3-16
洗い物をする音を聞きながら、黎はローテーブルに広げたまっさらなノートのページをじっと見つめていた。夕食の後片付けを終えた灯真が、黎の隣に座る。映画を見るときと同じ距離。でも今日は映画を見るわけではない。なんだか少しだけふしぎな気分だった。
「なに書こっか」
軽い調子で訊かれ、黎は眉を寄せた。なにを書けばいいんだろう。書いてみると決めたはいいが、その先が思いうかばない。
「……久我さんなら、なに書く?」
困りはてて訊ねると、灯真は「え、俺?」とどこか気の抜けた声をもらした。
「えー、なんだろうな。俺もそういう、なんでもノートみたいなのは学生んとき以来だからなあ……」
言いながら、灯真が首をひねる。結局ふたりとも答えを出せず、黙りこんでしまった。静かなリビングに、互いの立てるかすかな物音だけが鳴る。
「……レイ、このテキスト見てもいい?」
ふいに話しかけられ、灯真に顔を向ける。灯真はこども向けの練習の本を指さしていた。どうかしたのだろうか。黎がうなずくと、灯真は「ありがと」と言って本を手に取った。灯真が買ってくれたのだから、許可も礼もいらないのに。灯真は本をゆっくりとめくっていた。
「たとえばだよ。たとえば」
灯真は本を見たまま、念入りに前置きをした。
「これ、汚すから使うのやめたみたいなこと言ってたじゃん。この内容を書き写すとかもいいかもしれないね」
黎は灯真から本へ目線を移し、くちびるを結ぶ。灯真が選んでくれた本だ。文句を言うなんてありえない。……でも、やはり、恥ずかしい。黎が黙っていると、灯真がちらりと黎を見た。ふしぎそうに首をかしげる。
「どうかした?」
「……それ」
「うん?」
「こどもの、やつ、でしょ」
黎が言うと、灯真が本へ目を戻した。「まあ、そうだな」と肯定され、耳が熱くなる。
「……こどものやつ、はずかしい。おれ、もう、おとななのに……」
言いながら、目線がどんどん落ちていく。灯真は一拍置いて「なるほど」と小さく呟いた。
「そっちのは?」
灯真がもう一冊の本を指さす。おとな向けのほう。黎が、諦めたほう。黎はくちびるを嚙み、かぶりを振った。
「それ、むずかしい、から」
消え入りそうな声で正直に明かすと、耳だけでなく顔まで熱くなった。
「……そっか」
それだけ言って、灯真が口をつぐむ。黎はどうしようもなくつのる羞恥で体を縮こまらせた。
「うーん、うまく言えないんだけどさ」
灯真がうなりながらも話しはじめる。黎はうつむいたまま、意識だけをそちらへ向けた。
「おまえが今恥ずかしいって思ってることは、ぜんぜん恥ずかしいことじゃないとは思うんだよ。少なくとも、俺はそう思わない。……でも、俺がおまえの立場だったら、俺も恥ずかしくて嫌だなって思うかも」
「久我さんも?」
驚いて口を挟むと、灯真はうなずいて話を続けた。
「なんていうか、そうだな。俺が、自分で自分のこと恥ずかしくて嫌だなとは思うかも。だからって、おまえのこと恥ずかしいと思わないのも、ほんとう。それとこれとは話が別なんじゃないかな、たぶん。わかんないけど」
黎はくちびるをぎゅっと結び、灯真の話について考える。たしかに、灯真がこども向けの勉強をしていたとしても、灯真を恥ずかしいとは思わない。でも、自分では自分のことを恥ずかしいと思ってしまう。灯真も、同じような気持ちなんだろうか。
恥ずかしい。もうおとななのに、こども向けのこともできない自分が恥ずかしい。なにをやっていいかわからないことも、好きなことのひとつも見つけられないことも、なにもかも、恥ずかしい。
でもこれまでは、そんなふうに考える余裕もなかった。なにかの折に文章がまともに読めず字も汚い自分を直視して恥ずかしいと思っても、その気持ちが持続することはなかった。それよりも考えないといけないことはもっとたくさんあったから。灯真と暮らすようになって、初めてこんなことを長々と思いつづけるようになった。それがいいのか悪いのかは、よくわからない。
恥ずかしい。恥ずかしい自分と向きあいたくない。やりたくない。
でも今のままは、嫌だ、と思った。漢字が、文章が読めるようになりたい。ちゃんと読める字を書けるようになりたい。好きなことを、嫌いなことを見つけたい。それを、灯真に、聞いてほしい。
黎は膝を抱える腕に力をこめ、灯真を見た。
「……おれ」
「うん」
「漢字、ぜんぜん読めないし、字、汚い。もうこどもじゃないのに」
黎はそこで一度深呼吸をしてから、あらためて口をひらいた。
「おれ、漢字ドリルも、やだった」
ぽつりとうちあけると、灯真の目が少しだけ丸くなった。灯真の相槌を待たず、黎は続ける。
「漢字だけじゃなくて、勉強、やだった。わかんないし、ちゃんとできなかったら、怒られるから」
なんでできないんだ。ちゃんとやらないとだめだろ。耳の奥で呆れたような嫌な声がまた響く。黎は膝を抱えなおした。
「勉強、できないのも、恥ずかしい。恥ずかしくて、やだ。でも、恥ずかしいままなのも、やだ。漢字読めないままなのも、字汚いままなのも、勉強できないままなのも、やだ」
心臓がばくばくと鳴っていて、胸から飛びだしていきそうだった。灯真はさっきまでと違って相槌を打たない。でも、灯真の目はずっと黎を見ている。聞いてくれているのが、わかる。黎はもう一度息を吸いなおし、灯真とまっすぐ目を合わせた。
「俺、がんばりたい」
そう伝えると、結ばれていた灯真のくちびるにほんの少しだけ隙間がひらいた。
「恥ずかしいままなの、嫌だから、がんばりたい。字の練習もそうだし、漢字ドリル、いらないって言ったけど、漢字できるように、がんばりたい」
「……うん、わかった」
わずかに間を置いて、灯真がゆっくりとうなずいた。穏やかに笑んでいるのを見て、黎はほっと息を吐く。たくさん喋ったからか、てのひらにびっしょりと汗をかいていた。
「じゃあ、明日買ってくる。使っても使わなくてもいいから、やりたくなったらやりな。何年生のやつがいい?」
「……い、いちねん、せい」
「うん、わかった。覚えておく」
黎の返事に、灯真はあっさりとうなずいてくれた。もうおとななのに一年生のドリルからやるなんて、恥ずかしい。けれど灯真は、それを恥ずかしいと笑ったりしなかった。漢字が読めないと言ったときも、音読が、字を書くのが苦手と言ったときも、今も。さっきまで暴れていた心臓が少しずつおちついていくのを感じながら、そっとくちびるの内側を嚙んだ。
タブレットも、字の練習の本も、ノートと文具も買ってもらったのに、さらに漢字ドリルを買ってとねだるなんて。灯真はわかったと言ってくれたけれど、ほんとうにいいのだろうか。与えてもらってばかりで、なにも返せないのに。そんな自分が、がんばりたいなんて思っていいんだろうか。今言ったばかりのことを取りけしたくなるくらいに申し訳なくなって、黎はうなだれる。
けれど昨日謝ったとき、灯真は謝る必要はないと言っていた。謝りたいけど、灯真はそれを求めてない。黎はくちびるをますます嚙みしめ、勝手に言葉が出ていかないようにこらえた。視界の端で、灯真がテーブルに向きなおる。
「で、このノートになに書くかって話なんだよなあ」
そういえばその話をしていたのだった。黎も座りなおし、まっさらなままのノートを見つめる。
「レイ、書きたいこと思いついた?」
灯真に訊かれ、黎は黙ったまま首を横に振った。どうすればいいのか、なにを書けばいいのか、さっぱりわからない。灯真も悩んでいるのか、互いに無言になる。
「……あ」
しばらくしてから、灯真が小さく声をもらした。灯真を見ると、灯真が「あ、いや」と目線を揺らす。どうしたのだろうか。様子をうかがっていると、灯真はどこか気まずそうにうなじをさすった。
「いや……これは、提案ってほどじゃなくて、俺が勝手に、気になるなって思っちゃっただけの話なんだけどさ」
灯真は回りくどく前置きをしてから、ちらりと黎を見た。
「レイってさ、どんな漢字書くのかなあ、って」
そう言って、灯真はやんわりと眉を下げた。黎はぱちぱちと目を瞬かせながら、漢字、と音にせず呟く。漢字。自分の、黎という名前の漢字。言われたことを考えているうちに、眉に力がこもってしまった。
「……俺、自分の漢字、書けない」
「そうなの?」
「むずかしいから、よくわかんない……」
もごもごと言うと、灯真が「そっか」とくちびるに指の背を当てた。少し考えこんでから、「レイ」と呼びかけられる。
「そんなときにさ、タブレット使うと便利だよ」
灯真がタブレットを指さす。どういうことだろう。首をかしげて灯真を見ていると、灯真の口元がほんのりとゆるんだ。
「検索するアプリのこと、覚えてる?」
黎はタブレットに目線を移しながらうなずく。まだ使ったことはないが、灯真に教えてもらったのは覚えている。黎はタブレットを取り、検索アプリをひらいた。初めて見る画面だ。
「これで、調べられるの?」
「そうだよ。ちょっと画面見てもいい?」
灯真に訊かれ、黎はうなずく。灯真にタブレットを差しだしたけれど、灯真は首を横に振っただけで受けとりはしなかった。もう黎のものだからさわらない、と言っていたのを思いだす。ほんとうにさわらないのか。灯真にも見やすいよう、ふたりのあいだでタブレットを支える。
「その検索欄のところに、調べたい漢字の読み方入力すんの。そしたら予測変換で、漢字とかたくさん出てくるのね。その中から、自分の調べたい漢字を選ぶ。やってみる?」
黎はうなずき、指先で画面にふれた。灯真に教わったやり方で、検索欄に、せ、と入力する。芹沢の、せ。
「……せ?」
灯真が小さく呟く。どうしたんだろう。目線を向けると、灯真ははっと息を吐いたあと、かぶりを振った。
「ごめん、なんでもない。続けて」
黎はうなずき、ゆっくりとひらがなを入力する。せ、り、ざ、わ、と続けて入れると、たしかに芹沢の漢字が出てきた。でも、この先どうしたらいいかわからない。灯真を見ると、灯真の視線はタブレットにまっすぐ向いていた。
「……久我さん?」
「ん、あ、ごめん」
黎が声をかけると、灯真がぱっと黎を見た。もう一度タブレットに目線を向けてから口をひらく。
「……レイ、苗字、芹沢っていうの?」
「うん」
「そっか。初めて聞いたなって思っただけ」
灯真に言われ、そういえばそうか、と黎は気がつく。深く考えずに苗字から調べようとしていたけれど、灯真に苗字を伝えたことはなかった。他の飼い主たちに名前を聞かれたときは苗字まで言う必要がなかったから、あのときも同じようにした記憶がある。
検索欄に入力された、芹沢、という字を見つめる。ぼんやりと覚えてはいたけれど、正解をちゃんと見るのは久しぶりだった。まだ学校に通っていたころ。母といたころ。
「どんな漢字か調べるときは、二文字同時に調べるより、一文字ずつ調べたほうがいいかもな」
話しかけられ、黎ははっと意識を戻す。
「そうなの?」
灯真を見ながら首をひねると、灯真は「うん」とうなずいた。
「調べたい字と一緒に、漢字、って入力して検索すると、その字が載ってるサイトが出てくるから。試しに、芹と漢字ってだけ入れて検索してみて」
黎は灯真の言うとおりに入力し、検索ボタンを押す。すると画面に検索結果が表示された。
「その字の書き方とか載ってるサイトひらくと、画面にでっかく漢字が出てくる。そうしたら、見やすいんじゃないかな」
そうなんだ、と思いながらそのとおりにやってみると、画面に大きく芹という漢字が表示された。「すごい」と思わず声がこぼれる。
「読み方がわかれば、その方法でどんな漢字かは調べられるよ。あとはコピペして検索って方法もあるけど、それはまた必要になったら教える」
黎はタブレットから目を離さずに無言でうなずく。すごい。こうやってタブレットを使うのか。初めてちゃんと使えた。くちびるが勝手にむずむず動く。
……これを見ながらなら、黎にも書けるかもしれない。画面を眺めているうちに、そんな気がしてきた。黎は灯真を見て、息を吸いこむ。
「俺、名前書く」
うわずった声で、それでもきっぱりと宣言すると、灯真がわずかに瞠目した。黎は灯真の反応を待たずにシャーペンを手に取る。ノートの横にタブレットを置き、ぎゅっとくちびるを結んだ。
真っ白なノートに、横線が一本書きこまれる。震えてがたがたしている、芹の一画目。書いてしまった。もう戻れない。消しても元のきれいな白にはならない。でも、書きたい。最後まで。
黎はタブレットの画面を見ながらできるだけ丁寧に、芹、という字を書いた。最後の一画を書きおえ、灯真を見る。灯真はやわくほほえみながらうなずいてくれた。それだけで褒められたような気持ちになり、胸の内側がこそばゆくなる。
まっさらだったノートに書かれた、芹、の字。名前を書いたのは何年ぶりだろう。丁寧に書いたつもりだけど、線は震えているし、汚い。恥ずかしい。でも、前に書いたときよりも、その恥ずかしさは弱いような気がした。
黎は一度深呼吸をしてから、沢の字も検索した。ゆっくりと、さっき教わった手順をなぞる。画面に大きく表示された沢の字を見ながら書こうとして、黎の手が止まってしまった。次はどこに書けばいいんだろう。横に並べるのか、それとも縦に並べるのか。学校では、どうしていたっけ。
「……レイ? どうした?」
うかがうように声をかけられ、黎はのろのろと灯真を見る。
「……続き、どこに書いたらいいの?」
黎が訊くと、灯真がぱちりと瞬きをした。
「レイの思うように書いていいと思うけど。レイのノートだし。どこに書くか、迷ってんの?」
「たてか、よこか、わかんない」
「なるほど」
なんだかこんなこともわからないのが情けなくなってきて、黎は肩を落とす。灯真は「そうだなあ」と目線を上のほうに向けて考えてくれていた。
「……これはさあ。俺の思いついた書き方だから、レイはレイの思うようにしたらいいんだけどさあ」
黎はくちびるを結び、灯真の話に耳を傾ける。
「たとえば、横に並べて書いたら、余ったところでレイの苗字と名前、まとめて練習できるかなって思う。で、縦に書いたら、一文字ずつ練習できるかなって」
「芹ばっかり続けて書くの?」
「そうそう」
それを聞いて、黎はあらためてノートを見た。横に書くか、縦に書くか。少し悩んでから、ペンを握りなおした。
「縦に書く」
黎は短く言って、芹の字の下にペン先を当てた。一画ずつ確かめるように沢の字を書いてから、今度は検索欄に、れい、と入力する。変換のところに黎の字を見つけ、さっきまでと同じように検索した。
大きく表示されても難しいことに変わりはなくて、黎は思わず顔をしかめる。芹沢と比べて、字がぎっちりして見えた。
何度もタブレットを確認しながら書いたけれど、黎の字はひどく不恰好になってしまった。それでも縦に並んだ芹沢黎という名前を見て、できた、と息を吐く。間違えずに書けたのは、もしかしたら初めてかもしれない。いつもわからないところはごまかしていたから。黎は灯真に、ノートのページを見せる。
「できた」
黎が言うと、灯真がにっと口角を上げて笑った。えくぼだ、と黎の目がそこに引きよせられる。
「やったな」
その短い言葉を聞いた途端、また黎のくちびるが勝手にむずむずと動いた。くちびるをしっかり閉じてもうまく止められない。灯真は黎のノートを見ながら「そっか」と呟いた。
「黎って、こんな字書くんだなあ。これはたしかに難しいわ」
「久我さんでも、難しい?」
驚きながら訊くと、灯真が照れくさそうにうなじをさすった。
「難しいよ。読めるけど、書いたことはないかも。黎のほうが先に書けたな」
そう言って、灯真がいたずらっぽく笑う。そうなのか、と思いながら、黎はあらためて自分で書いた芹沢黎という名前を見た。汚い字だ。でも、灯真は字のことを笑わなかった。汚いとも言わなかった。ちゃんとどんな漢字なのかわかってくれた。……久我さんの名前は、どんな漢字だったっけ。最初に教えてもらったけれど、頭の中で正解の漢字にできない。正解は、どんなのだろう。調べようとタブレットに手を伸ばしかけ、はっと思いついた。しかしなにも言いだせず、視線をそらす。
「どうした? なんか言いたいことあった?」
ごまかしたつもりだったのに、灯真には気づかれていたらしい。どうしよう。言ったら困らせるだろうか。黎は目を泳がせながらためらったけれど、意を決して口をひらいた。
「ねえ、久我さん」
「ん、なに?」
「久我さんの名前も書いてほしい」
「俺?」
灯真が気の抜けた声を出す。黎はうなずいて、灯真の前にノートとペンを置いた。こんなふうにお願いをしたことがないから、心臓がばくばく鳴っている。迷惑かもしれない。でも、書いてほしい。灯真の名前も、ちゃんと知りたい。タブレットじゃなくて、灯真に、教えてもらいたい。
少しの間をあけて、灯真がこめかみを掻いた。
「黎のノートなのに、俺が書いていいの?」
「うん。書いてほしい。だめ?」
間髪入れずに答えると、灯真がふっとまなじりをゆるませて笑った。
「だめじゃない。黎がいいなら、いいよ」
灯真はそう言ってノートの位置を調整し、シャーペンを持った。ぴんと伸びた背筋に目線が行く。
「俺も縦に書く?」
灯真に訊かれ、黎は黙ってうなずく。
「俺も、字、きれいじゃないんだよな。なんかちょっと恥ずいな、これ」
そう言いながら、灯真は黎の名前の下に一文字ずつ名前を書いてくれた。縦に並んだ、久我灯真という字。線はどれも右肩上がりで、少し角張っていた。これが灯真の書く字なのか、と黎は指先でなぞる。
「これで真っ白なノートじゃなくなったし、次使うとき緊張しないかもな」
灯真が歯を見せるように笑う。黎はノートに書かれたふたりの名前を見ながら、こくんとうなずいた。
初めてのオリジナル小説です。
楽しんでいただけると嬉しいです。
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