3-14
「レイ、ちょっとソファんとこ座ってて」
夕飯の後片付けを終えた灯真が、なぜか寝室に向かいながら黎に声をかけた。どうかしたのだろうか。黎は言われたとおり、ソファのそばのラグ、いつものところに座って灯真を待った。
少しもしないうちに、灯真がレジ袋を持って戻ってきた。灯真はソファに座り、レジ袋からなにか本のようなものを二冊取りだした。
「これ、昨日話してただろ。字の練習するための本」
灯真は言いながら、黎にそれを手渡す。タブレットと同じくらいの大きさの本。ひとつの表紙には漢字が多く、ペン字、と書かれているのだけはわかった。もうひとつは見るからにこども向けで、ひらがなが多い。
「いきなり二冊も買ってきたら、レイ、困るかなとは思ったんだけど……なんか、字の練習の本ってけっこういっぱいあってさ。どういうのがいいか、迷っちゃって」
黎は本をじっと見つめながら、小さくかぶりを振る。
灯真は昨日、字の練習の本を買ってくると言ってくれていた。ほんとうに、買ってきてくれたのか。しかも、いつもほとんど迷っているところを見せない灯真が、迷ってまで選んでくれた。さっき、選ぶのは疲れると言っていたのに。考えているうちに喉の奥がきゅっと苦しくなった気がして、黎は浅く息を吐く。
「使っても、使わなくてもいい。タブレットと一緒だよ。やりたくなったらでいいからな」
「……俺がこれ使ったら、久我さん、嬉しい?」
「いや、俺っていうか、おまえが嬉しいかなって」
「俺?」
予想していなかった返答に驚き、灯真へ顔を向ける。灯真は真剣な顔で言葉を探しているようだった。
「レイっていうか……未来のレイ?」
未来の、という言葉を足された意味がよくわからず、黎の首がかたむく。
「レイ、字書くの苦手って言ってただろ。でも、字の練習するって決めたわけじゃん。気が向いたときにでも練習してたら、そのうち苦手じゃなくなるかもしれないし、そうしたら、ちょっと嬉しくねえ?」
穏やかに話す灯真の言葉を聞きながら、本に目線を落とす。今は、できるだけ字を書きたくない。汚い自分の字を見たくない。また笑われたくない。でも、練習をしていたら、いつか苦手じゃなくなるのだろうか。そうしたら、灯真にメモを見せることもできるだろうか。
今日だけでも、読めない漢字と意味のわからない言葉がたくさんあった。ひとりでは手に負えないくらいに。今までだったらそれでもいいと思っていた。しかしそれだと映画も本もなにもかも、自分では選べないままだ。好きなものを見つけられたらいいと、それを灯真に聞いてほしいと思っているのに。
「俺が喜ぶから、俺のため、みたいな理由でなにかをするかどうか決めてほしくはない。俺は、おまえが嬉しいと思えるなら、それがいちばん嬉しい」
まただ、と黎は思う。好きなものの話をしていたときもそうだった。灯真を喜ばせるためになにかをするのは違うと言う。黎からしてみれば、自分を喜ばせるためになにかをするという発想がないのに。
本を見ながら考えこんでいると、灯真がふっと笑った気配がした。
「まあ、あんまり難しく考えないで、お試しでいいと思うよ。やってみて、違ったらおしまいでも」
「それでいいの?」
灯真がせっかく買ってくれたのに、と目を丸くしてふたたび灯真を見ると、灯真は口元をゆるませてうなずいた。
「いいんだよ。俺が買ってきたから絶対使わないといけない、なんてことはない。なんでもお試し」
いいのか、と黎は驚いたまま本と灯真を何度も見る。灯真はやわく笑って、レジ袋からまたなにかを取りだした。
「あと、これも買ってきた」
灯真が出したのは、ノートとシャーペン、消しゴムに、下敷きだった。かつての記憶が脳裏をよぎり、黎は小さく息を呑む。
「ほら、昨日、メモするためのノートの話もしてただろ。それ使って」
手渡された文具を見て黎は眉を寄せた。たしかに話していたけれど、こうして買ってきてくれたものを見ると申し訳なさがふつふつと沸いてくる。学校で使っていたのと同じような文具。お金がかかると怒っていた、母の声。
「……ごめんなさい」
かすれた謝罪がこぼれおちる。途端、「えっ」と灯真が声を上げた。
「いや、なに、どうした?」
「お金、使わせたから……」
なんでこんなにお金かかるの。母の声が耳から離れない。またお金を使わせてしまった。でも、あれ、灯真はなんて言ってたっけ。
「……レイ」
わずかな沈黙のあとに呼びかけられ、黎の肩がびくりと揺れる。落とした目線を上げられない。
「昨日も言ったけど、お金のことは気にしなくていいよ。俺の意見は変わらない。たとえレイに買ってって頼まれたものでも、買えないと思ったら買わない。今回は俺とおまえで約束して、俺が買いたくて買った。だから、おまえが謝る必要はない」
やわらかな声で言われ、黎はくちびるの内側を嚙む。灯真は気にしなくていいと言っている。でも母は怒っていた。今目の前にいるのは灯真で、母じゃなくて、でも、お金は、かかっていて。
「今日さあ」
ぐちゃぐちゃの頭の中に灯真の声がすっと入りこんでくる。黎ははっと息を呑み、灯真に目を向けた。
「タブレットでいろいろ見てたんだろ。わかんない言葉とか、読めない漢字とかなかった?」
灯真に訊かれ、黎は言葉に詰まる。むしろ、そればかりだった。黎はためらいがちに小さくうなずく。
「昨日も言ったけど、そういうのをメモしといてもいいし、字の練習に使っても、文字だけじゃなくて絵描いてもいいと思うし。それはもうレイのノートだから、レイの好きなように使うといいよ」
「……いいの」
「いいよ。レイの許可なく勝手に覗くとかもしないから。レイだけのノート」
黎は灯真の言葉を頭の中でなぞりながら、手元の文具をじっと見る。自分だけのノート。ほんとうに、いいんだろうか。見つめているうちに、なぜか鼻の奥がつんと痛くなった気がした。大きく息を吸いこみ、灯真に顔を向ける。
「……久我さん、ありがとう」
わずかに震える声で感謝を伝えると、灯真は「いーよ」と歯をのぞかせた。
「んでさあ。買い物してるときに気づいたんだけど、漢字の読み書き勉強したいなら、漢字ドリルもありだなって。どう思う?」
漢字ドリルという言葉に、黎の顔がこわばる。なんでできないんだ。ちゃんとやらないといけないだろ。嫌な声が耳の奥で響いた気がして、黎はてのひらで耳をぬぐった。そのまま首を横に振る。
「そ? んじゃいいか」
せっかく灯真が聞いてくれたのに、またいらないと拒んでしまった。けれど今はその罪悪感よりも、漢字ドリルと向きあわなくていい安堵のほうが強かった。
灯真は深く気にした様子もなく、今度は本を手に取った。
「で、これ。昨日言ってた、俺が好きな本。読み聞かせしようかなって」
言いながら、灯真がそっとはにかむ。黎は息を呑み、灯真の持つ本を見つめた。表紙が色褪せていて、端が少しぼろぼろになっている。灯真が昔から、ずっと好きな本。おとなになっても読む本。今から黎に、読み聞かせしてくれる本。心臓が、とくとくと鳴っている。
「これ、レイにも一緒に文章見てほしいんだよ。昨日のタブレットみたいに。だから、隣同士で並びたいんだけど、どうかな?」
灯真に訊かれ、黎はぱちりと目を瞬かせる。読み聞かせとはどんなものなのか、黎にはよくわからない。灯真がそうしたいというのなら、きっとそれが正解なのだろう。黎がうなずくと、灯真が本を持ったまま軽く首をかしげた。
「俺がラグに降りるか、黎がソファに座るか、どっちがいいかな」
ラグか、ソファか。黎にとってはとても難しい質問に、黎はくちびるを結ぶ。
黎のための読み聞かせなのに、灯真に移動してもらうなんてとんでもないと思う。かといって昨日のようにソファに並んで座るのは、緊張する。昨日はずっとおちつかなかった。
「……このまま、だと、難しい?」
おそるおそる訊ねると、灯真が「どうかな」と目元をゆるませた。
「できないことはないと思うよ。けど、俺が本持って読むから、おまえが見えづらくはなるかもな。試してみる?」
またお試しだ。小さくうなずくと、灯真が「わかった」と座りなおした。膝の上で広げられた本を、横から覗きこむ。たしかに灯真の言うとおり、少し見えづらいかもしれない。しかしそれよりも、灯真がかなり猫背になっていることのほうが気になった。灯真はいつも、背筋を伸ばしているのに。
「……久我さん、それ、背中痛い?」
黎が訊くと、灯真が「あー……」と気まずそうな声をもらした。
「まあ、ちょっとは。でもそんなきつい姿勢じゃないし、大丈夫だよ」
灯真がやんわりと眉を下げる。大丈夫、と言っているけれど、ちょっとは痛いということなら、それは、だめだ。灯真が痛いのは、だめだ。
そうなると、ソファかラグか、選ばないといけない。ラグに移動してもらうのは申し訳ない。ソファに座るのは緊張する。……でも昨日、ソファで並んで、最後までちゃんと話を聞けたから。
黎は息を吸いこみ、灯真をまっすぐに見て口をひらいた。
「俺、ソファ、座ってもいい?」
声をうわずらせながら訊くと、灯真がきょとんと目を丸くした。それからふっと瞳がたわむ。
「もちろん。おいで」
灯真に招かれ、黎はおずおずとソファに座りなおす。灯真がいるのに自らソファに座るのは、たぶん初めてだ。いつも招いてもらっていたから。
「これで見えるかな」
背筋を伸ばした灯真が、ふたりのあいだで本を広げる。本を見るために灯真のほうへ体を寄せないといけなくて、気を抜くと肩がふれてしまいそうだった。それでも、さっきよりはいい。黎はぎこちなくうなずく。
「じゃあ、これで読むか。読み聞かせとかしたことないから、へただったらごめんな」
灯真は小さく咳払いをしたあと、ゆっくりと文章を読みはじめる。黎はこれ以上緊張しないよう、できるだけ灯真の声に意識を向けた。
へただったらごめん、なんて言っていたけれど、灯真の読み聞かせはとても聞きとりやすかった。いつも話すときよりも少しだけ低く、ひそめられた声で、なめらかに文章を読みあげていく。その声を聞いていると、なぜかわからないけれど少しだけ泣きそうな気持ちになった。
初めてのオリジナル小説です。
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