3-9
「あー、疲れた」
家中の掃除を終えた灯真がどかりとソファに座る。黎はまださっきの話を消化しきれないまま灯真の足元に座った。そのあとで、ほんとうにここに座ってよかったんだろうかと目が泳ぐ。いつも掃除が終わったらここに座るから、同じようにしてしまった。でも自分はまだ、間違えたままだ。
顔をこわばらせ、背後の灯真を見る。しかし灯真はなにも言わずスマホをさわっていた。いつもどおりだ。なら、ここでいいんだろうか。
黎はゆるゆると息を吐き、顔を前に戻す。するとローテーブルの隅に置かれたタブレットが目に入った。昨日から箱に入ったまま置かれているそれを視界に入れないよう、ぱっと目を逸らす。
「今日さあ、ピザにしねえ?」
後ろから声をかけられ、黎はあまり考えることなくうなずいた。声がはずんでいたな、と思いあらためて灯真を見ると、灯真は口元にゆるい笑みを浮かべながらスマホを操作していた。
「……久我さんは、ピザ好きなの?」
「んあ? んー……」
黎が訊くと、灯真がわずかに首をひねった。考えているのか、目線が斜め上のほうを向いている。
「好きだけど、好きな食べ物はなんですかって聞かれたときに選択肢に入れないくらいの好きかなあ」
灯真の答えがいまいちぴんとこなくて、今度は黎が首をかしげた。黎の視線に気づいたのか、灯真が瞳をやわく細める。
「好きと嫌いのあいだには、いろんなどっちでもないがあるって言っただろ。好きの中にもいろいろあるんだよ。もちろん、嫌いの中にも」
そう言って、灯真が言葉を探すように口元に指の背を当てた。真剣な顔つきで考えこんでいる灯真を見つめる。
「そうだなあ……ピザはたしかに好きだよ。でも好きだからって毎日食べたいとは思わない。一回食べたらしばらく満足する。前食べたのも、おまえが来てすぐのときだっただろ。それくらいの、たまにの贅沢とか、ごほうびみたいな感じ。毎日食べたくなるほどの好きではない。でも食うとテンション上がるくらいには好き」
ときほぐすような灯真の話を聞きながら、黎の眉間にはだんだんと皺が寄っていく。むずかしい。好きなら好きではないのか。今の黎にはよくわからなかった。灯真が黎を見てふっと眉を下げる。けれどなにも言わず、またスマホの画面を操作しはじめた。
「レイ、どんなの食べたい?」
「……わかんない」
なにげない声音で訊かれ、黎は抱えた膝のあいだに頭を隠すようにうなだれる。少しの沈黙のあと、灯真が動いた気配がした。かと思えば黎の隣に座られ、距離の近さにぎょっとする。けれど映画を見るときはいつも隣に並んでいるじゃないかと思いなおした。
「レイも一緒に選ぼうよ」
灯真は黎の前にスマホの画面を見せてきた。そういえば初めて一緒にピザを選んだときも、同じように画面を見せられたことを思いだす。あのときも、灯真との距離が近くてずっと緊張していた。
「なににしよっかなあ」
灯真がゆっくりと画面をスクロールする。あのときと同じ、たくさんのピザの写真。まだ三ヶ月ほどしかたっていないけれど、ずいぶんと前のことのような気分になった。
黎は画面というより灯真の指を目で追いながら、どうして灯真はこんなにたくさんの中から選べるんだろう、と考える。思いかえしてみればいつもそうだ。毎週の買い物もほとんど迷わない。どうしてなんだろう。考えているうちに、いつのまにか目線がスマホから灯真の横顔へ移っていた。
「なに見てんの」
それに気づいた灯真が黎を横目で見て笑う。黎は指摘された気まずさから慌てて目を逸らした。今度はどこを見ればいいのかわからなくなってしまい、うろうろと視線をさまよわせる。視界の端で画面をなぞる灯真の指先に意識を向けつつ、「ねえ」と声をもらした。
「久我さんは、なんで、選べるの?」
「ん? どういうこと?」
「久我さんは、どうやって選んでるの?」
「なに、選び方の話?」
灯真が気の抜けた声をもらす。黎がうなずくと、灯真が「うーん」と小さくうなった。
「選び方、ねえ……」
そう言って灯真が考えこむ。黎は膝を抱えた腕に力をこめながら灯真の言葉を待った。少しして灯真が「そうだなあ」と口をひらく。
「あくまで俺の選び方だから、参考程度に聞いてほしいんだけど」
灯真はもぞりと座りなおし、スマホの画面を黎のほうへ向けた。指先がするすると画面をなぞる。
「俺はまず、期間限定メニューのチェックからするかな。さっきも言ったけど、たまにしか食わねえから次食いたいときにやってるかわかんないし。ほらこれ、前食ったやつと違ってるだろ。新しくなってる」
これ、と灯真が指さした期間限定のメニューを見て、黎はぱちぱちと目を瞬かせる。違っているのだろうか。わからない。前に食べたのがどんなものだったのか、ちっとも思いだせなかった。
嫌だな、と黎は思う。灯真とピザを食べたことは覚えているのに、どんなものを食べたのか覚えていない。それがなんだかやけにもったいなく感じてしまった。
「だから俺はまず期間限定チェックして、うまそうだなって思ったらそれにするし、気分じゃなければ通常メニューから選ぶ。あんまり外食しねえし、どこ行ってもだいたいそんな感じ」
黎はじっと画面を見つめたまま、灯真に言われたことを考える。灯真の選び方はわかった。けれど、自分には難しいな、とくちびるを嚙む。うまそうとか、気分じゃないとか、そういうのはわからない。期間限定だから選ぶ、だと違うんだろうか。黎は浅く息を吐き、灯真を見た。目が合ってすぐ、灯真がやわく笑みながら小首をかしげる。
「どうした? なんか食いたいのあった?」
「……わかんないから、久我さんが選んで」
黎がそう言うと、灯真がゆるく眉を下げた。
「わかった。じゃあ、今回も期間限定のにしようかな。さっき見たやつ。レイはそれでいい?」
灯真に訊かれ、黎はうなずく。灯真も小さくうなずいてから、あらためてスマホを操作した。
「またサイドメニューも頼むか。今日はサラダも食いたいから頼んでいい? あと、チキンとポテトも」
灯真はわざわざ黎を見て訊いてきた。灯真が食べたいと思うなら異論はないのでそれにもうなずく。灯真は「わかった」とまたスマホに視線を戻した。
少しして注文を終えたのか、灯真がスマホをローテーブルに置いた。そのまま冷蔵庫へ向かう。
「レイー、なに飲む?」
キッチンから呼びかけられ、黎はのそのそと灯真の元へ向かい、冷蔵庫を覗きこんだ。
なにを飲むか訊かれても、と黎は思う。これは、選べということなんだろうか。なんでもいいのに。水と言いたかったが、前回それで灯真の反応がよくなかったことを思いだした。
水はだめ。炭酸水ならいいだろうか。それは前回ピザを食べるとき選んだはず。それか、牛乳のほうがいいんだろうか。黎が飲むのをあてにすると言っていたとおり、灯真は毎回大きいパックの牛乳を買っている。いつもなら灯真に誘われるままちまちまと飲んでいるけれど、今週はほとんど飲んでいない。それなら、牛乳を飲んで減らすほうがいいんだろうか。
迷っていたら冷蔵庫から電子音が鳴って、黎はびくりとしてしまった。この音を知っている。扉をあけたままにしていたら鳴る音だ。
「そ、それにする」
「炭酸水? わかった」
はやく選ばなければと焦りすぎて深く考えられず、目についた炭酸水のペットボトルを指さした。灯真がそれを手にとったのを見てうなずく。
「ん」
灯真は黎にそのペットボトルを手渡したあと、自分のビールを取りだした。ソファに戻る灯真の背中についていく。
これでよかったんだろうか。黎はペットボトルをきゅっと握る。前もこれにしたし、そのときは灯真が選んでくれたから、じゃあ大丈夫だろうか。
灯真が元の場所に座り、テーブルにビールの缶を置く。黎も同じように座りながらも、視線はビールに引きよせられていた。いつも灯真が飲んでいる、ビール。
「……久我さんは、ビール、好きなの?」
「ビール? 好きだよ」
灯真はテレビのリモコンを取りながら、こともなげに言う。
「でもこの好きも、ピザと似たようなもんかなあ。毎日飲みたいと思うほどじゃないけど、休みの前の日とか、休みの日は飲みたくなる」
「たまにの、ぜいたく?」
「んはは、そうそう。たまにの贅沢だからおいしい。俺あんまり強くないしさ。仕事の日の朝にぐったりしたくないから、毎日毎晩は飲まない。でも好き」
どこか楽しげな灯真の話を聞きながら、難しいな、と黎は思う。好きにもいろんな種類があるのが黎にはよくわからなかった。
かつて黎が暮らしてきた飼い主たちは、どのひとも酒をよく飲んでいた。彼ら彼女らは好きだから飲んでいたんだろうか。酒を飲むと乱暴になるかひどく酔いつぶれるかで、灯真のように飲んでも変わらないひとは初めてだった。酒に酔うとみんなそうなると思っていたのに、灯真は違った。
毎日酒を飲んでいる飼い主たちばかりだったし、みんな酒が好きなんだと思っていた。酒に酔って吐いても日にちがたてばまた飲んでいたし。でも、ほんとうに好きだったんだろうか。
聞いてみればよかったのかもしれない、といまさらながらに思った。思ったところで、もうどうしようもないのだが。
「今日はなに見よっかな」
灯真の声にふっと意識が引きもどされる。横目で灯真を見ると、口角がわずかに上がっていた。そういえば灯真はいつも、映画を選んでいるときから楽しそうにしているなと気づく。
「……映画は、好きなの?」
「ん? 好きだよ。かなり好き」
黎が訊くと、間をあけずはずんだ声が返ってきた。これまでと違う手ざわりの返事に、黎は灯真を見る。見られていることに気づいたのか、灯真はどこか照れくさそうにうなじをさすった。
「これは、ピザとかビールとは違う好きなの?」
「うん、違うねえ。好きなこと教えてって言われたら選択肢に出てくるくらい好き」
やはり、今までと違う返事だ。知らず知らずのうちに重心がやや前のめりになる。
「どこが好きなの」
「どこ……そうだなあ……」
灯真が首をかたむけながら考えこむ。しばらくの沈黙のあと、ゆっくりと口をひらいた。
「俺の知らない世界に、連れてってくれるとこ、かも」
「しらないせかい」
その言葉をなぞるように呟く。灯真は小さくうなずいてから、また話しはじめた。
「こどものころから、アニメ好きだったんだよね。ある程度でかくなってからは映画も見るようになった。なんだろうな……映画も、アニメもそうだけど、主人公は俺じゃないじゃん。当たり前だけど。だから俺とは違う人生だし、世界設定だって、現代日本とは限らないじゃん。大昔だったり未来だったり、魔法があったり、モンスターがいたり……なんていうか、俺が経験できない世界っつうか、人生っつうか……そういうのにふれるのが好きなんかな。映画に限んないけど、なんかの物語にふれてるときは、知らない世界に惹きこまれてるっていうか……うまく言えねえけど」
灯真の話に耳を傾けながら、黎は灯真の気持ちがわかるかもしれない、と思っていた。
いつも灯真が映画を選んでくれるから、始まるまでどんな話なのかは知らない。灯真はあらかじめ説明しないし、黎も訊かない。けれどどの作品を見ているときでも、気がつけば映画の世界に集中しているのだ。昼食にほとんど手をつけないまま映画が終わったことも何度かある。
これまでのことを思いかえしていたら、灯真がふたたび口をひらいた。
「もちろん、素敵で幸せな内容ばっかりじゃないよ。見てて苦しくなるようなのとか、胸くそ悪い、すっきりしない、腹が立つような話もいっぱいあるし、なんだったんだこの話ってわけわかんないまま終わるのもある。ホラーとかは普通にこえーし。でもそういうのもひっくるめて、なんかの物語にふれおわったあとはすげえ充足感……満たされてるっていうか、満足してることが多いし……。うん、好きだよ、映画。すげえ好きだな」
そこまで言って、灯真がはにかんだ。その表情がまるで少年のように見えて、黎は瞬きを落とす。
「学生のときとか、時間と体力がありあまってたころはいちにちに何本も続けて見たりとかしてたなあ。映画館で何作かはしごしたり。でも今はねえ、一本見たら満足するようになっちゃった。つうかこんだけ語っといてあれだけど、レイが来る前はこんな毎週土曜に絶対映画見るってこともなかったし」
「そうなの?」
「そうだよ」
驚いてしまい思わず口を挟むと、灯真がはにかんだまま鼻先にふれた。
「ソファでだらだらスマホ見てたら休み終わったとか、しょっちゅうあったからな。今は毎週のお決まりみたいにしてるけど、こっちのほうがいい。おまえと映画見るの楽しいし」
楽しい。昨晩聞いたのと同じ言葉に、喉の奥がきゅっと締まったような気がした。なにも返せず、黎は目線を落とす。
「今度さ、一緒に映画館行こうぜ。家でのんびり見るのも楽しいけど、映画館のでっけえスクリーンといい音響で見る映画はまた違った楽しさがあって、俺はどっちも好き」
そう言って、灯真が黎に笑いかけた。それとほとんど同時に呼び鈴が鳴り、黎の肩が跳ねる。
「お、ピザ来たんじゃね」
灯真ははずむような足取りで玄関へ向かった。黎は膝を抱える腕にゆるく力をこめ、灯真の話を口の中で転がす。
黎はただ、灯真の隣で映画を見ているだけだ。見おわったあとになにか話すわけでもない。それなのにどうして、楽しい、なんて言ってくれるんだろう。どうして一緒に映画館へ行こうと言ってくれるんだろう。なにもしていないのに。
黎は小さく息をこぼし、テレビの画面を見る。いくつも並んだ写真――サムネイルというらしい。灯真が教えてくれた。その数だけ映画があり、灯真いわく知らない世界がある。今日はなにを見るんだろう。……今日の映画は、どんな世界に連れていってくれるんだろう。考えているうちに、胸の奥がそわりとわきたつような感覚をいだく。足音とともに廊下のドアがひらいた途端、ピザのいい香りが部屋に広がった。
初めてのオリジナル小説です。
楽しんでいただけると嬉しいです。
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