから一緒に寝たのだ。それまでそんなことを言われたことはなかったし、翌日からも一緒には寝ていない。あれっきりだ。だからたぶん、灯真は普段はひとりで寝ていてもさみしくないのだと思う。それなら黎がいなくてもいいはずだ。なおさら一緒に寝る意味がわからない。
灯真が黎の体を気遣ってくれているのはわかるが、黎は現状でじゅうぶん満たされている。それを伝えているつもりなのに。これ以上どうしていいかわからず、黎は口をつぐむ。うかがうように灯真を見ると、灯真はもうあの笑い方はしていなかった。
「……久我さん、さみしいの?」
黎が訊くと、灯真が「えっ、なんで?」と目を丸くした。
「急にどうした。そんなことないけど」
「一緒に寝ようって言ったから」
黎が言うと、灯真が首をひねって黙りこんだ。それから「あー」と小さく声をもらし、眉を下げる。
「あんときは、まあ、うん、ちょっとしんどかったからね。さみしくなって、一緒に寝ようって言ったけど、今回は違うよ。おまえの体が心配になっただけ。ただのおせっかい」
「さみしくないのに、一緒に寝ても、嫌じゃないの?」
「嫌じゃないよ。つうかそもそも、嫌だったらこんな提案しねえって。俺から言いだした話だぞ、これ。嫌だと思ってたら最初から言わないよ」
黎は灯真の話を聞いて、それもそうかと鼻から静かに息をもらした。
灯真はやりたくないことはやらないといつも言っている。黎と一緒に寝るのが少しでも嫌だと思っていたら、おそらくそんな提案すらしなかっただろう。……つまり、嫌じゃないのだ。黎が、隣で寝ていたとしても。
考えているうちになんだか胸の奥がむずがゆくなった気がして、黎は小さく身じろいだ。「つーわけで」と灯真がぽんと手を鳴らす。
「おまえが今のままでいいって言うなら別にそれでいいと思うよ。俺はソファで寝たらすぐ体痛くなるからむりだけど、おまえも同じとは限んねえもんな」
灯真はそこで一度言葉を区切り、息を継いだ。
「それか、ちょっとお試ししてみるのもありかもしんないね」
「お試し?」
黎はぱちりと瞬きをして灯真の言葉をなぞる。灯真がうなずいた。
「一週間くらい一緒に寝てみて、やっぱソファでいいやってなったら戻ればいいんじゃね? 別にソファ捨てるわけでもないしさ」
灯真の提案を聞き、黎はくちびるを結んで考える。
お試し。やってみないとわからないと、灯真はよく言っている。黎はソファでじゅうぶんだと思っている。でも、ほんとうはそうじゃないのかもしれない。試してみないとわからないことがあるのかもしれない。
「……お試し、してみていいの」
「もちろん。お互いしっくりくればそのまま続けたらいいし、お互い合わねえなと思ったり気になることがあったりしたら、やめればいいんじゃね」
「久我さんも、やっぱり嫌だったら、嫌って言う?」
「言うよ。なんかあれば、ちゃんと相談する。おまえ相手に変な我慢しねえよ」
灯真はそう言って、黎に笑いかけた。それを聞き、黎はかすかに安堵の息をもらす。黎は手を握りしめ、あらためて灯真をまっすぐに見た。
「お試し、したい」
「ん。じゃあ今日からするか」
灯真の頬にえくぼが浮かぶ。黎はぎこちなくうなずいた。
このあと灯真の寝室で一緒に寝るのだと思うとどうにも気がそぞろになってしまい、見かねた灯真に「今日は音読やめとこっか」と声をかけられた。せっかく時間を取ってくれているのに集中できないなんて。申し訳なくて黎は肩を落とす。けれど灯真は特に気にすることもなく、平然とした様子で黎を伴って寝支度を始めた。
並んで歯を磨きながら、黎は横目で灯真を見る。灯真の視線はぼんやりと鏡へ向けられていた。いつもと変わらない様子に見える。なんでそんなに平気そうなんだろう、と黎は思う。黎は、さっきから心臓がばくばくしてちっともおちつかないのに。
歯磨きを終え、いつもは寝室へ向かう灯真におやすみと声をかけて見送るけれど、今日は体を縮こまらせながら灯真の背中について寝室へ入った。灯真がテーブルランプを灯し、部屋の中が薄明るくなる。黎は緊張をあらわにしたまま、うろうろと目を泳がせた。
灯真が不在のあいだに家の掃除をするようになっても、黎は寝室には入らないようにしていた。ここに入るのは、灯真が体調を崩した日以来だ。
黎にとってこの寝室は灯真だけの場所であり、自分が間違いを犯した記憶がいまだ色濃く残る場所でもあった。どうふるまえばいいかわからないままベッドサイドで立ちつくしていると、灯真がベッドに片足だけ乗りあげた状態で黎を振りかえった。
「おいで、寝よ」
灯真に呼ばれ、黎はぽとぽととベッドに近寄る。灯真が壁際に身を寄せたので、黎は空いたスペースにそっと体を滑りこませた。
「明日は俺のアラームでおまえも起きてもらうからな」
灯真が茶化すように言う。いつも灯真がリビングに入ってくる物音で目覚めているから、黎にとってはなんの問題もなかった。黙ったままうなずき、天井を見る。緊張しているせいか、まったく眠くなかった。
隣で灯真が身じろぎ、ヘッドボードの棚からなにかを取る。横目で見ると、本を持っていた。今から本を読むのか、と黎は目をしばたたく。黎の視線に気づいたのか、灯真もこちらを見てはにかんだ。
「寝る前に本読むとさ、いい感じに眠くなんのよ。続き気になって読むの止まんなくなるやつじゃなくて、静かに読める本とか、もう読んだことある本。なんか、昔からのルーティンみたいな感じ」
そうなのか、と黎は思った。それならさっきの本を持ってくればよかったと思ったけれど、今からベッドを抜けだして取りに行く勇気はなかった。
灯真が本へ視線を戻す。黎は天井を見つめることにした。さらり、さらりと紙をめくる音を聞きながら、たとえばタブレットで本を読むのでもいいのだろうかと黎は考える。聞いてみようかと思ったけれど、灯真が本を読んでいるから話しかけるのはやめておくことにした。
しばらくして、灯真が静かに長く息をもらした。そのまま棚に本を戻す。かと思えば上から覗きこまれ、黎の体がひくりと揺れた。
「俺もう寝るから電気消すけど、眠くない?」
「……わかんない」
「電気つけとく?」
「いらない、消していい」
「そう?」
黎の返事を聞き、灯真がテーブルランプを消す。途端に部屋の中が真っ暗になり、黎はしぱしぱと瞬きをした。
隣で灯真が体勢を整えるように身じろぎしているから、マットレスが不規則に沈む。ひとつの掛け布団を共有しているせいで、灯真のぬくもりがすぐそこにあるように感じる。毛布は持ってくればよかったかもしれない。そこまで考えていなかった。
「寝れそう?」
静かな声で訊かれ、黎はわずかに迷ってからうなずいた。
「たぶん、寝れると思う」
「そっか」
黎の返事を受け、灯真がかすかに息を吐いた音が聞こえた。
「おやすみ、黎」
「うん、おやすみ」
挨拶を最後に、寝室がしんと静かになる。黎は灯真のかすかな呼吸の音を聞きながら目をつむった。
心臓がまだ騒がしくて、すぐには眠れそうにない。どうして灯真はこんなに平然としているんだろう。黎は静かに息を吐いて寝返りを打ち、灯真のほうを向いた。自分の腕を枕にし、反対の手でそうっと灯真の服の裾をつまむ。灯真の反応はなかった。もう眠っているのかもしれない。
なんでここまでしてくれるんだろう。
久しぶりの疑問が胸の奥にぽこんと浮かぶ。灯真の考えていることはよくわからない。わからなくて、おちつかないのに、心地よいと感じるのもよくわからなかった。
黎は静かに息を吐き、灯真にゆっくりと呼吸を合わせる。吸って、吐いて、吸って、吐いて。灯真の呼吸を追っているうちに、気づけば黎の意識もまどろみに溶けていった。




