4-1
灯真を見ながら、口をひらいては閉じるのを何度かくりかえしたあと、意を決して息を吸いこんだ。
「……久我さん、体調悪いの?」
「んあ?」
シンクの前に立って水を飲んでいた灯真が、気の抜けた声とともに黎を見る。
「ごめん、黎、なんて?」
黎はラグに座っているから、キッチンまで声が届かなかったんだろう。コップを洗って片付けた灯真が、聞きながらこちらへ寄ってくる。灯真の眉はへにゃりと下がっていた。
「久我さん、体調悪いの?」
ソファに腰を下ろした灯真に、あらためて訊く。途端、灯真の目がわずかに見ひらかれた。
「あー、いや、うーん」
灯真が珍しく、濁すようにうなる。それを聞きながら、黎も本を片手にソファへ座った。
読み聞かせと音読のためにここに座るようになってから、もう三ヶ月近くたつ。毎晩のことだからさすがに慣れてきて、前ほどそわそわしなくはなっていた。すぐ隣から、灯真の顔を見ることもできる。灯真は雑にうなじを掻いたあと、こちらを見ないまま口をひらいた。
「……悪い、ってわけじゃないんだけど、予防だよ、予防」
予防。灯真の言葉に、黎はそっとくちびるを結ぶ。
気温がぐんぐん上がり、雨の日も増えて、梅雨になったのが二週間くらい前のこと。それと同じころから、灯真は毎食後になにかを飲むようになっていた。
なにを飲んでいるのか気になって数日前に訊いてみたら、漢方だと教えてもらえた。それだけ言われてもよくわからなかったから検索してみたら、薬だと書いてあった。薬。つまり灯真は、薬を飲まないといけないくらい、どこかが悪いのか。
それからずっと、黎の中で心配の気持ちがふくらみつづけていた。ついに聞いてしまったものの、灯真は予防と言っていた。ということは、病気ではないのだろうか。顔をくもらせていると、灯真がちらりと黎を見た。
「黎はさあ、体だるかったり頭痛かったりしねえ?」
うかがうような口調に、黎は首をひねる。
「しないけど……」
「そっか、ならいいんだ」
黎の返事を聞いて、灯真が目元をかすかにゆるませた。それからため息にも似た小さな息をこぼす。
どうして今、そんなことを訊かれたのかわからない。黎は、と灯真は言っていた。では、灯真は?
「……久我さんは、だるかったり、頭痛かったりするの?」
おそるおそる訊くと、灯真が「あー……」とまた言いよどんだ。
「まあ、ちょっとね」
「かぜ?」
「いや、違う違う。熱とか、そんなんはないよ」
灯真は言いながら、慌てたように顔の前で手を振った。それから黎に笑いかける。
「この時期はいつもだし、慣れてるから大丈夫だよ。うつるようなやつでもないから、気にしないで。ほら、本読もうぜ」
灯真が明るい声で話を切りあげる。もうこれ以上話は続けられないだろう。黎は渋々本をひらいた。息を吸いこみ、今日の部分を読みはじめる。けれどさっきの灯真の話が頭の中でぐるぐる回っていて、練習したはずなのに何度もつっかえてしまった。
玄関の鍵があいた音がして、黎はタブレットから顔を上げた。もう灯真が帰ってくる時間だ。タブレットを収納箱にしまい、廊下のドアに顔を向ける。聞こえてくる物音がなんだかいつもよりせわしない気がして、黎は眉を寄せた。
ドアがひらき、灯真が部屋に入ってくる。「おかえりなさい」と声をかけると、灯真が黎を見た。なぜかへらりと力なく笑いかけられ、黎は思わず瞬く。
「ただいま。黎、悪いけど今日は夕飯これ食べて。レンジであっためるんだよ。使い方わかるよな?」
言いながら、灯真が食卓にレジ袋を置く。黎は状況についていけないまま、勢いに押されてうなずいてしまった。
「風呂も、シャワーで済ませてくんね? ごめんな。洗い物とかあれば、そのまま置いといていいから。寝る前ちゃんと歯磨けよ」
「えっ、なに、久我さん?」
「うん、ごめん。俺、今日は寝る。おやすみ。ごめんな、本も読めなくて」
灯真は矢継ぎ早に言うだけ言って、黎の返事を待たずに寝室へと入ってしまった。なにがなんだかわからなくて、黎はぽかんと寝室のドアを見る。寝室の向こうからはしばらく物音がしていたけれど、それもすぐに聞こえなくなった。しんと静まりかえったリビングに「え」と困惑に染まった声がこぼれる。
……今のは、いったいなんだったんだろう。灯真の様子は明らかにいつもと違っていた。あんな灯真、見たことない。
心臓のあたりがざわめくのを感じながら、黎は言われたとおりにシャワーを浴びるため浴室へと向かった。服を脱ぎ、浴室に入ると、いつもと違って乾いた空気が黎の肌にふれた。黎は息を吐き、シャワーの蛇口をひねる。シャワーだけで済ませるのは、灯真がタブレットを買いに行ってくれて帰りが遅くなったとき以来だ。灯真はいつも湯船を溜めてくれているから。
シャワーすら浴びられない日々があったことを思えば、頭や体を洗えるのはありがたいことだ。かゆみやにおいだってない。けれど、シャワーだとなんだかゆっくりする気にはならなくて、黎は手短に入浴を終えた。
洗面所でドライヤーを使っているあいだも、さっきの灯真の様子が頭から離れない。灯真と体調の話をしたのは、ほんの二日前のことだ。悪いわけじゃないと、慣れているから大丈夫だと言っていた。灯真がそう言うなら、と思い、あれ以上は聞いていなかった。
しかし今朝の灯真は口数が少なく、反応もにぶかったように思う。心配になったけれど、灯真は大丈夫だと力なく笑って、いつもと同じ時間に家を出ていった。……大丈夫では、なかったんだろうか。
黎の吐いたため息が、ドライヤーの音にかき消される。悠長に髪を乾かしている気分ではなかったけれど、髪をきちんと乾かして清潔に保つことは大切だと言われているから、湿りがなくなるまで乾かした。
なんとなく重い足取りでリビングへ戻る。いつもなら灯真の作ってくれる夕飯のにおいで満ちているのに、今日はなんのにおいも、音もしない。ひとりだ。扉一枚隔てた向こう側には灯真がいるし、そもそもここは灯真の家だ。にもかかわらず黎は、どうしようもないほどひとりだと感じてしまった。
黎の喉がひくりと鳴る。うろうろと目を泳がせながら、ダイニングテーブルに置かれたレジ袋を覗いた。コンビニの幕の内弁当と、豚汁がひとつずつに、箸とおしぼり。どう見てもひとりぶんだ。……灯真はなにもいらないのだろうか。もう食べたのだろうか。
黎は寝室に意識を向けつつも、弁当と豚汁を持ってキッチンへ向かった。レンジであたためて食べろと言われたけれど、なんだか、少し億劫だ。
とはいえ灯真が用意してくれたのだからと、黎はそれぞれをあたためてから食卓に戻った。静かな部屋で、黎は弁当の蓋をあける。途端にあたためられた白米と油のにおいが漂った。
割り箸を取り、白米をひとくち食べる。もそもそと咀嚼しながら、静かだ、と思う。前を見ても、当然そこには誰もいない。昼食を食べるときだってひとりなのに、今はなぜか、自分がひとりであることが無性に気になってしまった。




