3-17
これまで夕飯のときは、お互いに黙々と食べることがほとんどだった。けれど灯真が、「今日はどうだった?」と毎晩聞いてくれるようになった。おかげで、その日になにをして、なにをしなかったかをぽつぽつと話せるようになってきた。
灯真はいつも黎の話をにこにこと聞いてくれるし、黎のその日の過ごし方を否定もしない。そうして話すうちに、黎はその日のことを灯真に聞いてほしいと自分から思うようになっていた。
黎は昼間、タブレットとノートを同時にひらくようになっていた。使っても、使わなくても、とりあえずノートはひらいてみる。書かれている字はあいかわらず汚い。けれど灯真に自分の名前を書いたのを見せてから、書くことに対する抵抗感のようなものは薄れつつあった。
とはいえ、恥ずかしいと思う気持ちはまだ残っている。字が汚いことも、漢字が、文章が読めないことも、勉強できないことも。できない自分に直面するたび恥ずかしくなって、もうだめだ、と思ってしまう。
でも、恥ずかしいままなのは、嫌だった。がんばりたいと、がんばると決めた。だから黎はまず、灯真が買ってきてくれたこども向けの字の練習の本から始めてみることにした。
最初に書きこむときは、とても緊張した。ノートよりもずっと。昼間にひとりでやろうと思ったけれど手が震えていて、書く前から汚くなるとわかったから、書けなかった。がんばると決めたのに。ノートのときはがんばれたのに。くじけそうになって、はっと気がついた。ノートのときは、灯真が隣にいてくれた。緊張したけど、書けた。もしかしたら次も、灯真が隣にいてくれたら書けるかもしれない、と。
夕飯のときに灯真にそれを伝えると、灯真は一瞬だけ目を丸くしたものの、「いいよ」と言ってくれた。だから黎は夕飯のあとに、灯真の隣で最初の線をなぞった。緊張することに変わりはないし、線だって震えていた。それでもお手本の文字をなぞって書けた、あ、の字から、黎はしばらく目を離せなかった。
灯真は黎がノートや練習の本を見せても、ほんとうにばかにしない。だから、自分で見て恥ずかしいと思っても、灯真に見せることにはあまり羞恥を感じなくなっていた。その日に進めた練習も、自分から「見て」と言えたし、灯真は目元をゆるませてそれを見てくれた。
少しずつ、少しずつ字の練習の本が埋まっていって、最後の文字を書きこんだのは、買ってもらってから一ヶ月ほどたったころだった。
初めて中身を見たとき、これを汚すのはもったいない、と思った。最後まで書けたからって、黎の字がきれいになったわけではない。お手本をなぞるときはまだましなのに、それを見ながら自分で書くとなると途端に線ががたがたになる。自分の汚い字が、この本にはたっぷりと残されてしまっている。
汚した、とは思う。もうきれいな本ではない。でも、それをもったいないとか、やめておけばよかったと思うことはなかった。黎はその本をぱらぱらと眺めながら、最後までできたという達成感と同時に、終わってしまったという、残念とも違うような、なんとも言えない気持ちを感じた。ただ終わってしまったなあと思っていた。
字の練習の本が終わってからは、漢字ドリルもやっている。一年生向けのドリル。黎も習った漢字のはずだけれど、今あらためて書くとなると、懐かしさよりも新鮮さのほうが強かった。黎でもさすがに読める漢字を、少しずつ、できるだけ丁寧に書く。これだって最初は緊張したけれど、ひとりで使いはじめることができた。
あのころは宿題として、言われたから、やらないと怒られるからやっていたけれど、今はやらなくてもいいはずだ。灯真も黎がドリルをしなかったからって怒らない。なのに黎は、自分からドリルをやっていた。やってもやらなくてもいいドリルを。自分でもふしぎな気分だった。
一年生の漢字ドリルも、最後まで終わらせるのに字の練習の本と同じくらいかかった。それだって、黎の汚い字がどのページにも並んでいる。でもやはり、やめておけばよかったとは思わなかった。自力で漢字ドリルを終わらせたなんて、一年生のときの黎に言っても信じないだろうなと思った。
灯真に最後まで終わったドリルを見せると、灯真は「やったじゃん」と笑いかけてくれた。それから「次、二年生に進む?」とも訊かれた。
黎は迷った。また買ってもらってもいいのだろうかと。もう大丈夫と言ったほうがいいのかもしれない。でも黎は、灯真の言葉にうなずいた。今は二年生のドリルを進めている。きっとこれが終わったら、三年生のドリルをお願いするんだろうな、と思っている。
タブレットに、ノートと文具、字の練習の本と、ドリル。黎の持ち物が増えたのを見て、灯真が収納用の箱をひとつくれた。使ってないけど捨てるほどでもないから、しまってあったらしい。今はそこに黎のものを片付けて、ローテーブルの下に置いている。おとな向けの字の練習の本もそこにある。まだ黎には難しいからきれいなまま片付けられている、おとな向けの本。
一年生のドリルが終わりかけのころ、黎は、映画の説明文をひとつノートに書きうつしてみた。映画のサムネイル自体はたびたび眺めていたけれど、なにかひとつを選べたことはなかった。なにが書いてあるのかわからないタイトルや説明文を見ているだけで、疲れてしまったから。
このままではいつまでたっても選べない。選べなければ、好きなものも見つけられない。選べないのは、読めないからかもしれない。読めない文章は、メモを取っておけば、灯真があとから教えてくれると言っていた。
黎はそう思い、アプリをひらいたときいちばん先頭に出てきた映画のタイトルと説明文を、とりあえずすべてノートに書いてみた。最後まで書いても、どんな内容なのかはわからなかった。
夕飯のとき、灯真にあとでその説明文の内容を教えてほしいと緊張しつつも言ったら、灯真は「わかった」とあっさりうなずいてくれた。
灯真の読んでくれたとおりにふりがなをふり、言葉の意味を文章の下に書いて、灯真の説明も書きのこして、ようやく映画のあらすじがわかった。サムネイルだけではちっとも想像がつかない内容だった。
黎は翌日、その映画をひとりで見てみた。ひとりで映画を見るのは初めてで、始まったときはなんだかふしぎな気分でおちつかなかった。けれど気がつけばひとりなことを忘れてしまうくらい、映画の世界に集中していた。
最後まで見おわったとき、黎はしばらくタブレットを持ったまま放心していた。内容は、わかったような、わからなかったようなだった。でも、ずっと集中していた。それに、ひとりで映画を見られたという達成感もたしかに感じていた。こうやって選べばいいのかもしれない。
黎が映画を見たと話したら、灯真は「いいじゃん」と笑顔を見せてくれた。
「どんな映画だった? 感想教えてほしい」
灯真にそう言われ、黎はたじろいだ。映画の感想なんて、今まで言ったことがなかった。考えながら話していたからたどたどしくて、なにを言っているのか自分でもわからなかったけれど、灯真はにこにことそれを聞いてくれた。ばかにされずほっとしたのと同時に、映画の感想を自分で言葉にできたことに驚いていた。
それから、同じ手順をなぞって映画を見ている。アプリのいちばん先頭の映画をひらき、タイトルと説明文をノートにすべて書きうつす。灯真に教えてもらって、あらすじがわかったら、次の日に映画を見る。あらすじがわかっても、映画の内容自体はわかったりわからなかったりだ。でも、ひとりでも映画を見られるようになったことに、黎はうまく言葉にできない気持ちをいだいていた。
灯真は、黎に映画の感想を聞くようになった。ひとりで見たときも、灯真と一緒に見たときも。ふたりで映画のことを話すと、わからなかったことがわかることもあったし、わからないままなこともあった。黎と灯真で思ったことが違うこともあった。灯真は「感想なんてひとそれぞれ違うもんだろ」と楽しそうにしていたから、そうなんだ、と思っている。
灯真になにか聞かれたときにちゃんと話せるよう、映画を見た感想を書いてみることにした。ページの下のほうにぽつぽつと書かれた感想。それを見ていると、灯真と一緒に見る映画のことも残しておきたくなった。だから今は土曜日の映画も、なにを見るか灯真が選んでくれたあとに同じようにタイトルから書きうつしている。時間がかかって申し訳ないと思うけれど、灯真はのんびり待ってくれていた。
「ぜんぶ書くの大変じゃねえ?」
一度だけ、灯真にそう言われたことがある。灯真の言うとおり、大変かもしれない。できるだけ丁寧に字を書こうとして、時間がかかるから。
でも、映画の感想を書いたあとにそのページを見ると、映画がまるごとそこに残っているような気がして、くちびるが勝手にむずむずするのも確かだった。だから結局、黎はぜんぶ書きうつしている。灯真もそれきりなにも言ってない。
まっさらだった黎のノートは、少しずつ、映画のことで埋まってきている。それを読みかえしていると、なんだか心臓がどきどきするのがふしぎだった。
夕飯のあとはいつも、灯真が本を読み聞かせしてくれた。きりのいいところまで、少しずつ。最後まで読みおわったのは、最近のことだ。映画のように最初から最後まで一気にひとつの物語にふれたわけではない。でも、聞いている最中は映画と同じようにずっと集中していたし、最初のころはおちつかなかった距離の近さも、緊張まではしなくなっていた。
今は、その本を黎が最初から音読している。初日はつっかえながらで、たった一ページ読むのにもずいぶんと時間がかかってしまった。灯真は間違えたところを教えてくれる程度で、黎のへたな音読を黙って聞いてくれていた。
黎は前の日の夜に読んだ部分を、翌日の昼間にひとりで練習してみることにした。灯真の読み聞かせの声を思いだしながら。練習した部分を、また夜に聞いてもらう。つっかえずに読めるようになったら次へ進み、練習して、また聞いてもらう。
灯真に読み聞かせしてもらったときよりもかなり時間がかかっているし、まだほとんど進んでいない。でも灯真が嫌な顔ひとつせず聞いてくれるおかげで、黎も、少しずつ音読ができるようになりつつある。かつてはあんなに苦手だったのに。
最近、ひとりで過ごす昼の時間をあっという間に感じるようになってきた。今までは、灯真が帰ってくるまで長いと思っていたのに。鍵をあける音がして、もう帰ってくる時間なのか、と驚くことも多い。
それを灯真に話したら、灯真は「そっか」としか言わなかったけれど、その表情はとてもゆるんでいた。
自分から喋りかけられることも少しずつ増えてきた。灯真が毎晩「今日どうだった?」と聞いてくれるからかもしれないし、映画の感想を話すようになったからかもしれないし、音読をするようになったからかもしれない。話しかけるときに緊張してしまうことに変わりはないけれど、それも前よりはずいぶんと慣れてきたように思う。なにを話しても、灯真がちゃんと、応えてくれるから。
気づけば買い物のために外に出ると、陽射しの強さを感じる季節になっていた。雨の日もかなり多い。春と夏のあいだにあるこの雨の季節を、梅雨、と言うらしい。灯真に教えてもらった。
「衣替えだよ。あっちいだろ」
そう言って、灯真はゆったりとした半袖のTシャツを黎に貸してくれた。灯真も家では半袖で過ごすようになったし、今まで借りていた灯真のスウェットはもう出てこない。黎が着てきたスウェットは、黎の収納箱の隣に置いてある。
いつまでここにいていいんだろうと思わなくなったわけではない。けれど長々とそう考えることは減り、それよりも、灯真に今日のことを聞いてもらいたいと思うほうが多くなっていた。
初めてのオリジナル小説です。
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