4-7
黎は昼食として肉じゃがを作るのかと思っていた。しかし黎の予想に反して、昼食は灯真が用意し、肉じゃがは夕飯で作ることになった。
「肉じゃがは俺もあんまり作んないから作り方覚えてなくて、毎回レシピ調べてる。あとでそのレシピのサイト教えるけど、いきなり作りはじめるより、先にゆっくりレシピ読んで作り方確認してからのほうが、気持ちが楽かも」
買い物の片付けをしながら灯真に言われ、黎はたしかにそうだと納得した。昼食を食べたあとはそのレシピをタブレットで検索して、灯真の説明を受けつつじっくりと読んだ。レシピには知らない言葉がたくさん出てきたから、先に調べておいてよかったと思った。
黎がレシピを読んでいると、灯真からはやめに風呂へ入るよう促された。初めて料理をするなら時間に余裕をもっていたほうがいいだろう、とのことだった。
だから黎は、まだ陽も沈みきってないうちから風呂へ入った。黎が上がったら、今度は灯真が。黎はリビングで灯真が戻ってくるのを待ちながら、肉じゃがを作るのにそんなに時間がかかるのだろうかと考えていた。いつも夕飯を食べる時間まで、まだ二時間ほどある。いくら黎が慣れていないとはいえ、料理をひとつ作るのに二時間もかかるとはさすがに思えなかった。
けれど灯真が風呂から出てきて、いざ料理に取りかかってすぐに、黎はその考えがいかに浅はかだったか思いしることになった。
レシピの工程で簡潔に書かれている、野菜の下準備。じゃがいもは芽を取りのぞいて皮を剥き、乱切り。にんじんも皮を剥いて乱切り。玉ねぎは皮を剥いて根元を切り落とし、くし切り。昼からくりかえしレシピを読んでいたし、音読だってしてみた。皮の剥き方も、乱切りやくし切りの切り方も、ちゃんと調べた。
けれど実際にやってみたら、その手順のどれもが黎の想像を遥かに超えるほど難しいものだった。
まずピーラーの扱いが難しい。灯真が手本としてにんじんにピーラーを滑らせたときはずいぶん簡単そうに見えたのに、いざやってみると緊張のせいで手が震えてしまい、なんとか剥き終わったにんじんは表面ががたがたとしていた。乱切りも調べたとおりやったはずだけれど、切ったにんじんはサイズがかなり不揃いだった。
「まな板の上になんでも載せたままだとやりづらいだろ。切った野菜はボウルに入れると場所確保できて楽だよ」
灯真が言いながら、シンクの下からボウルを取りだす。言われたとおりににんじんをボウルに入れると、たしかにまな板の上がすっきりと広くなった。
じゃがいもの皮剥きは、もっと難しかった。にんじんと違って丸いから、よけいにピーラーを動かしづらい。ピーラーについている突起のようなもので芽を取ると言われたけれど、突起はうまくじゃがいもに刺さってくれず、芽のまわりがいびつにえぐれてしまった。
「じゃがいもの芽とか、緑の部分には毒があるから、おおげさに取って大丈夫だよ。難しかったら、包丁で芽のまわり切り落としてもいいし」
黎の手元を見ていた灯真が言う。灯真は手本のように、まだ皮を剥いていなかったじゃがいもの芽の部分を包丁でざっくりと切り落とした。それならできるかもしれない、と黎も同じようにやってみたら、どこまで切るべきか加減がわからず、じゃがいもがずいぶんと小さくなってしまった。
先のふたつに比べれば、玉ねぎはまだ簡単だった。茶色い皮を剥いて、先端と根元を切り落とす。そのままくし切りをしていたら、鼻がつんと痛くなった。洟をすすった音を聞き、灯真がふっふっと笑う。
「玉ねぎ切ったら涙出るって、ほんとなんだよ。ちなみに玉ねぎ切った手で目さわったら絶対だめだよ。目にしみて涙止まんなくなるから、しっかり洗ってからにしな」
黎は涙目になりながらもうなずく。悲しいわけでもこわいわけでもないのに涙が出てくるのが、ふしぎでしかたなかった。
なんとか野菜の下準備を終えたはいいが、にんじんもじゃがいももレシピの写真とは似ても似つかないくらい不格好だし、玉ねぎは厚さがばらばらだ。これでちゃんと作れるのだろうかと、じわじわ不安がこみあげてくる。ふと時計を見たら、キッチンに立ってからもう三十分以上たっていた。まだ野菜を切っただけなのに、と黎は目を丸くする。
動揺しながらも次の工程を確認するためタブレットにさわろうとして、汚れた手でこれにさわるのは嫌だな、と黎は考えた。しっかりと手を洗ってからタブレットの画面をタップする。
「そのうち、気に入ったレシピの本とか見つかったら、紙で買ってもいいかもな」
「なんで?」
タブレットから目線を灯真へ移す。灯真は穏やかに笑んでいた。
「汚すの嫌なんだろ。本なら、作ってる最中の手でさわってもいいんじゃない?」
「本も汚れるよ」
「レシピ本なんて、ぼろぼろに汚れるくらいキッチンで使いこむものなんじゃね? 俺は使わないからわかんないけど」
そう言って灯真が眉を下げる。そんなものなんだろうか。黎もよくわからないから返事はせず、あらためて画面を見た。次の工程はいんげんを茹でて切る。……そうだ。茹でる。黎ははっとして灯真を見る。
「あの、久我さん」
「ん? なあに」
「いんげん、茹でるって、忘れてた」
あんなにレシピを読んでいたはずなのに、野菜を切っているうちにすっかり頭から抜けていた。茹でるということは、お湯を沸かさないといけない。さすがにそれくらいはわかる。野菜相手にまだ時間がかかることが受けいれられず黎が固まっていると、「黎」と灯真に呼ばれた。
「いんげんならレンチンで時短って裏技も使えるけど、どうする?」
灯真に言われ、黎は黙ったまま考えた結果、首を横に振った。
「レシピどおりにやる」
初めて作るのだから、まずは、この手順どおりにやってみたかった。どんなに時間がかかったとしても。黎が言うと、灯真が「そっか」と口元をゆるませた。
「お湯沸かすなら、電気ケトル使いな。沸いたら鍋にお湯移せばいいし、そっちのがはやいよ。お湯の沸かし方まで指定はないだろ?」
灯真はケトルを指さしながらいたずらっぽく笑う。たしかにレシピにはそこまで書かれていない。黎はくちびるを結んでうなずき、ケトルを手に取った。
結局いんげん以外の具材と調味料をすべて加え、鍋に落とし蓋をしたときには、作りはじめてから一時間半近くたっていた。レシピを確認するたびに手を洗ってからタブレットにさわり、調味料も必要なときに冷蔵庫から出していたら、そのたびに作業が止まってしまった。
くつくつと鍋の煮える音を聞きながら、黎は大きく息を吐く。灯真はそれを見て「おつかれさん」と声をかけてくれた。黎は無言のまま小さくうなずいて応える。疲れた。とても。
レシピを確認すると、このあとは二十分ほど煮こんだら、盛りつけて終わりらしい。
「……できるの待ってるあいだ、なにしたらいいの?」
「んー、俺なら他のもの作るか、洗い物するかな?」
「ほかのもの……」
この空き時間に、さらに他の料理を用意する? 灯真の発言に、黎は言葉を失うほど驚いてしまった。灯真がやんわりと眉を下げ、首をかしげる。
「味噌汁作ってもいい? 黎作る?」
黎は力なく首を横に振った。そんな余力はない。灯真は「わかった」と言って冷蔵庫をあけた。手際よく準備を進めていく灯真をぼうっと見る。
「……久我さんってすごいね」
「そうかなあ。慣れだよ、慣れ」
あっさりと言うあいだも、灯真の手が止まることはない。慣れたからといって、こんなスムーズにできるようになるんだろうか。そんな自分、まったく想像できない。
すごいよ、と口の中で呟き、灯真の動きを見守る。包丁の扱いもそつがないし、なにより手順のようなものを一度も確認しない。灯真は肉じゃがができるまでの時間で、味噌汁だけでなくトマトと塩昆布を和えたものまで用意していた。そのまま洗い物を始めようとしたのを見て、黎は慌てて止める。
「それ、俺が洗いたい」
「そう? じゃあ……食べ終わってから、一緒にのんびりやるか。俺ごはんよそったりしてるから、黎はいんげん入れて、肉じゃが味見してみたら?」
「……したほうがいい?」
「どっちでも。味見は好みだよ。俺はするけど、しないひとも世の中いるし」
灯真に言われ、黎は肉じゃがの鍋をじっと見る。味見、と言われてもやったことがないからよくわからない。レシピにも書かれていなかった。灯真はさっき味噌汁の味見をしていたけれど、同じようにすればいいんだろうか。でもそのためにはどの皿を使えばいいんだろう? 灯真がさっき使った豆皿はもうシンクに置かれている。これを洗えばいいのだろうか。
黎がおろおろと悩んでいるあいだに、灯真はふたりぶんの米を飯碗によそいおえたらしい。灯真に覗きこまれ、黎ははっと息を呑む。
「なんか困ってる?」
「あっ、あ……あじみ、やりかた、わかんなくて……」
しどろもどろで答えると、灯真は「あ、そっかそっか」と食器棚からさっき使ったのと同じような小皿を出してくれた。そのまま鍋の落とし蓋を取ろうとしたところで手を止め、黎を見る。
「これ取るの、黎がやったほうがいいか。黎の作ってる肉じゃがだし」
そうなんだろうか。黎はふしぎに思いながらも、鍋の落とし蓋を取った。食欲をそそる香りがふわりと広がり、黎は思わず小さく息を吐く。準備してあったいんげんを入れると、鍋の中の見た目が少しはよくなった気がした。
「俺が味見するなら、この皿になんかちっこい具ひとつ乗せて食べるかな?」
そう言って灯真は小皿を黎に渡した。黎はごくりと唾を呑み、おたまで小さなじゃがいもをすくう。
「なんか適当に箸使えばいいよ。今日はフォーク使わないし、フォーク使っちゃってもいいし。はい」
灯真からフォークを受けとり、黎はおそるおそるそのじゃがいもを口に入れた。「あ」と灯真の声が聞こえたのと同時に、口の中が一気に熱くなる。はふはふと息をしていると、視界の端で灯真が苦笑したのが見えた。
「今度からは冷まして食べるといいよ。できたてって思ってる以上に熱いから」
熱さのせいで涙目になりながら、黎は黙ってうなずく。こんなに熱いと思わなかった。なんとか咀嚼したじゃがいもをこくんと飲みくだす。
味見のために食べたものの、これがおいしいのか、正解なのか、黎にはいまいちわからなかった。まずくはない、と、思う。飲みこめないほど変な味ではない。じゃあおいしいのかと聞かれると、わからない。難しい顔で空になった皿を見ていると、灯真が小首をかしげた。
「どう?」
「……わかんない」
「そっか。俺も味見する?」
灯真に訊かれ、黎はゆるく目を瞠る。灯真が味見したら、きっと正解がわかるだろう。そう思ったけれど、黎は結局、黙ったまま首をゆるく横に振った。最初のひとくちは、味見じゃなくてちゃんと食べてほしい。灯真が「わかった」と応える。
「んじゃ肉じゃがよそってもらおっかな。俺は他の準備するね」
そう言って、灯真が飯碗をダイニングテーブルへ運ぶ。灯真が用意してくれた皿にそれぞれのぶんの肉じゃがをよそいながら、黎はどうしようもなくおちつかない気分だった。いいにおいはする。レシピ本の写真とは似つかないくらい不恰好な見た目をしているけれど、食欲がなくなるほどではない……と思う。味見も、変ではなかった。たぶん。
でも、ほんとうにおいしいんだろうか。わからない。これを灯真に食べさせてもいいのだろうか。やっぱり味見をしてもらったほうがよかったのでは。
悩みながらも黎は肉じゃがをよそい、どちらかというとまだ見目よく盛りつけられたほうの皿を灯真の席に置いた。黎が皿を運んでいるあいだに灯真が味噌汁をよそい、今日の夕飯がダイニングテーブルに並ぶ。灯真が席についたのを見て、黎もいつもどおり向かい側に座った。
「いただきます」
灯真が手を合わせたのを見て、黎も手を合わせる。口の中がやけに渇いていて、なによりも先に水を飲んだ。
「めちゃくちゃうまそうじゃん。食べていい?」
黎がぎこちなくうなずくと、灯真が肉じゃがの皿を手に取った。大きなひとくちで頬張る。咀嚼している様子を、固唾を飲んで見守った。灯真の喉がごくんと上下する。
「うま! すごいじゃん、黎」
開口一番、灯真は顔をほころばせてそう言った。すぐにふたくちめを食べたのを見て、黎の体からゆるゆると力が抜ける。
「……おいしい?」
「おいしい。大成功じゃね?」
「ほんとう? どっか、だめなとこない?」
「え、ないんじゃない? おいしいよ」
「ほんとうにない? どっか、なんでもいいから」
「えー……?」
黎がしつこく食いさがると、灯真が首をひねりながら肉じゃがに視線を落とした。しばらく黙りこんだあと、空いた手でうなじをさする。
「……強いて言うなら、ちょっと肉硬いか?」
難しい顔で言われ、薄くひらいたくちびるから息がもれる。悪いところがあって当然だ、と思う反面、悪いところがあったことに失望している自分もいた。
「……おいしくない?」
「いや、おいしい。それは間違いない。好みの問題かも」
灯真は慌てた様子で否定したあと、「うーん」と首をひねった。
「なんだろな。最初に肉焼いて、野菜と炒めてるときに、調味料用意してただろ。もしかしたら、そのときにちょっと焼きすぎたのかな?」
灯真に言われ、黎はそのときのことを思いかえす。たしかに炒めている最中にタブレットを見て、どの調味料が必要か確認して、ひとつひとつ準備していた。あのときか、と黎はほぞを噛む。
「今度からはなんか作る前に、必要な材料も調味料もぜんぶ出してから作りはじめると楽だよ。最初の準備にどんだけ時間かかっても、料理そのものには関係ないからね」
そうなのか、と黎は思う。そういえば灯真も、味噌汁を作る前にあらかじめ味噌を出していた。あとはなにを準備していたのかよく覚えていない。手際のよさをただすごいとしか思っていなかった。
「他にもない? だめなとこ」
「あ、待て待て。だめとは言ってないから勘違いすんな」
そう言って、灯真がゆるく眉を下げる。
「肉じゃが、なんもだめじゃないよ。さっきから言ってるけど、ちゃんとおいしいって。なんか、おまえは信じてないみたいだけど」
灯真は黎をまっすぐに見て、瞳をゆるく細めた。
「黎、まだ味見でしか食べてないだろ。とりあえず食べてみたら?」
黎は箸を取り、おそるおそる肉とにんじんをまとめてつまんだ。食べてみたがおいしいかどうかも、そもそも肉じゃがの正解もよくわからない。……けれど。
「……まずくは、ない、と思う」
「そうだよ。まずくない」
「久我さん、おいしい?」
「そう言ってんじゃん。おいしいよ。ほんとにおいしい。俺、おまえ相手にわざわざご機嫌取りのお世辞なんか言わねえって」
灯真が困ったように笑う。その笑みにつられ、黎の肩から力が抜けた。灯真がおいしいと言ってくれたという事実に、安堵の気持ちがわいてくる。ほっとしたからか、忘れていた空腹も強くなった。黎はほんの少し冷めた夕飯を黙々と食べすすめる。初めて作った肉じゃがは、あっという間になくなった。
「ごちそうさま」
黎が食べおわったのを見て、灯真が手を合わせる。黎も同じように手を合わせ、食後の挨拶をした。
「あー、おいしかった。肉じゃが、久しぶりに食べたわ。ありがとね」
満腹だからかとろけるように笑んだ灯真に言われ、黎は曖昧に顎を引く。
「なあんか、いいねえ、こういうの。誰かの……おまえの作ったメシ食えるって」
灯真はぽろりとこぼすようにそう言い、ふたりぶんの食器をまとめて立ちあがった。その目元はほのかに赤い。
黎は灯真の言葉を聞いて少しぼうっとしていたが、洗い物をすると言ったのを思いだし、慌ててシンクに向かった。
「……久我さん」
「んー?」
「また作るね」
黎が言うと、灯真がわずかに目を瞠って黎を見る。
「だから、また、食べてほしい」
「……ん。楽しみにしてる」
ひとつ瞬きをしてから、灯真のまなじりがゆるむ。
灯真がおいしいと言ってくれたこと、できないと思っていたことが、なんとかできたこと。黎はそれを嚙みしめながら、初めて灯真と一緒に洗い物をした。




