3-15
黎はひとりきりの静かなリビングでローテーブルに並んでいるものたちを見つめ、途方に暮れていた。タブレット。字の練習帳。ノートとペン。昨日はタブレットだけでも選べなかったのに、選択肢がさらに増えてしまった。どうしよう、と膝を抱える。
好きなものを見つけて、灯真に聞いてもらえたらな、と思う。でも今のままでは、好きなものを見つけるどころではないとも思っていた。なにを選べばいいのかわからない以前に、そもそもなにが書かれているのかもわからなかったのだから。
じゃあ、まず、説明文やタイトルを読めるようにならなければいけないのだろうか。それもただ読むだけじゃなくて、なにが書いてあるのかを理解できるように。そうしないと、映画も、本も、なにもかも、選ぶところまでたどりつけない。なんだかよくわからないまま眺めて終わる。昨日でそれがよくわかった。
でも今の自分がひとりでぜんぶ勉強するのは、無理だ。できる気がしない。
困ったら聞いていいと灯真は言ってくれた。それを迷惑じゃないと、頼っていいとも。灯真の手をわずらわせたくない気持ちはある。けれどそれだと、いつまでたってもタブレットをちゃんと使えるようにならない。使うと決めたのは自分だ。だったら、がんばらなければ。
わからないことがあれば、メモを取る。それを灯真に見てもらう。そうしたら灯真が教えてくれる。灯真はそう言っていた。だからまずはメモを取らないといけない。メモを取るためには、字を書かなければならない。でも、今の自分の字を……灯真に、できるかぎり見せたくない。
じゃあ、まず、字の練習からするべきなんだろうか。黎はそう考え、字の練習の本を二冊手元に引きよせた。
おとな向けのほうは、最初から最後までぱらぱらとめくるだけめくって、すぐに閉じた。表紙になにが書いてあるのかさえ読めないのだから、中身はもっとわからなかった。今の自分にこれができるとは思えない。
次は、こども向けのほうを手に取ってみた。ひらがなだけじゃなくて、漢字やカタカナも載っているらしい。小学校に行っていたときに見た宿題と似ているかもしれない。……もうおとななのに。こんなこども向けのものからやらないといけないことが、恥ずかしい。
ため息をこぼし、指先で文字をなぞる。昨日灯真に使い方を聞いたとき、ここへ直接書きこんだり、なぞったりしていいと言っていた。でも、ここに? 直接? 黎はページをゆっくりとめくりながら、くちびるの内側を嚙んだ。
こんなにきれいな本なのに、ここに自分が字を書きこんだら汚してしまう。せっかく灯真が買ってくれたのに。大切に使いたいのに。汚したくない。じゃあ、これも、使えない。
黎はふたたびため息をつき、練習帳を閉じる。今度はノートをひらき、シャーペンを握った。
ペンを持つなんて、いったい何年ぶりだろう。このまっさらなノートも、小学生のときに使っていたのとよく似ている。黎は白くひかるノートを見ながら、眉を寄せてしまった。
灯真はこのノートを好きに使っていいと言っていた。黎だけのノート。白くてきれいなノート。ここになにかを書いたら、自分の汚い字で汚してしまう。それは……嫌かもしれない。だってこれも、汚したくない。
結局なにもできないまま、黎はノートを閉じシャーペンを置いた。そのままテーブルに突っ伏す。
こんな調子で、好きなことなんて見つけられるのだろうか。時間がいくらあったところで見つけられない気がする。好きなことを見つけて、灯真に聞いてもらいたいのに。灯真が黎の好きなことを知りたいと言ってくれたのに。こんなにたくさん買ってもらって、なにひとつちゃんと使えないなんて。
……もしもこのまま好きなことを見つけられなかったら、もらったものをちゃんと使えないままだったら、灯真もいつか、黎を捨てるんだろうか。ここにいられなくなるんだろうか。それを考えた途端、ぞわりと肌が粟立ち、思わず身震いしてしまった。
「今日、どうだった? なんかしてたの?」
夕飯を食べながら灯真に訊かれ、黎の手が止まる。あのあとも結局、昨日と同じようにただタブレットを眺めてはまどろむのをくりかえしてしまった。黎は目線を落としたまま口をひらく。
「……なにも」
「そうなん?」
黎の返事を聞いて、灯真がちらりとこちらを見る。
「今日はなんもしなかった日?」
灯真に訊かれ、黎はうなずく。灯真は手を止めることなく、目元をかすかにゆるませた。
「字のテキストも、ひらかなかった?」
「ひらいた、けど……」
「けど?」
「……やめた」
「やめちゃったのか。なんで?」
「……汚すから」
「よごす」
灯真の目がぱちりと丸くなる。その反応の理由がわからず、黎は首をひねった。
「汚す、かあ……」
灯真は目線を外し、黎の言葉を確かめるように呟いた。一拍置いてまた黎を見る。
「ノートはどう? 今日はひらかなかった?」
そう訊かれ、まっさらなノートがまぶたの裏にぱっと浮かぶ。
「それも、ひらいたけど……」
目線を落としながら歯切れ悪く言うと、「けど?」と灯真が続きをうながした。
「……あれも、汚れるから……」
「なるほどねえ」
黎の返事を聞き、灯真が息をもらす。
「でも、まあ、新品のノートとか、ああいうテキスト使いはじめるときって、ちょっと緊張するよな。わかるよ」
「……久我さんも?」
灯真の言葉に、黎はぱちりと目を瞬かせた。灯真が眉を下げて笑う。
「使うのもったいないなって思うことはあるよ。ノートは特に、なにをどうやって書いたらいいんだろうとか考えちゃうし」
昼間の記憶が脳裏をよぎる。白くひかるノート。動かせないペン。汚したくなかった。だって、もったいない。灯真も、同じことを思うのか。
「……なあ、レイ」
うかがうように呼ばれ、黎は首をかしげて応える。
「レイのノートだから、使っても使わなくてもいいんだけどさあ。使いたいけど緊張して使えないってんだったら、あとで一緒になんか書いてみる?」
「一緒に?」
灯真の提案を聞き、黎は思わず声を上げた。灯真が小さくうなずいて続ける。
「俺がなんか書くってわけじゃなくてね? ひとりのときに使いはじめるより、一緒にいるときになんか書いちゃったら、そのあと使うときも気が楽かなって。もちろん、レイが嫌じゃなければ、だけど。どうかな?」
黎はくちびるを結び、考える。灯真と一緒に、なにかを書く。真っ白なノートが、真っ白じゃなくなる。でも、それは……嫌じゃないかも、しれない。
黎がうなずくと、灯真の口元がやわくほころんだ。
「じゃあ、メシ食いおわったらな」
そう言って、灯真が食事を再開する。黎もそれにならい、箸を動かした。黙々と食べすすめているあいだ、なぜか黎の心臓はとくとくといつもよりはやく動いていた。
初めてのオリジナル小説です。
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