4-5
なんとなく気持ちがふわついたまま、黎も部屋に戻る。灯真はキッチンに立っていた。食卓にはサンドイッチの袋が乗っている。
「俺牛乳飲むけど、黎は?」
「俺も、飲む」
黎が答えると、灯真は「おっけー」と軽い返事をしてくれた。先に食卓について待つ。両手にマグカップを持った灯真は、ひとつを黎の前に置いてから座った。
「んじゃ食うか。腹減ったー」
灯真は言いながら、サンドイッチの包みをそれぞれの前に置いた。手を合わせ、「いただきます」と挨拶をする。黎も灯真と同じように挨拶をしてから、サンドイッチを取った。
「久我さんがデリバリー使うの、珍しいね」
なにかを頼んでいるところは見たことあるけれど、いつも土曜の昼間、映画を見るときだけだ。なんとなしに黎が言うと、灯真の眉がゆるく下がった。
「まあ、たまにはな。便利だとは思うけど、毎日使うとやっぱ高いじゃん。でも、今日みたいな作るのだるい日くらいはね」
そこまで言って、灯真は食事を再開した。サンドイッチにかぶりつき、「うまあい」と目元をほころばせている。
黎は灯真の話を反芻するのに忙しくて、まだひとくちも食べられていなかった。珍しいなと思ったけれど、その理由までは考えていなかった。
もしも自分がなにかを作れていたら、と黎はできもしないことを考える。料理なんてまともにしたことない。なにもしないことを咎められたから試みたことはあっても、うまくできず怒られることばかりだったからやめた。灯真と暮らすようになってからは、灯真が毎日食事を用意してくれていたし、灯真も黎に家事や料理を求めなかったから、なにもしていなかった。
けれどもし、自分が、体調が悪くても食べられるようなものを作れていれば、昨晩灯真はなにかを食べられたんだろうか。今朝だって、作る元気がなくてもデリバリーに頼らずなにかを食べられたんだろうか。そもそも、自分を大切にする気力もない状態なのに黎の食事を用意させるような事態には陥っていなかったんではないだろうか。
「黎、食わねえの?」
話しかけられ、黎ははっと意識を引きもどす。灯真はもう半分ほど食べおえ、黎をふしぎそうに見ていた。黎は慌ててかぶりを振り、サンドイッチをかじる。厚いパンに具がたくさん挟まっているから、灯真のようにひとくちで上から下までかじることはできなかった。
灯真より時間をかけてサンドイッチを食べきってから、ふたりそろって「ごちそうさま」と挨拶をした。灯真はマグカップをふたつまとめてシンクに下げ、それを洗う。いつものようにその姿を眺めようとして、黎ははっとした。まだだるいと言っていたのだから、黎がやったほうがよかったのでは。洗い物ならできる。しかし灯真はあっというまに洗いおえたらしく、平然とした顔で手を拭いていた。
「……久我さん、掃除するの?」
いつもなら、このあとは家中掃除する時間だ。黎が訊くと、灯真は「いや」と首を振った。
「今日はいいや。明日元気だったらやる。できなくても、一週間さぼったくらいで壊滅的に汚くなるほどではないし」
そうなのか、と黎は思う。これが、やりたくなかったらやらない、なんだろうか。それともただ単に、体調が悪くてできないだけなんだろうか。考えているうちに、灯真がサンドイッチのゴミも捨てた。スマホ片手にソファに座ったのを見て、黎もいつもどおり灯真の足元のラグに座る。
「黎、知ってる?」
ふいに話しかけられ、黎は首をかしげながら灯真を振りかえる。
「食ってすぐ横になったらさあ、消化に悪いんだよ」
灯真はそう言いながらものそのそと体勢を変え、ソファに横になった。言っていることとやっていることが違う。黎はぱちりと目を丸くする。
「久我さん、寝るの?」
黎が訊くと、灯真は困ったように笑った。
「寝るかわかんないけど、ごろごろする」
「体に悪いんじゃないの?」
「そうだよ。だからほんとうはよくないんだよ。でも俺は今日だらけるって決めたから、横になる」
灯真はきっぱりと言いきった。よくないことなのにやってもいいのか、と黎は内心驚く。しかし灯真がそう言うのなら、と、黎は灯真に毛布をかけた。灯真が照れくさそうに目を細め、毛布にくるまる。
「好きなことしてな。俺もそうするから。映画とか見たかったら、音出していいからな」
灯真に言われ、黎は黙ってうなずいた。灯真が手元のスマホへ視線を向けたのを見て、黎もタブレットを取る。けれどなにかする気にはなれず、暗い画面のまま膝に乗せた。
「……久我さん」
「んー?」
「体調、まだ、悪い?」
こわごわと訊くと、灯真がスマホから顔を上げた。「うーん」とうなじをさする灯真をじっと見る。
「悪いってほどじゃないかな。もうほとんど元気だけど、まだちょっとだるいの残ってるってくらい。でも、元気だよ」
灯真の説明を聞き、黎の表情がくもる。それは、ほんとうに元気なのだろうか。
「なんも説明してなかったし、びっくりさせたな。ごめん」
へらりと笑った灯真に謝られ、黎は面食らう。慌てて首を大きく横に振ったが、灯真の表情は変わらなかった。
「前話したよな、この時期体調崩しやすいって。気圧の変動に弱いんだよね、俺。自律神経が乱れやすいみたいで。漢方でゆるやかにはしてるんだけど、昨日はちょっと、どかっと崩れた感じ。心配かけたよな、ごめん。風邪みたいに移る病気じゃないから、あんま気にしないで。毎年のことだから慣れてるし」
灯真は笑ったまま訥々と話す。黎は灯真の話を聞きながら、くちびるの内側を嚙んでしまった。
なぜ灯真が謝るのか、黎にはよくわからなかった。心配はしたけれど、灯真が悪いわけではない。黎が無言でいると、灯真は話が終わったと解釈したらしい。またぼんやりとスマホへ顔を向けた。さっきとは違い、表情がない。黎は小さく息を吐き、ここ最近の灯真の様子を思いかえす。
言われてみればたしかに、ときどき灯真の覇気がないように感じたことはあった。薬を飲むようになってからではないだろうか。朝夜も、どことなくぼんやりしていたような気はする。
それなのに灯真は、ずっといつもどおりだった。いや、そういえば、最近酒を飲んでいるところを見ていないかもしれない。でもわかりやすい変化のようなものはなかったと思う。
灯真はずっと、体調が悪いのに洗濯や家の掃除をしたり、ふたりぶんの食事を作ったりしてくれていたんだろうか。黎ができないから。
「……久我さん」
黎が呼ぶと、灯真がスマホから黎へ視線を移した。
「久我さん、俺、掃除と、料理のやり方、教えてほしい」
緊張しながらも言いきると、灯真がきょとりと目を丸くした。わずかな間を置いて、難しい顔になる。
「それって、おまえがやりたいから? それなら教えるけど、もし俺の代わりにやらなきゃとか考えてるなら、なんか……それは、どうかなって思う」
言葉を選ぶように話され、黎は静かに目を瞠る。
「別に俺は体調悪くても、元気だとしても、やれることはやるし、やりたくないとか、やらなくていいって思ったことはやらない。掃除しなくてもなんとかなるし、メシ作るのだるくても、じゃあたまにはデリバリーすっかって思うだけ。逆に、体調悪いからってむりしてたつもりもないから。やれる範囲でやってたこと。俺の考えすぎっていうか、勘違いだったらごめん」
聞いているうちに、黎の目線が落ちていく。灯真の言葉を否定しきれない。自分がなにもできないから、体調の悪い灯真にむりをさせていたのではと考えていたのは、事実だ。
沈黙が続き、灯真がスマホに目を戻す。黎はまだ考えがまとまらなかった。
灯真の体調が悪くならなかったら、洗濯を教えてと言うことはなかっただろう。灯真がいつもやってくれていたから。やらないといけないという理由ではなく、自分からなにかしたいと思ったのはほんとうだ。でもそこに、灯真の代わりにという考えは、まざっていなかっただろうか。
でも、初めて自分で動かせた洗濯機を見ていたときの、あの目が離せなくなるような気持ちは、今も黎の中に残っている。できないと最初から諦めていたことなのに、できた。灯真がちゃんと教えてくれたから、黎にもできたのだ。
今まで誰かから、家事のやり方を教わったことはない。教えてほしいと聞けたこともない。なにもわからないまま、対価として求められたから手を出しては、失敗してきた。やらないと怒られるのに、やっても怒られる。だから自分にはなにもできないと思っていた。
でも、灯真には、聞けた。そして灯真は、ちゃんと教えてくれた。
灯真が黎に、家事という対価を望んでいないことはわかっている。ここにいるための義務として家事をしようと思ったわけでもない。だからといって、灯真の代わりに、と思う気持ちがあるのも、否定できない。
この考えをどう灯真に伝えたらいいのか、黎にはわからなかった。思っていることをうまくすべて言葉にできない。黎は目線を落としたまま、息を吸いこんだ。
「……俺」
黎が話しはじめると、灯真がこちらに意識を向けたのがわかった。
「久我さんの代わりに、俺も、できたらって、思った。久我さんのために、なんか、できたらって、掃除も、料理も、できないから、覚えたかった。覚えたいって、思った。だから、教えてほしいって……。でも、それは間違い? 久我さん、嫌な気持ちになる? それなら、いい」
自分がなにかをすることで、灯真を不快にさせたいわけではない。そんなこと、望んでいない。結局なにひとつまとめられないままぼそぼそと言って、黎は口をつぐんだ。灯真の視線を感じる。けれど、顔を上げられない。
しばらくの沈黙のあとで、「そっか」と灯真が呟いた。
「いつものくりかえしになっちゃうけど、おまえがなにかしないといけないって思う必要も、俺ができないときは代わりにやらなくちゃと思う必要もない。おまえにぜんぶ任せることもない」
灯真はゆっくりと言ったあとで、一度息を継いだ。
「そんでも、おまえは覚えたい?」
黎はぎこちなく、しかしためらわずにうなずいた。覚えたい。できるようになりたい。灯真に、教えてもらいたい。
「……そっか」
一拍遅れて聞こえてきた灯真の声は、さっきよりも少しゆるんでいるように思えた。黎はちらりと灯真の様子をうかがう。灯真はなぜか、顔をほころばせて黎を見ていた。黎は思わず瞬きをする。
「んじゃ、教えるよ。そんなん誰かに教えたことないから、説明へたかもしれないけど」
笑んだまま言われ、黎はゆっくりと瞠目した。灯真は「そっかそっか」と言いながら、口元をてのひらで覆う。
「なんか……それ、嬉しいね」
灯真がまるでひとりごとのように呟く。その声がずいぶんとやわらかく聞こえて、黎はなぜか息を呑んでしまった。なんで灯真は、嬉しいんだろう。わからない。けれどその言葉を反芻していると、なんだか胸の奥が詰まるような気持ちになった。灯真が黎に笑いかける。
「じゃあ、明日な。朝メシ食ったら掃除して、買い物行って、一緒にメシ作ろう。明日は忙しいな」
黎はえくぼを見ながら、小さくうなずいた。心臓がとくとくと鳴っている。灯真は大きく体を伸ばしたあと、スマホをラグに置いた。
「明日いっぱい動くために、今日はのんびりさせてもらうわ。ちょっと寝るし、おまえも好きにしてな。もし昼になっても起きなかったら起こして」
黎がうなずいたのを確かめて、灯真は毛布にくるまりなおした。目を閉じた灯真を見ながら、黎はおそるおそる「久我さん」と呼びかける。灯真はうっすらと目をあけてこちらを見た。
「また、撫でても、いい?」
黎が訊くと、灯真がふっと目元をゆるませた。
「いいよ」
灯真はそれだけ言って、また目をつむった。黎はそうっと灯真の頭を撫でる。昨日と違い、灯真の髪はさらさらとしていた。
「おやすみ」
黎が小声で言うと、灯真が「ん……」と声をもらした。それきり会話が途切れる。
黎はしばらく灯真の頭を撫でつづけたが、灯真が静かに寝息を立てはじめたころに手を離した。それからソファの座面にもたれかかり、タブレットを起動する。なにをするか悩んで、今まで見ようともしていなかった料理のレシピ本を検索した。
さまざまな料理の写真をぼんやりと眺めながら、そういえば灯真の料理は野菜が多いな、といまさら気がついた。毎食絶対に野菜が入っている。どうしてなんだろう。それも、体を大切にするためのひとつなんだろうか。
黎も、そんな料理を作りたい、と思った。体を大切にするための料理を、灯真のために、作ってみたい。
自分を大切にすることがどうして大事なのか、まだあまりわかっていない。自分を大切にしたからどうなるのかも、まだ、あまり。
でも灯真のことは、大切にしたいと思った。ここにいるための対価としてではない。ただ、そうしたくなった。




