3-13
かちゃんと音がして、玄関ドアが閉まる。仕事へ行く灯真の見送りを終え、静かなリビングへ戻った。
黎はタブレットを手に取り、ソファの座面にもたれかかりながらラグに座った。タブレットの画面を眺め、ひとつ息を吐く。
ひとまず、いちばん左にある映画のアプリをひらいてみる。サムネイルがびっしりと並んでいる画面をしばらくスクロールしてから、黎は小さく息を吐いた。
決められない。なにが見たいのかよくわからない。サムネイルだけじゃ内容もわからないし、かといってそれをタップしたところで説明が読めないから、なんの意味もなかった。
ランキングの上から順に選んでみるのもいい、と灯真は言っていた。その言葉どおり、ランキング一位の映画をひらいてみる。これを見てみればいいのだろうか。悩んだけれど、再生しないままやめた。そもそも、自分が今映画を見たいのかさえもよくわからなかった。
黎は眉を寄せながら、今度は本が読めるアプリをひらいてみる。けれどそれも同じだった。絵本や児童書の探し方は教わったが、どれが読みたいのかよくわからない。どれなら今の黎にも読めるのかすらわからない。
しばらくうろうろとスクロールしたり本の表紙をタップしてみたりしたけれど、どれだけたってもなにかひとつには決められなかった。黎の鼻から息がもれる。
灯真が入れてくれた動画や音楽のアプリも試してみたけれど、どれも結果は同じだった。決められない。よくわからない。アプリをひらいて、スクロールして、スクロールして、なにも選ばないまま閉じて、次のアプリをひらく。でも結局どのアプリをひらいても、同じことのくりかえしだった。
ただ画面を見ているだけなのに、黎はなんだか疲れてきてしまい、ずるずると姿勢を崩す。
映画、本、動画、音楽。映画、本、動画、音楽。いくつも並んだサムネイルや表紙を眺めては、なにも決められず次へ。
気づけば黎は、タブレットを持ったままぐったりとラグに横たわっていた。もうだめだ。大きく息を吐き、タブレットをラグに置く。
選べない。決められない。これでは、好きなことがなにかもわからないままだ。せっかくのタブレットを、ちゃんと使えていない。
黎はじわじわとふくらんでいく焦燥感から目を逸らすようにまぶたを伏せる。なにをしてもいいし、しなくてもいい、と言う灯真の声をふと思いだした。なにもできずにただ眺めただけでも、間違いではないんだろうか。
考えているうちにどろりと押しよせてきた眠気に抗えなくなり、黎はソファの上に置いてあった毛布を引きずりおろす。眠ってばかりいたらだめだとわかっているのに、まぶたを持ちあげられるほどの気力はなかった。
「レイ、今日なにしてたの?」
夕食の最中ふいに訊かれ、黎の手が止まる。
「……なにもしてない」
「そうなん?」
おそるおそる答えた黎に対し、灯真の返事はあっけらかんとしたものだった。
朝からタブレットをさわってはいた。けれど、なにひとつ選べないままとろとろとまどろみ、起きてタブレットをさわってはまどろんで、昼食を食べたあとにもタブレットをさわりながらまたまどろみ、結局なにもしないままいつのまにか灯真の帰宅時間になっていた。黎はばつが悪く、目線を落とす。
「タブレットは? なんかさわってみた?」
黎はテーブルを見つめたまま、そろりと顎を引いた。
「さわった、けど……なにも選べなかった」
「まあ、最初はそんなもんじゃない?」
黎の返事を聞き、灯真がこともなげに言う。そんなものなんだろうか。返事をできないまま手元を見ていたら、灯真がふっと笑ったような音が聞こえた。
「つうか、タブレットさわってんだから、なんもしてないことはないじゃん」
やわい笑みまじりに言われ、黎は瞬きをする。どういうことだろう。のろのろと灯真を見ると、灯真も手を止めることなくちらりと黎を見た。
「今日はタブレットさわってみようと思った、それだけでもじゅうぶんだろ」
「なにもしてないのに?」
「でも、タブレットさわったんだろ? タブレットでなんしてたの?」
灯真に訊かれ、知らず知らずのうちにくちびるが尖る。
「映画とか、本とか、動画とか、アプリいろいろひらいたけど、なににすればいいかわかんないし、選べなくて、寝ちゃって……だから、なにもしてない」
「えー、してるじゃん。いろいろひらいてみたんだろ?」
黎の話を聞き、灯真がふはりと苦笑する。灯真の言っている意味がいまいちわからなくて、黎はわずかに首をかしげた。
「選ぶってさあ、けっこう大変なんだよ」
「そうなの?」
「大変だよ。いっぱいある選択肢の中から、どれが今の自分の気分に合うのか選ぶって、けっこう疲れる。俺だってそうだし」
「久我さんも?」
灯真の話に、思わず声を上げる。灯真は平然とした様子で「そうだよ」と答えた。そうなのか、と黎はくちびるを結ぶ。灯真の言うとおり、今日はとても疲れた。なにもしていないはずなのに、朝からずっとぐったりしていたように思う。
「今の自分がどんな気分か自分でわかってて、それと合うものがぱっと見つかれば簡単だよ。けど、なにがいいかわかんないと、まず悩むだろ。悩むって疲れるし、そっからなんか決めるのも疲れる。そんだけがんばって決めたのに、思ってたのと違ったってなったら、もうすっげえ疲れる。だから俺、朝メシは悩まないようにいつも同じにしてるんだよね。朝から疲れんの嫌じゃん。おまえも道連れにしてて申し訳ないとは思うけど、これからもつきあってもらう」
灯真はそう言って、眉を下げながらうなじをさすった。たしかに灯真に拾われてから、朝食は毎日同じメニューだ。先週、黎のトーストが半分だったことはあるけれど、それでも内容は同じだった。そういう理由があったのか、と黎は納得する。それと同時に、灯真が申し訳なさを感じる必要なんてどこにもないのに、とも思った。
「さっき寝ちゃったって言ってたけど、それでいいと思うよ。最初は疲れるだろうから、休みながら、いろんなもの眺めてみたらいい」
寝てもいいのか、と黎は話を聞きながらわずかに目を瞠る。灯真は黎を見て、やわらかな笑みを浮かべた。
「今日だって、自分でタブレットさわるって選んでるじゃん。俺は別に、今日はタブレットでなんかしてなってレイに言った覚えないよ。でも、おまえが自分でさわってみるって選んだ。しかも、アプリいろいろひらいて、どうするか悩んだんだろ? それを、なんもしてないってなかったことにするのはもったいないよ」
灯真の言葉に、黎は目を瞠ったままそっと息を呑んでしまった。心臓がとくとくと脈打っているのが自分でわかる。
「明日からも、タブレット使いたかったら使えばいいし、気が乗らなければいちにち寝てたっていいんだよ。寝るってのもおまえの選んだ過ごし方」
「……間違いじゃないの」
「なにが?」
「寝てばっかりなの」
「なんも間違いじゃないだろ。おまえの頭と体が寝たいって、休みたいって思ってたってことじゃない?」
「そんな……それで、いいの」
黎は灯真の言葉をうまく理解することができなかった。それでいいのだろうか。かつて他のひとたちのところで過ごしていたときは、家で寝てばかりいたらだめだと言われた。たとえやることがなくても、眠くても、じっと起きて過ごした。わたしが働いてるのに寝るな。そう言ったのは、どの飼い主だっけ。
でも、灯真はそれを間違いじゃないと言う。灯真は黎が眠っていても怒ったことはない。先週なんて、昼寝はしたのかと聞かれたことすらあった。黎が戸惑っていると、灯真が困ったように笑った。
「いいんだよ、それでいい。眠くなれば寝たらいいし、やりたいことがあればやったらいい。おまえの思うように、うちでのびのび元気に過ごしてな」
かつての飼い主の声をかき消すように、灯真の声がやわらかく耳に残る。黎はむずりと動きそうになったくちびるを固く結び、目線を落とした。目線の先には、灯真が用意してくれた夕飯がまだ残っている。黎は震える肺をなだめるためにひとつ深呼吸をしてから、飯碗を手に取った。
初めてのオリジナル小説です。
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