4-6
「どう? メモできた?」
掃除機のスイッチを切った灯真がこちらを振りかえる。黎は眉を寄せ、手の中のメモ帳を見つめた。
昨日灯真は、黎に起こされるまですうすうと眠り、そのあとはソファに寝ころんだままスマホをさわって過ごしていた。夜にはもう元気になったと少しゲームをして、けれどいつもよりはずいぶんとはやめに寝室へ行った。一緒に寝るかどうかなにも言われなかったので、もうさみしくなくなったのかもしれない。黎はソファで眠った。灯真がいちにち使っていたからか、眠るときにも灯真のにおいが毛布に残っている気がした。
そして今日は昨日の約束どおり、灯真は朝食のあとからずっと掃除のやり方を教えてくれていた。
一度聞いただけで覚えるのは誰でも難しいから、と、灯真はてのひらサイズのメモ帳をひとつくれた。灯真が昔仕事で使ったけれど、ぜんぶは使いきれずに放置していたものらしい。
使ったページをちぎったから少し薄くなったそれに黎がメモを取るあいだ、灯真はゆっくりと掃除を進めてくれた。
いつも灯真のうしろをついていきながら掃除するところを見ていたはずだけれど、あらためて言われるとなにをしているのかよくわかっていなかったことだらけだった。手順やどこになにがあるか、どんなものを使うかを灯真がわかりやすく説明してくれたのをかたっぱしから書きつけたメモは、読みかえすだけで今の黎にはかなりの労力を要しそうだった。
「久我さんって、すごいね」
ぱらぱらとメモをめくりながら、小さく呟く。いつも灯真は簡単そうにやっていたけれど、ちゃんと教わるとちっとも簡単そうには思えなかった。灯真はぱちりと瞬きしたあと、目を泳がせる。灯真のくちびるの端はなぜかむずむずと動いていた。
「……いや、そんな、大したことしてないから、やめてよ」
今度は灯真がぽつりと言う。はっと灯真へ目を向けると、灯真の耳はなぜか真っ赤になっていた。黎は顔をくもらせ、灯真の様子をうかがう。
「……嫌だった?」
なにか気にさわることをしてしまったのだろうか。不安になっていると、灯真が照れているような、あるいは顔をしかめているような、とても難しい表情で黎を見た。
「そうじゃないけど、おまえのそういうの、お世辞とかじゃないってわかるから、照れるってだけ」
灯真はぼそぼそとそう言って黎から目を逸らし、そのまま出かける用意を始めた。このあとは買い物に行くと言っていたから、その準備だろう。黎はメモ帳を自分の収納箱へ置いてから、灯真の背中についていく。
「もう言わないほうがいい?」
黎が訊くと、灯真が今度はわかりやすく苦笑した。
「言いたいと思ったら、まあ、言ってもいいけど。我慢するもんでもねえし。褒められんのは嬉しいよ。でも、あんま慣れてないから、恥ずかしいだけ。おまえの服選ぶから、ちょっと待ってて」
灯真は言うだけ言って寝室に引っこんだ。黎は灯真の言葉を咀嚼しながらくちびるを結ぶ。
灯真が嬉しいと思ってくれることをしたい。だからといって灯真に恥ずかしい思いをさせたいわけでもない。でも灯真は我慢しなくていいと言う。難しいな、と思いながらも、黎は灯真のさっきの表情を思いだし、知らず知らずのうちに口元をわずかにゆるませていた。
「そういえば、なんか作りたいメシあんの?」
買い物の最中灯真に訊かれ、黎はわずかに眉を寄せる。昨日レシピの本をいろいろ見てはいたけれど、結局自分がどんな料理を作りたいのかはよくわからなかった。
「……久我さん、食べたいもの、ある?」
黎が言うと、灯真が「俺?」と目元をゆるませた。
「おまえが作ってくれるなら、なんでも食べたいけど」
灯真の答えを聞き、黎の顔がますます渋くなる。
「じゃあ、久我さんの好きなもの」
今度はそう言うと、灯真が野菜を吟味しながら軽く肩を震わせた。
「自分の食べたいのとか、好きなメシじゃなくていいの? せっかく自分で作るんだし」
灯真に言われ、黎はぱちりと瞬きをした。灯真のためになにか作りたいと思っていたから、自分のことなんて考えていなかった。黎は閉口し、考えこむ。そのあいだ灯真も静かに買い物を進めていた。
灯真が毎日三食用意してくれるおかげで、以前は食べたことのなかった料理を口にする機会が格段に増えた。どの料理も、おいしい、と思う。思うけれど、黎はまだ味のことがよくわからないままだった。コンビニの弁当より味がなじむ気はする。でもなにが違うのかはわからないし、なにが好きとか嫌いとかも考えたことがない。そもそも、灯真が日々出してくれる料理がどんな名前なのかもあやふやだ。灯真になにかを訊かれるたび、自分がなにも知ろうとしてこなかったことを痛感する。
「……俺、わかんないから、久我さんの好きなものがいい。久我さんの食べたいもの、作りたい」
店内の喧騒にかき消されてしまいそうなくらい小さな声でぼそりとこぼす。灯真はちゃんと聞きとってくれたらしく、「そっか」とやわく笑った。
「うーん……、つっても、俺、けっこうなんでも好きなんだよなあ……」
のんびりとカートを押しながら灯真が言う。
「どっちかって言うと、和食のが好きかな? 米と味噌汁に合うおかずが好きなんだよな。豚肉焼くならポークチャップより生姜焼きのほうが好きだし、魚もムニエルより塩焼きのほうが好きだし」
たしかに灯真は夕飯のとき、必ずと言っていいくらいに味噌汁を作ってくれていた。朝はパンだけれど、夜はいつも米だ。なるほど、と思いながら灯真の話の続きを聞く。
「まあでも、だからって洋食とか中華がきらいってわけじゃなくて、ふつうに好きだし食うよ。自分で作るなら和食の頻度が高くなるってだけかな。あとは……そうだなあ、煮物とか好きだけど、自分じゃあんまり作んないかも」
「にもの?」
「うん。帰ってきてから作るとなると、下ごしらえとか煮こむ時間とかちょっと手間かかるからさあ。めんどくさくなって、時短なメシにすることが多いかもな。休みの日に作ればいいのかもしれないけど、それはそれでめんどくさくて」
そう言って、灯真が照れたように眉を下げる。黎はなかば前のめりになりながら隣の灯真を覗きこんだ。
「その、煮物って、どんなのがあるの」
「えー、どんなの? たとえば、そうだなあ……肉じゃがとか? あとは、筑前煮とか……ぶり大根とか、ひじき煮とか? なんかそういう、茶色くて見た目は地味だけど、米に合う系が好き」
灯真がぽつぽつと例を挙げる。黎はそれを聞きながら、気づけばきゅっと手を握りしめていた。
「久我さん、俺、煮物作りたい」
黎が言うと、灯真が黎を見てふっと瞳を細めた。
「そっか。なに作る?」
灯真に訊かれ、黎ははっとする。そうか。今しがた灯真が例を挙げたように、煮物と言ってもいろいろ種類があるのだ。黎はうろうろと目を泳がせたあと、あらためて口をひらく。
「その、にくじゃが? 久我さんが、最初に言ってたの。それにする」
「ん、わかった。じゃあ材料買うか」
そう言って、灯真が踵を返した。黎も灯真の隣に並んでついていく。
「肉じゃがの肉は牛肉と豚肉どっちでもいいと思う。個人の好みっていうか。今回は牛肉にして、次作るときは豚肉にしてみるか」
灯真は肉コーナーから、牛肉のパックをかごに入れた。次、という言葉に黎の胸がそわりとする。
「んで、野菜はじゃがいもと、にんじんと、玉ねぎが定番かな? あといんげんが入ってることが多いかも。俺はいんげんいれたい派。絹さや派もいると思う。このへんもひとそれぞれ」
話を聞きながら、黎は目を丸くしてしまった。肉もそうだが、肉じゃがというひとつの料理で入れる野菜が違ったりするのか。同じ料理なのに。
灯真は手際よく野菜をかごへ入れたあと、また別のところへ向かった。
「あとねえ、レシピによると思うけど、俺はしらたき入ってんのが好き。肉じゃがのしらたきはまじでうまいからおすすめ」
そう言って、灯真はしらたき片手にあどけなく笑った。黎もつられて、結んでいた口元がかすかにほころぶ。
「調味料は家にあるのでできるから、一緒に作ってみるか」
灯真に言われ、黎は黙ってうなずく。買い物を続ける灯真についていきながら、黎は胸が高鳴っているのを自覚していた。




