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電子音が聞こえ、黎は目を覚ます。目はあけないまま、鼻からそっと息をもらした。夜中にも何度か起きてしまったから、まぶたが重い。横からうなり声が聞こえたかと思ったら、アラームの音が止まった。寝室がふたたび静かになる。
灯真が身じろいだのにあわせてマットレスが沈む。それからすぐ、灯真が黎の頭を撫で、布団を肩までかけてくれた。いつもの朝と同じ動きだ、と黎の口端がゆるみかける。そろりとまぶたを持ちあげると、スマホ越しに灯真と目があった。灯真が照れくさそうにはにかむ。
「れい、おはよ」
「……おはよう」
お互い寝起きのかすれた声で挨拶をかわす。とろとろと瞬きしていると、灯真が寝転んだまま体を大きく伸ばした。それから脱力すると同時に、「はあ」と気の抜けた声をもらす。灯真の顔色は、昨晩帰ってきた直後よりもずいぶんよさそうに見えた。もう大丈夫なんだろうか。
「久我さん、元気になった?」
おそるおそる訊くと、灯真の眉がゆるく下がった。
「うん、ありがとな。昨日より元気」
灯真の返事に、黎は黙ってうなずく。昨日より、ということは、いつもに比べたらまだ元気ではないということなんだろうか。けれどここで深掘りするのはなんとなく気が引けてしまった。灯真はふわふわとあくびをしたあと、手の甲で目元をこする。
「なんか、すっげえ爆睡した。おまえがいてくれたおかげかも。ありがと」
それを聞いた途端、黎のくちびるがむずりと動いてしまった。礼を言われても、黎はなにもしていない。ただここにいただけだ。それなのに感謝されたことがむずがゆくて、居心地が悪くて、けれど胸の奥がほんのりとあたたかくなったような気がした。灯真がさみしくならずにたくさん眠れたのなら、よかった。ほんとうに。
灯真はもぞもぞと身じろぎ、スマホを持ってうつぶせになった。
「朝メシ、適当になんか頼もうぜ。なにがいい?」
そう言って、灯真は黎にも見えるようにスマホの画面をかたむけた。黎も灯真の隣でうつぶせになる。どうやらデリバリーのサイトでなにか頼むつもりらしい。
「なんでもいい。久我さんの食べたいもの」
画面を見たままそう言うと、灯真が黎を見て困ったように笑った。
「腹減りすぎて選べねえ。選んでもらってもいい? なんでもいいから」
灯真の言葉に、黎の目線が揺れた。
そんな、なんでもいいと言われても、難しい。どうしようと戸惑いながら、黎はいつもの灯真の朝食を頭に思い浮かべる。スープと目玉焼きとパンとコーヒー。灯真は朝から選んで疲れるのは嫌だから、いつも朝食は同じにしていると言っていた。それなら、パンのほうがいいんだろうか。黎は散々迷った結果、サンドイッチの写真が載っている店を指さした。その指先が緊張のせいでかすかに震えている。
「これにする?」
黎がうなずくと、灯真は「わかった」とその店のメニューをひらいた。
「俺、いちばん上のやつにする。黎は?」
「じゃあ、俺もそれ」
「おっけー」
黎が答えると、灯真が注文を進めた。しばらくして灯真が体を起こし、ベッドに座る。
「俺シャワー浴びたいからしばらく洗面所使えなくなるし、黎、先に歯磨きしておいで」
「シャワー浴びるの?」
こんな時間から? と驚いて訊くと、灯真は「うん」とあっさりうなずいた。
「昨日風呂入ってねえの気になるし、休みだし」
休み、という言葉に黎は小さく息をもらす。そうだ。今日は土曜日だ。黎は納得し、洗面所へ向かった。
歯を磨き、リビングへ戻る。灯真はソファに座って、電源もついていないテレビを眺めているようだった。黎が戻ってきたのに気づき、灯真がこちらを見て瞳をゆるく細める。
「んじゃ、シャワー行ってくる。もしかしたらピンポン鳴るかもしれないけど、無視していいよ。置き配にしてるから」
無視、という言葉に黎は少しだけ目を瞠る。そんなことをしていいのだろうか。黎が面食らっているあいだに、灯真はいつもよりのっそりとした足取りで浴室へ行ってしまった。
灯真がいいと言うのなら、と黎はひとまず食卓に座る。チャイムが鳴ったらどうしようと思うとおちつかなくて、黎はそわそわと廊下のドアに意識を向けつづけた。
しばらくして、灯真がシャワーから戻ってきた。しかし部屋には入らず、「黎」と手招かれる。
「ほら、昨日洗濯のやり方の話してただろ。教えるから、おいで」
灯真の言葉に、黎はきゅっとくちびるを結ぶ。覚えてくれていた。ほんとうに教えてもらえる。はやる気持ちを抑えながら、足早に灯真のところへ行く。
「つっても、簡単だよ。ボタン押すだけだし」
洗面所へ戻りながら言われ、黎は思わず「そうなの?」と声を上げてしまった。
「うちの洗濯機、洗剤自動投入なんだよ。いちいち計らなくていいから、すげえ楽。そんで、俺はめんどくせえからぜんぶ一緒くたにして洗ってる。ほんとうはタグにあわせて洗い方変えたほうがいいんだろうけど、洗えるし。それでだめになったらそんときはそんときだ」
そうなのか、と黎は目をしばたたく。灯真は洗濯物をかごから出そうと少しかがんだあと、「あ」と声をもらした。
「黎、やってみる?」
その姿勢のまま訊かれ、黎はゆっくりとうなずく。灯真は目元をゆるませ、腰を伸ばした。
「そこに洗濯物ぜんぶ入れたら、蓋閉める」
言われたとおりかごから出した洗濯物を、洗濯機の中に入れる。蓋を閉めると、かちん、と小さく音が鳴った。
「で、電源ボタン押して、次にスタート押す」
灯真の説明にあわせ電源ボタンを押すと、液晶がぱっと光った。続けてスタートボタンを押す。次は、と灯真を見ると、灯真がにっと口角を上げて笑った。
「はい、おしまい」
「え」
まさかの展開に、気の抜けた声がこぼれる。
「お、おしまいなの」
「おしまいだよ。これで乾燥までやってくれるから干さなくていい。終わったら畳んで片付けるだけ」
言いながら、灯真が洗濯機の天面をぽんと叩く。簡単だと言われてはいたが、ここまでとは思っていなかった。拍子抜けしてしまい、黎は小さく息をもらす。
「……俺、また、やってみたい。だめ?」
音を立てて動く洗濯機を見ながらぽつりと訊く。大きな音の隙間を縫うように、灯真がふっと吐息だけで笑ったのが聞こえた。
「だめじゃない。いいよ。やりたいとき言って」
黎はくちびるを結び、そっとうなずく。自分の操作で動かせた洗濯機から、なかなか目が離せない。
「黎、そろそろ戻ろ」
笑みまじりに声をかけられ、黎ははっと灯真を見る。そこで、あれ、と首をかしげた。灯真は首にタオルをかけたままだ。よく見れば、髪からしずくも垂れている。珍しい光景に、黎は目を瞬かせた。
「久我さん、髪」
黎が呟くように言うと、灯真が気まずそうにさっと目を逸らした。
「や、ちょっと……だるくてさ。まあ、気にしないで」
灯真が首にかけていたタオルで髪をぬぐう。けれど、しずくはまだ落ちていた。ちょっと。また出てきたその言葉に、黎の眉がかすかに寄る。昨日より元気になったとは言っていたけれど、まだだるかったのか。髪を乾かせないくらいに、ちょっと。
「あの、久我さん」
呼びかけた声はうわずっていた。灯真が黎を見て小首をかしげる。黎は唾を飲みこんでから、ふたたび口をひらいた。
「俺、久我さんの髪、乾かしたい」
黎が言うと、灯真がきょとりと瞬きをした。
「……え、俺の髪?」
わずかな沈黙のあと、灯真が呟く。黎は灯真をまっすぐ見たままうなずいた。灯真は面食らったような表情でしばらく黎を見ていたけれど、そのうちふっと表情をゆるませた。
「……じゃあ、お願いしようかな。いい?」
「久我さんが嫌じゃなければ」
「俺は嫌じゃないよ。むしろありがたいかも」
灯真は困ったように笑って、うなじをさすった。そのまま洗面台の前で膝立ちになる。黎が灯真に髪を乾かしてもらうときと同じ姿勢だ。
「んじゃ、よろしく」
鏡を向いたまま言われ、黎は一度深呼吸をする。ドライヤーを用意して電源を入れると、大きな音が洗面所に響いた。ドライヤーの風を当てながら、おそるおそる灯真の頭にふれる。
黎は灯真と一緒に美容院へ行ってから、毎日ドライヤーを使ってきた。今でもときどき灯真が髪を乾かしてくれるけれど、逆のパターンは初めてだ。
自分の髪を乾かすのは慣れてきたが、他人となるとまた勝手が違う。ちゃんとできているんだろうか。心配になって鏡越しに灯真の表情をうかがうと、灯真は穏やかに瞳を細めていた。……なんだか、ずいぶんくつろいでいるように見える。そんな顔していると思わなくて、黎はすぐに目線を髪に戻した。
髪を乾かしながら、黎は灯真の体調について考える。明るいところで見る灯真の顔色は、やはり昨日よりは悪くないけれど、いつもどおりかはわからない。シャワーは浴びられたみたいだし、これから朝食を食べる予定だし、昨日よりは元気、という言葉自体はほんとうなんだと思う。でも、まだだるいと言っていた。大丈夫なのだろうか。昨日は頭が痛いと言っていたけれど、まだ痛いのだろうか。
考えこんでいるうちに、手がおろそかになっていたらしい。こちらを振りかえった灯真のくちびるが動いたことで黎ははっと我に返った。
「なに?」
ドライヤーを止め、かき消された言葉を聞き返すと、灯真がやんわりと苦笑した。
「いや……どうかしたかなって。おしまい?」
「まっ、まだ」
黎は慌ててかぶりを振る。
「まだ、終わってない、まだ」
自分でやりたいと言ったことの最中に考えごとをしていたのが申し訳なくて、言葉がつっかえる。灯真は、「そっか」とだけ言ってまた前に向きなおった。黎は息を整え、あらためてドライヤーのスイッチを入れる。今度はできるかぎり、目の前の灯真にだけ集中した。
灯真の髪のどこをさわってももう湿っていないのを確認して、黎はドライヤーの電源を切る。「終わった」と声をかけると、灯真がこちらを振りかえった。
「ありがと」
まっすぐ礼を言われ、黎は黙ったまま曖昧に顎を引いた。灯真は右手で自分の頭をふわふわとさわったあと、照れくさそうにはにかむ。
「なんか、嬉しいもんだな、これ」
灯真は耳を赤く染めながらそう言って、そそくさと洗面所を出ていった。黎はドライヤーを片付ける途中で固まったまま、灯真の出ていった扉の向こうを見つめる。……嬉しいんだ。灯真の言葉を反芻しているうちに、口元がかすかにゆるんでしまった。




