4-3
灯真が身じろいだのか、ベッドが軋んだ音がした。そのまま寝るのかもしれない。寝るなら邪魔になるかも。そう思いながらも、黎はその場から動けなかった。大きく息を吸いこんでから、「久我さん」と灯真を呼ぶ。灯真の視線が黎に向いたのがわかった。
「久我さん、もう寝る? もう、できることない?」
心臓がどくどくと鳴っている。黎は手を握りしめ、灯真の返事を待った。わずかな沈黙のあと、灯真が「うーん」とかすれた声を出す。
「そうだなあ。今んとこ、もうなんもないかも」
灯真の返事に、黎は浅く息を吐いた。もうできることはない。それならなおさらここにいる意味がない。ひとまず灯真が無事なことは確認できたのだから、出ていかなければ。
「わかった。久我さん、おやすみ」
なんとなく灯真のことは見られないままそう言って、黎は灯真に背を向ける。するとうしろから「あ」と灯真が声をもらしたのが聞こえた。どうかしたのだろうか。黎は顔だけ振りかえる。灯真はなぜかてのひらで口元を覆っていた。その姿に黎ははっとする。
「久我さん、きもちわるい?」
声をかけながらベッドのそばに戻る。灯真は一瞬目線を揺らし、「あ、いや」と声をもらした。
「大丈夫、ごめん、そんなことない。平気だよ」
「でも……」
「いや、ほんとに、吐き気とかそんなんはなんもなくて、ほんと、大丈夫で……」
灯真はしどろもどろに話したあと、ため息のようなものをこぼした。
「ほんと、大丈夫。自分にちょっと、びびっただけで、ほんと、ごめんな」
「自分に?」
どういうことだろう。灯真の言っている意味がわからなくて、黎の眉が寄る。謝られているのも、またちょっとと言っているのも、嫌だ。でも今はそれよりも、様子のおかしい灯真のほうが気になった。黎が様子をうかがっていると、灯真が黎にへらりと笑いかける。
「引きとめてごめんな。おやすみ。ありがとな、いろいろ」
なにかをはぐらかされた、と黎は思った。二日前、体調について話していたのに音読をしようとうながされたときと同じだ。灯真はおやすみと言っている。体調もまだ悪そうだ。それなら、このままおやすみを返してリビングに戻るべきだ。わかっているけれど、今度は、はぐらかされたままにしたくなかった。
「久我さん」
黎が呼ぶと、灯真の表情がわずかにこわばる。
「言いたいことあるなら聞くって、久我さん、いつも言ってくれる。俺も、言いたいことあるなら、聞きたい。でも、言いたくなかったら、言わなくていいと思う。久我さんも、そう言ってくれるから」
言いながら、生意気だ、と自分で思う。灯真に対してこんなこと言うなんて。でも、伝えたかった。見ひらかれた灯真の目が泳ぐ。少しの沈黙のあと、灯真がゆっくりと息を吐いた。
「……あのさあ」
灯真の声はかすれている上に小さくて聞きとりづらかった。黎は耳を澄ませる。
「ほんとうに、今から言うこと、黎はぜんぜん気にしなくてよくて、普通にそのまま、寝てくれていいし、断っていいっていうか、拒否っていいんだけどさあ」
灯真はこちらを見ないまま、ぼそぼそと前置きばかりを続けていた。こんなに回りくどいのは初めてだ。なにを言われるのか予想ができなくて、黎は唾を飲みこむ。灯真はちらりと黎を見たあと、すぐに目を逸らした。
「いや、その……今日、一緒に寝ない?」
一緒に。おそるおそる告げられたその言葉に、ひゅっと息を呑む。黎の脳裏にあの夜がよぎり、体が勝手にあとずさった。
「まあ、嫌だよな。ごめんな、変なこと言って」
灯真の声に、意識が引きもどされる。なにか言いたいのに、頭がうまく働かない。なんで。なんでそんなこと、灯真が言うんだ。黎は間違えたのに。灯真はあの夜、怒っていたのに。あの夜のことは今もきっと、怒っているはずなのに。
「なんで?」
震えた声が口からこぼれる。
「なんで、おれと、ねるの」
黎が訊くと、灯真は気まずそうに目線を落とした。
「いや、そう、そうだよな。なんで……なんでだろうな……」
灯真は歯切れ悪くそう言ったあと、前髪を乱すように頭を掻いた。
「なんか……おまえ、部屋戻るんだって思ったら、その……ちょっと、さみしくなっただけ」
ぽつりとこぼされた言葉を聞いて、黎は静かに瞠目する。灯真はちらりと黎を見たあと、また力ない笑みを浮かべた。
「ごめん。なんでもない。忘れて。普通にいつもどおり、ばらばらで寝よう。ありがとな。おやすみ」
灯真はまくしたてるようにそう言って、頭まで布団をかぶった。黎はしばらく固まっていたが、やがて浅く息を吐く。
さみしかった、と灯真は言った。それも、ちょっと、とつけて。
たぶんきっと、このちょっとは、さっきから言っているのと同じ、ちょっと、だ。ちょっと体調が悪い、ちょっと頭が痛い、の、ちょっと。黎の思っているとおりなら、ちょっと、ではない。灯真は、黎にそんなことを言うくらい、さみしいのかもしれない。
黎は丸くふくらんでいる布団を見ながら、目をしばたたく。それから、あとずさったぶんの距離を詰めるように、ベッドに向かって足を踏みだした。
「……久我さん」
黎が呼ぶと、布団の中で灯真が身じろいだのがわかった。黎は灯真の返事を待たず、話を続ける。
「久我さん、さみしいの?」
言われたことを確かめるように訊く。灯真からの返事はない。
「俺がいたら、さみしくなくなる?」
重ねて訊くと、わずかな間をあけて、灯真がのっそりと布団から顔を出した。
「……どうかな。たぶん」
灯真はあいまいに笑いながらそう言って、うかがうように黎を見てきた。黎は口をつぐんで考えこむ。
自分には看病なんて大それたことはできないし、洗濯をすることもできない。でも、ここにいるだけなら、できる。……できる、けれど。黎は眉を下げ、目線を落とす。
「……俺、ここにいる。ここに座ってる。それでもいい?」
「え、は? どういうこと?」
灯真が目を丸くし、上体を起こす。黎は灯真と目を合わさないようにして、ベッドのそばにしゃがんだ。
「今日、ここで座って寝る」
「……いや、ええ?」
黎の宣言を聞き、灯真が顔をしかめる。
「いや、よくわかんねえ。なんで? 座って寝るなんて、つらいだろ」
灯真に言われ、黎はそろえた足のつまさきをじっと見る。座って寝るのは、少しつらい。やったことがあるからわかる。でも、つらくてもいい。それより、灯真のさみしさをなくしたい。だって、体調が悪いときにひとりでいるさみしさは、黎も、知っている。
「俺がいたら、久我さん、さみしくないんでしょ」
「いや、まあ、それは……」
「でも、布団入ったら、俺、また間違えるかもしれないから……」
黎は灯真を見ないまま、ぼそぼそと言いきった。わずかな沈黙のあと、灯真がそっと息を吐く。
「……黎」
静かな声で呼ばれ、黎はのろのろと灯真を見る。灯真はやんわりと眉を下げて笑んでいた。
「黎、俺に手出すの?」
穏やかに訊かれた途端、黎の喉がひゅっと鳴った。遅れて大きく首を横に振る。
「俺とセックスしようとすんの?」
しない。しない。黎はその問いにも、首を振って否定した。絶対にしない。したくない。そんなことをすれば、もうここにはいられない。もう二度と間違えたくない。それに、黎はあのときも、今も、灯真とそんなことをしたいわけじゃない。黎の勢いがあまりにも強かったからか、灯真がふっと吐息だけで笑う。
「じゃあ俺は、一緒に寝ても、大丈夫だと思うけど」
なんで、そんなこと。黎は眉を寄せて灯真を見る。灯真は息を吐き、また布団に横たわった。
「ごめん。俺が考えなしにお願いしたから、困らせたな。おまえが一緒にいてくれたらって思ったけど、無理強いしたいわけじゃない。おまえが嫌なら、いつもどおり寝よう。そこで座って寝るのも、床で寝るのも、おまえの体がしんどくなるからよくないよ。おまえがそうするくらいなら、いつもどおりで大丈夫。俺のわがままにそこまでしてつきあわせたくない」
灯真はゆっくりとした口調で黎に話す。黎は言われたことを反芻しながら、短く息をもらした。
「……久我さんは、俺が、一緒に寝ても、嫌じゃないの」
「嫌じゃないよ。嫌だったら、自分から言ってないよ」
「一緒に寝ても、大丈夫なの」
「俺はそう思うけど、でも、気遣わなくていいからな」
黎はくちびるを結び、考える。気を遣っているわけではない。ただ、こわいだけ。また間違えてしまうかもしれないのが。間違えたら、今度こそここにいられなくなることが。
あの夜のことは、間違いだったと今も思っている。灯真が求めていないことをした。けれど、ほかにもなにかを間違えたのかは、ちゃんとわかっていない。このままここにいたら、また間違えるかもしれない。間違えたくない。でも、灯真を、さみしい気持ちにもしたくない。
「あー……」
ぐるぐる考えこんでいると、灯真の力ないうなり声が聞こえた。はっと灯真を見ると、灯真は顔が半分隠れるくらいふとんにもぐっていた。前髪の隙間から見えた眉間に、深い皺が刻まれている。
「ごめん、俺、そろそろ寝るから。黎は寝たいところで、寝ていいよ。ああ、でも、そこに座って寝るのは、なしな……」
灯真はかすれた声でそう言って深く息を吐いた。黎はその姿を見ながら、手を握りしめる。
体調が悪い灯真を、長々と話につきあわせてしまった。寝ると言っているのだから、もうこのまま寝かせるべきだ。それはわかっている。けれど、黎はそっと息を吸いこんだ。
「……久我さん」
黎が呼ぶと、灯真が無言のまま目線を黎に向けた。
「俺、一緒に寝てもいい?」
緊張のせいで声がうわずる。それを聞いた灯真がぱちりと瞬きした。それからすぐに目元をゆるませる。
「うん。ありがと。一緒に寝よ。歯磨きして、タブレット持っておいで」
急に出てきたタブレットという言葉に黎は首をひねる。どうして今タブレットの話が出たのだろう。よくわからないまま、いったん寝室を出た。手短に歯磨きを済ませ、収納箱のタブレットを取る。リビングの電気を消してから、あらためて寝室へ入った。ドアをどうするべきか悩んだけれど、灯真はいつも閉めているから、今日も閉めておくことにした。
黎がベッドのそばに寄ると、灯真が横になったまま片腕で布団を持ちあげた。
「おかえり。おいで」
誘ってもらっているのに、黎はすぐには動きだせなかった。灯真がふしぎそうに黎を見る。
「……俺、間違えないかな」
こんなこと灯真に聞いたってしかたないのに、聞かずにはいられなかった。灯真はゆっくりと瞬きしたあと、ふ、と息をもらす。
「どうかな。俺は、おまえじゃないから、わかんない」
灯真の言葉を聞いて、それはそうだ、と黎は思う。灯真は黎ではない。黎が間違えるかどうかは、黎次第だ。間違えたくない。こわい。でも今日は、ここで灯真と、一緒に寝ると決めた。
黎はこくりと唾を飲んでから、灯真の隣の空いたスペースに乗りあげた。ベッドがぎしりと軋む。すぐに眠る気にはなれなくて上体を起こしたまま座ると、灯真が腕を下ろした。それにともなって布団が体にかかる。
「眠くなるまで、起きてていいからな。タブレットで、好きなことしてな」
灯真があくびまじりに言う。そのためのタブレットだったのか。黎は膝の上に置いたタブレットに視線を落とす。
「……ごめんな、わがままいって」
その言葉に、黎のくちびるがほんのわずか尖る。灯真はさっきもこれがわがままだと言っていた。黎にしてみればこんなの、わがままのうちに入らない。それなのに灯真が謝る理由がわからなかった。
黎が考えているあいだに、灯真はもぞもぞと寝る体勢を整えた。あおむけで眠る灯真の眉間には、今もまだ深い皺が刻まれている。なんだかとても険しい寝顔だ。寝室に入ったときに比べれば少し呼吸もおちついたように思うけれど、それでも普段よりは荒く感じる。
今の灯真に対して、なにができるのかはわからない。でも、黎がここにいることで、灯真のさみしさが少しでもやわらいだらいいなと思う。灯真の寝顔を見つめているうちに、黎はふと、撫でたい、と思ってしまった。
これまで飼い主を撫でたことはあるけれど、与えられた役割どおりにふるまっていただけで、自分からしたいと思っていたわけではない。それなのに、灯真には自分からやってみたいと思った。
でも、と黎はくちびるを強く結ぶ。黎から灯真にふれたことはない。あの夜でさえ、布団の上からはふれたものの直接はさわらなかった。さわるのはこわい。また間違えるかもしれないから。間違えたくない。それなのに、撫でたい。撫でてみたい。
悶々と灯真を見つめていたら、ふいに灯真が目をあけた。突然目が合って、心臓がばくんと跳ねる。どうして起きたんだ。もしかして、なにか間違えたんだろうか。息を詰めていると、灯真は眠たげに瞬きをしながらも口元をゆるませた。
「なんで、みてんの」
笑みまじりに訊かれ、黎の喉から変な音が鳴る。なんで。灯真を、撫でたいと思ったから。
「……あ、あの、久我さん」
うわずった声で呼びかけると、灯真が無言のまま瞬きをした。続きをうながされているような気になって、黎は唾を飲む。
「俺、久我さんのこと、撫でたい。撫でたら、久我さん、怒る?」
心臓が口から飛びだしそうだ。それでもなんとか言いきると、灯真がぽかんと目を丸くした。やや遅れて「……え?」と声をもらす。
「え、なに、ええ……? おまえ、俺のこと撫でてえの……?」
戸惑っているのを隠すことなく訊きかえされ、黎はためらいがちにうなずく。灯真はそれを見て、何度も目をしばたたいた。困らせている。黎はそう感じ、くちびるを嚙んだ。黎がこんなことを言いだしたからだ。困らせたかったわけではないのに。
「やっぱり、やめる」
ぽつりと言うと、灯真がはっとした顔になった。「黎」と慌てた様子で呼びかけられる。
「いや、俺、今日風呂入ってねえしさあ、汚ねえし、あんまさわんないほうがいいと思う。つうかそもそも、そんな状態で一緒に寝ようとか言った俺も俺なんだけど」
灯真は黎から目線を外し、うろたえている。それを見て、今度は黎が困惑してしまった。
「……久我さんがお風呂入ってなくても、汚いと思わないし、汚かったら、さわっちゃだめ? さわるのは、間違い?」
首をひねりながら訊くと、灯真が黎を見てぽかんと口をあけた。
「……いや、別に、間違いではねえけど、でも、なんか、……嫌じゃねえの?」
「俺は嫌じゃないけど……久我さんは嫌だった?」
「や……俺も、別に……嫌じゃない、けど……」
灯真は歯切れ悪くそう言って、また黙りこんでしまった。灯真が嫌でないのなら、それでいい話ではないのだろうか。そもそも、どうして黎が嫌がると思ったんだろう。それもわからなかった。さっきの、灯真が着ていた服を汚いと思うかどうかと同じ理屈なんだろうか。
こんなことのせいで、灯真が寝るのを邪魔している。もうこれ以上灯真をつきあわせるわけにはいかない。やっぱりいいともう一度伝えるために口をひらこうとして、それよりも先に「黎」と灯真に呼ばれた。
「……おまえが嫌じゃないなら、撫でても、いいよ。怒んないから」
目を合わせないままぽそぽそと言われ、黎は静かに息を呑む。
「……ほんとうに、いいの?」
確かめるように訊くと、灯真がちらりと黎を見た。すぐにまた目が逸らされる。
「いいよ」
灯真はどこかぶっきらぼうにそう言って、布団に鼻先までもぐりこんだ。ふたたび黎を見て、そのまま目を閉じる。黎は唾を飲みこんでから、慎重に灯真の頭にふれた。灯真の眉がぴくりと動く。しかし灯真は目をあけることも、それ以上の反応をすることもなかった。……じゃあ、ほんとうに、大丈夫なんだろうか。
黎はゆっくりと手を動かし、灯真の頭を撫でてみる。くりかえし、何度も。しばらくそうしていると、灯真が少し深く息を吐いたのがわかった。
「……おやすみ」
ひそめた声で言うと、灯真もふわついた声で「おやすみ……」と返してくれた。それきり寝室が静かになる。
たしかに灯真の髪は、ほんの少しぺったりとしているかもしれない。手に脂がつく感覚がある。だからといって、不快に思うことはなかった。黎はできるかぎりそうっと、灯真の頭を撫でつづける。ちょっと体調が悪くて、ちょっとさみしいらしい灯真を。
黎にとって灯真は、完璧なおとなだった。自分の手をまったく必要としていないおとな。黎が灯真にできることはなにもない。黎がなにかをするよりも前に、灯真が手際よく物事を終わらせるし、黎とは比べ物にならないくらい丁寧ですごい。そういう、完璧なおとなだと思っていた。
けれどもしかしたら、そんなことはないのかもしれない。黎は初めてそう感じていた。灯真も体調を崩すし、さみしくなるらしい。夕飯を食べず、風呂に入らず、歯も磨かずに眠る日もあるらしい。
今まで黎は、ここにいるための対価を渡せるかどうかばかりを考えてきた。なにかしなければならないと、そればかりを。
でも今日初めて、灯真に対してなにかをしたいと思った。床に落ちている服を洗濯かごまで持っていきたくなった。洗濯だってしたかった。それは、できなかったけれど。
黎が隣にいることで、灯真のさみしさが少しでもまぎれるなら、ここにいたい。灯真のことを撫でていたい。灯真がいつも、黎を撫でてくれるように。
しばらく撫でつづけていたら、灯真の寝息が深くなってきたのがわかった。少しは体調がおちついてきたのだろうか。その寝息を聞いているうちに、なんだかこちらまで眠たくなってきた。ふわりとあくびがこぼれる。
結局タブレットは使わなかったなと思いながら、ベッドの棚の空いたスペースに置かせてもらった。万が一にも落としたくない。
黎はそのまま、灯真の隣にそっと体を横たえた。緊張する。でも、座ったまま眠るのはだめだと、灯真が言っていたから。
少し悩んで、灯真のほうを見るように横向きになった。枕はないので、曲げた腕に頭を乗せる。空いた手の行き場に迷い、灯真の服の裾をちょんとつまんだ。起きたら灯真の体調がよくなっていることを祈りながら、黎もそっと目を閉じた。




