3-11
あの夜にふれたら終わると思っていたのに、黎の生活はなにも終わらなかった。
話をしたあとはそれぞれ寝室とソファで眠ったし、灯真は朝起きてからいつものように黎の頭を撫で、毛布を直していた。朝食もいつもどおり用意してもらえたし、トーストの量も元に戻っていた。
朝食を終えたら一緒に買い物にも行ったけれど、灯真は来週も黎がいることを前提にしているとしか思えないくらいたくさんのものを買っていた。牛乳だって大きなパックだった。
なにも終わらなかった。あんな話をしたのに。灯真は怒っていると言っていたのに。
でも、なにも変わっていないわけではないのは、わかる。灯真は変わらず笑いかけてくれるけれど、ときどき気まずそうに目を泳がせている。それでも今までどおりでいようとしてくれているのは、黎にも伝わった。
黎は、どうふるまえばいいのかまだわからずにいる。あの夜をゆるされたわけでもないのに、前と同じでいていいのか。そんなことあっていいはずがない。でも灯真が今までどおりを続けたいのなら、そうするのがいいのだろうか。わからない。もうこれ以上灯真に嫌な思いをさせたくない。もう間違えたくない。次に間違えたら、今度こそ終わる。
そんなことを考えながらも、黎は灯真の足元で膝を抱えて座っていた。買い物から帰ってきたら、昼食の時間になるまで灯真はソファで本を読む。その足元に座るのが、いつもの流れだったから。
黎は灯真を振りかえる。灯真の視線は本に注がれていた。灯真は、本も好きなんだろうか。聞いてみたくなったけれど、邪魔してはいけない。前に向きなおろうとしたところで、それよりもはやく灯真がちらりと黎を見た。予期せず目が合って、黎の肩が揺れる。
「ふ。なに見てんの」
「あ……」
目が合うだけにとどまらず話しかけられ、黎はうろたえる。灯真は黎を見たまま小首をかしげた。
「なんか用事あった?」
黎はこくりと唾を飲む。邪魔してしまった申し訳なさはまだあるが、今聞かなければもう聞けないような気がした。静かに息を吸ってから口をひらく。
「久我さん、本も好きなのかなって」
「ん? うん、好きだねえ」
灯真は答えながら、本のページに指を挟んで軽く閉じた。視線はこちらに向いたままだ。まだ話していてもいいのだろうか。黎は様子をうかがいながらもさらに質問を続ける。
「それは、映画とか、ゲームと同じ好き?」
「そうそう。好きなことはなんですか? って聞かれたら選択肢に上がるくらいの好き」
「……それも、物語だから?」
「お、そうだよ」
黎が言うと、灯真がきゅっと瞳を細めた。なるほど、と黎は思う。灯真は、知らない世界に連れていってくれる物語が好き。映画も、ゲームも、本も、同じ理由で好き。灯真は、自分が好きなものをきっとよくわかっている。
「……いつから?」
「んあ? なにが?」
「久我さんは、いつから、物語が好きなの?」
「いつから……はっきり覚えてねえけど、こどものころからだなあ」
灯真は言いながら、どこか遠くを見て懐かしそうな表情になった。
「こどものころさあ、家にいたくなかったんだよね」
穏やかな声音で告げられた言葉を聞き、黎ははっと息を呑む。
「遅くまでともだちと遊んだりしてたんだけどさ、誰とも約束できなかったり、ともだちと遊ぶ気分じゃないときは、学校の図書室で下校時間ぎりぎりまで本読んでた。家にいるあいだは図書室で借りた本を読んだり」
灯真は声色を変えずに淡々と続ける。
「本読んでるときは、家にいても本の中の世界に連れてってもらってるみたいでさ。まあ、一種の現実逃避なんだけど、当時はそれが楽しかった。だから今でもずっと、物語が好きなんだと思う。あ、今は別に、家にいるのが嫌とかそんなこと思ってねえよ。でもそれはそれとして映画もゲームも本もぜんぶ好き。おもしろい」
そう言って、灯真はうなじを掻きながらはにかんだ。黎は心臓がとことこと鳴っているのを自覚しながら、目線をゆるく落とす。
灯真がこどものころのことをこんなふうに話してくれたのは初めてだ。家にいたくなかった、ということをあっさり明かされ、なんだかふしぎな気分だった。黎はずっと家にいたかったから、反対だ。
「つっても、こどものころは物語が好きなんだって明確に言語化できてたわけじゃないんだけどな」
ふたたび灯真が話しはじめ、黎はひとつ瞬きをしてから灯真へ目線を戻す。
「こどものころから本読むのは好きだったけど、なんで好きとかは別に考えたことなくてさ。読んでるとおもしろいしわくわくするし、ときどきこわかったり悲しかったりもするけど、ぜんぶひっくるめて楽しい。だから好き、みたいな」
そこで灯真が息を継ぎ、ふっと目元をゆるませた。
「でも斎にさ、なんでそんなに本好きなのって聞かれたことあったんだよ。あいつ、ほとんど本読まねえから。で、そんときになんでなんだろうって初めて考えたんだよな。それがたしか、高校のころだったと思う。本読むようになってからかなりたってたけど自分でも理由はわかってないまま、そんでも好きだったんだ」
話しながら、灯真の目線が手元の本へ落ちる。
「この本も、途中まで読んでおもしろいなって思ってる。けど、どこらへんがおもしろい? って聞かれたら、すぐに答えるの難しい。ちょっと時間かかる。でもおもしろいし、好き。好きとか嫌いって、そんな感じで、なにもかもにはっきりした理由があるわけでもないんじゃないかなって」
そうなのか、と黎は考える。今の黎には好きも嫌いもわからない。だから理由が欲しい。理由が知りたい。理由がないと、わからない。違うんじゃないかと思ってしまう。好きって、嫌いって、なんだろう。ローテーブルの上に置かれたままのタブレットを横目で見て、すぐに視線を灯真に戻す。
「……好きって、どうやったらわかるの」
「えー、難しいこと訊くね」
灯真が黎を見て、ゆるく眉を下げた。
「なんだろうな……それをやってて、楽しいとか、わくわくするとか思ったり、またやりたい、もっと欲しいって思ったら、好き、とか? わかんねえけど」
「楽しいって、どうやったらわかるの」
「おわ、もっと難しい質問だなそれ」
重ねて訊くと、灯真がやわらかく笑った。困っているようなのに楽しそうにも見えるその表情に、黎は瞳を瞬かせる。
「楽しいねえ……わくわくするとか、心が躍るとか、夢中になるとか、ずっとやってたいとか? さっきとかぶってるけど、そういうのを楽しいって言うんかなって思う、かな? でも、正しい定義とかわかんねえなあ」
わくわくする。心が躍る。夢中になる。ずっとやっていたい。頭の中で、灯真の言葉を反芻する。なにかに対してそんなふうに思ったことがあるのか、自分でもわからないし、思いだせない。……でも、灯真と話すのは、ずっとやっていたいと思うことはあるかもしれない。映画は、見ているあいだ他のことが意識から外れるくらい集中している。あれが夢中になるということなんだろうか。
「久我さんは、どうやって好きなもの見つけたの」
「えー、見つけようと思って探したわけじゃないからわかんねえ」
灯真の答えを聞いて、黎はわずかに肩を落とす。見つけようとしなくても、灯真は好きなものを見つけられる。きっとそれは、選ぶのもじょうずだからだ。黎にはあまりにも難しいことのように思える。
途方に暮れていると、灯真がやんわりと瞳を細めた。
「好きなものを見つけようと思ってあれこれするのは、ちょっとしんどいかもしれないね。なにをするにしても、それが好きになれない可能性もあるし。でも、やってみないと好きかどうかもわかんないままなんじゃないかなって俺は思うよ」
灯真は目線を上に向けて少し考えこんだあと、ゆったりとした口調で話を続ける。
「うーん、そうだなあ。食わず嫌いって言葉があるんだけどさ。食べたことないのにその食べ物が嫌いだと思ってるって言葉。でも、食わず好きって言葉は、たぶんないんだよね。いや、俺も言葉について詳しいわけじゃないからもしかしたらあるかもしれんけど、少なくとも生きてきて一回も聞いたことない」
食わず嫌いと、食わず好き。黎は灯真を見ながら、話にじっと耳を傾ける。
「なんも知らないまま嫌うことはできる。なんか嫌だ、なんとなく無理、みたいな。でも、なにかが好きかもって気づくには、まずそれをやってみないとなんだと思う。俺も、やったことない、よく知らないものごとは好きとか言えねえし」
灯真はそこで言葉を区切り、さっきまでよりも真面目な顔つきで黎を見た。
「もちろん、好きだからってなにやってもいいわけじゃないよ。やったらだめなことは世の中にたくさんある。そこに変わりはない」
昨晩の話が頭をよぎり、黎は静かに唾を飲む。灯真はひとつ瞬きをして、表情をやわらげた。
「でもそうじゃないなら、まずはなんでもやってみたらいいんじゃねえかな。好きなもの見つけようとか、目標立てなくていいと思うし。やったからには好きにならなきゃ、なんて思う必要もないと思う。なんでもお試しだよ。合わなければやめていい」
お試し、という言葉を音にせず呟く。それと同時に、これからなんでも挑戦できる、と話してくれたチバのことを思いだした。
好きになれるかわからなくてもやってみていい。合わなければやめてもいい。そんなことが、ゆるされていいのだろうか。心臓がどきどきと脈打っている。こわいわけでも、緊張しているわけでもないのにそうなっているのが、ふしぎだった。
「……好きなものがあるのは、いいことなの」
黎が訊くと、灯真が悩ましそうにうなりながら首をひねった。
「それは、ちょっと難しい質問だな。そうだよって言ったら、じゃあ好きなものがないのは悪いことなのかって話になっちゃうじゃん。だから、単純にいい悪いの話ではないと思うよ」
灯真の話を聞き、今度は黎が首をかしげた。
「じゃあ、なんで好きなもの探すの? 好きなものがあるのはいいことだからじゃないの?」
「うーん……」
灯真はしばらく考えこんだあと、「そうだなあ」と口をひらいた。
「好きなものがあるのがいいことっていうか、好きなものによっていいことがあるかもしれないんじゃないかなって俺は思うっていうか」
それは、つまりどういうことだろう。いまいちわからないまま灯真を見る。
「なんていうのかな……好きなものがなくても生きていけるのは、それはそうだけど、好きなものがあることによって、人生が今よりちょっと楽しくなるんじゃないかって、俺は思う」
今度はまた、楽しい、だ。今の黎にはわからないけれど、灯真はよく知っているもの。灯真の話に耳を傾けながらも、頭の隅で楽しいについて考えてしまう。
「本も映画もゲームも、なくても生きていける。でも、俺はそういうのを通して好きな物語にふれたことで、楽しいと思ったことが何度もあるし、支えられたっていうか、救われたときもあったし。物語を好きだからそれがいいことってわけじゃなくて、物語っていう好きなものがあったから、いいことがあったっていうか……うまく言えねえんだけど」
好きなものがあるのがいいこととは言いきれない。でも、好きなものがあるといいことがあるから、好きなものを探す。じゃあ、いいことってどんなことなんだろう。考えているうちに頭がこんがらがってきてしまい、黎は鼻から息をもらした。難しい。わからない。でも、わかりたい。
灯真は一呼吸置いたあと、「俺はさあ」と話を続けた。
「おまえが、好きなもの見つけられたらいいなって思う。し、それを教えてもらえたら嬉しいなって思う。なんていうか、それも俺の勝手な望みなんだけどさ」
その話を聞き、黎はぱちりと目を丸くしてしまった。そういえば、タブレットを買ってきた夜にも同じようなことを言っていたと思いだす。
「なんで久我さんが嬉しいの?」
「えー、だって俺、おまえが好きなもの知りてえもん」
どこか照れくさそうに灯真が笑う。無言のままその表情を見つめたあとで、黎ははっと我に返った。くちびるを結び、言われたことについて考える。
灯真は黎が好きなものを見つけられたら嬉しいと言っていた。今も、先日も。でも前にそれを聞いたときは、嬉しいからってむりやり探してほしいわけじゃないとも言っていた。灯真が喜ぶことをするべきだ。灯真を喜ばせられたら、対価になる。でもきっとそんな理由では、灯真は喜んでくれない。
灯真は、黎がなにを好きか知りたいらしい。黎も同じように、知りたい。灯真のことを。なにが好きで、なにが嫌いなのかを。灯真に拾われて三ヶ月たつのに、灯真について知っていることはほんのわずかだ。知りたい。もっと、たくさん。
灯真も同じ気持ちなんだろうか。でも、今の黎にはなにもない。好きなことも、嫌いなことも、なにも。これでは教えるどころではない。けれど……知ってほしい。黎のことを。灯真のことを知りたいのと同じくらい、自分のことを、知ってほしい。そのためには、好きなことを見つけなければいけない。
「……見つけられるのかな」
考えているうちに口からぽろりと言葉がこぼれてしまい、黎は自分で驚く。それが聞こえたのか、灯真は「さあ、どうかな」と目元をゆるませた。
「時間かかるかもしれないし、案外すぐ見つかるかも。でも、いつかはきっと、なんかが見つかると思うよ。俺はそう思う」
確信めいた言い方をされ、黎は瞬きをする。どうしてそう思うんだろう。わからない。自分ですら見つかると思っていないのに。心臓がまたどきどきしている。おかしくなってしまったのかもしれない。軽く胸元をさすってから、ちらりとタブレットを見た。
「あれがあると、見つかるの」
「あれ?」
「タブレット……」
「ああ」
ふっと目を細めた灯真が、黎の視線をたどるようにタブレットを見る。
「タブレットも万能ではないからな。できることはたくさんあるけど、あれじゃできないこともある。でも、興味を持つとっかかりにはなると思うし、タブレットで見つかんなくても、また別の方法でのんびり見つけられたらいいんじゃね」
そうなのか、と結んだくちびるに力をこめる。見つかるかもしれないけれど、見つからないかもしれない。だめかもしれない。けれど灯真の、なんでもお試しだよ、という言葉が耳にくっきりと残っていた。
黎はそっと息を吸いこみ、「久我さん」と呼びかけた。灯真がわずかに首をかしげる。
「あれ、俺が使ってもいいの」
「もちろん」
「俺はそのかわり、なにしたらいいの?」
「……それは、タブレットのお礼みたいな話?」
黎がためらうことなくうなずくと、灯真が吐息だけでやわく笑った。
「なんもしなくていいよ。おまえがタブレット使ってくれればそれでいい。そんで、好きなことまでいかなくても、なんか興味のあること見つかったら教えてよ」
灯真の返事を聞き、黎は少しだけ眉を寄せる。それはあまりにも、黎に都合がよすぎないだろうか。
「……それ、久我さんにいいことあるの」
「あるだろ。俺はおまえの好きなこと教えてもらいてえんだって。どんなものに惹かれるのか、興味持つのか、おまえから教えてもらえたら嬉しい」
そう言って灯真がはにかむ。さっきと同じだ。黎の好きなものについて知りたいと言う。それを知れたら嬉しいと言う。……でもどうして、嬉しくなるんだろう。
「なんで?」
「なんでって、なにが?」
「なんで嬉しくなるの?」
灯真をまっすぐに見つめながら訊くと、灯真がぱちりと目を丸くした。それから眉を下げ、どこか困っているような、照れているような、なんともいえない表情になる。
「なんでだろうね。わかんねえけど、そう思ったんだよ。教えてもらえたら嬉しいだろうなって。ちゃんとした理由見つけるのは時間かかるわ」
なんとなくはぐらかされたような気持ちにはなったが、黎は浅くうなずいた。一度深呼吸をしてから、あらためて灯真を見る。
「久我さん」
「なあに」
「タブレット、使い方、教えて」
緊張しながらも言いきると、灯真が歯をのぞかせて笑った。えくぼが見えて、あ、と思う。
「いいよ。充電しないとだから、メシ食ったあとな」
灯真は立ちあがりながら黎の頭をぽんと撫でた。そのままタブレットを持ち、なにか準備を始める。黎は少しだけ乱れた前髪を指先で払い、くちびるを結んだ。
時間がかかっても、好きなものが見つかるまでここにいていいの。
喉までせりあがっていた問いは、最後まで言葉にできないままごくんと飲みこんだ。
初めてのオリジナル小説です。
楽しんでいただけると嬉しいです。
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