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3-8


 ふっと意識が浮上する。まぶたを持ちあげると、いつもと見える景色が違っていた。黎は緩慢に瞬きしながら、あれ、と思う。


「あ、起きた?」


 灯真の声がすぐそばから聞こえ、肩が跳ねる。戸惑いながら声のした真上を見ると、灯真に見下ろされていた。初めての状況に、黎は息を詰めて瞠目する。


「ごめん、起きたならちょっとトイレ行かせて」


 灯真はそう言って黎の頭をラグに降ろし、慌ただしくトイレへと向かった。なにがなんだかわからないまま、目線だけを動かす。そこでやっと、自分がソファではなくラグで寝ていることに気がついた。電気もついたままだ。なんでだろう。まだ頭が働かなくてぼうっとしていると、灯真が戻ってきたのが足音でわかった。重い体をなんとか起こして座りなおす。灯真は黎と少しだけ距離をあけ、ラグに腰を下ろした。


「おまえ、昨日あのまま寝ちゃったんだよ。覚えてる?」


 灯真に言われ、昨晩の記憶が一気によみがえってきた。かっと顔に熱が集まる。

 そうだ。自分は昨日、灯真の前でみっともないくらい大泣きしたのだ。膝枕で、背中をさすってもらって、そのあとの記憶がない。そろそろと灯真の様子をうかがうと、灯真がゆるやかに苦笑した。


「くが、っ」


 話しかけようと声を出した瞬間、黎はごほごほと咳きこんでしまった。喉がかすれているし、ひどく渇いてもいる。


「おわ、大丈夫か。ちょっと待ってて」


 灯真が慌てて立ちあがり、黎の視界から消える。足音が遠ざかったあと、すぐに戻ってきた。「はい」と水のペットボトルを手渡される。


「咳おちついたらでいいから、ゆっくり飲みな。一気に飲んだらむせるかもしれないし」


 黎は小さくうなずき、咳の切れ目に水を含んだ。慎重に飲みながら、ちらりと灯真を見る。目が合ってすぐ、灯真の目元がかすかにゆるんだ。


「くが、さん」


 また咳きこまないようおそるおそる声を出す。今度は大丈夫だったことに内心ほっとした。灯真が「ん?」と首をかしげる。


「久我さんも、ここで寝たの」

「そうだね」

「俺、乗せたまま?」

「うん。そう」

「なんで」


 そうするのが当たり前みたいに返され、黎の口からぽろりとなんでがこぼれおちた。昨日まではあんなに喉の奥に詰まっていたのに。灯真が「なんで、って」と口元をかすかにやわらげる。


「だって、おまえ寝ちゃったんだもん」


 また平然と答えられ、黎はくちびるの内側を嚙んだ。自分のかたわらでくしゃくしゃになっている毛布に目を向ける。

 ここに毛布はこれしかない。起きたとき黎にかけられていたから、黎がずっとひとりじめしていたのだろう。この毛布だって灯真のものなのに、灯真が優先されるべきなのに。そもそも黎が寝てしまったとしても、そのまま放置して灯真はいつもどおりベッドで寝てよかったはずだ。それなのに、どうして。

 あんなに大泣きしてしまったことも、眠りこけているあいだ灯真を拘束してしまったことも、毛布を独占していたことも申し訳なくて、落とした目線を上げられない。黙りこんでいると、「レイ」とふいに声をかけられた。手が勝手に揺れて、持ったままだったペットボトルがちゃぷりと音を立てる。


「言いたいことがあるなら聞くよ。なんもないならそれでいいし、言いたくなかったら言わなくていい」


 その言葉に、黎は瞬きをする。うかがうように灯真を見ると、灯真はやわらかな表情を黎に向けていた。黎はそっと唾を飲みくだす。


「……いってもいいの」

「もちろん」

「なんでも?」

「まあ、うん、そうだな。おまえが言いたいって思ったんだったら、なんでも聞くよ。聞くけど、聞いたあとのことはそんときに考える」


 灯真は眉を下げ、言葉を選ぶように言った。黎は目線をラグに落とし、灯真に言われたことを頭の中でなぞる。言いたいことがあるなら言ってもいい。でも、聞いたあとで考える。……それはつまり、どういうことなんだろう。言ってもいいんだろうか。言うべきなんだろうか。それともなにも言わないほうがいいんだろうか。わからない。黎の眉が寄る。

 間違えたことを言ってしまうなら、それで灯真に嫌な思いをさせてしまうなら、なにも言いたくない。だって自分は、昨日、また間違えてしまった。

 けれど灯真がわざわざこんな話をしたということは、なにかきっと、意味があるはず。考えこんでいると、灯真があくびをしたのが聞こえた。はっと意識を戻す。これ以上待たせてはいけない。はやくしなければ。どうするのがいいのかまだわかっていないのに、黎は気づけば口をあけてしまっていた。でもなにを言うべきかわからず、そのまま固まる。

 灯真の視線がこちらへ向いている。黎が話すのを待っている。はやく、なにか、言わなければ、はやく。


「……おいていって、よかったのに」


 こぼれるように言ったあとで、ほんとうに言いたかったのはこんなことだったっけ、と黎はますます混乱した。灯真がぽかんとした顔で黎を見つめたあと、ゆるゆると眉尻を下げて笑む。


「……置いていかないよ」


 灯真はそれだけ言って、ふっと息を吐いた。大きく伸びをしたあと立ちあがる。


「腹減ったー。メシ食おうぜ。歯磨いてくるわ」


 灯真が言いながら洗面所へ向かう。黎はさっきの灯真の言葉をうまく受けとめられないままその姿を目で追った。その途中で壁の時計が目に入る。そういえば今は何時なんだろう、となにげなく確認した直後、さっと血の気が引いた。いつも灯真が仕事に行く時間をとっくに過ぎている。


「く、がさん」

「んあ? どうした?」


 愕然としたまま声をかけると、灯真が顔だけ振りかえった。


「くがさん、しごと」


 このままではきっと遅刻する。自分が灯真の膝で寝ていたから、灯真を動けなくしてしまったから、そのせいでまた、迷惑をかける。

 しかし灯真は、黎を見たままふはっと笑った。


「今日は土曜日ですよー」


 灯真は軽い調子でそう言って、あらためて洗面所に行った。その背中が見えなくなってからようやく、黎はゆるゆると息を吐きだす。

 そうか、今日は土曜日なのか。気づいてなかった。間違えてしまったあの夜以来、曜日なんてすっぽり抜けおちていた。今日は土曜日だから、灯真は休み。仕事に遅刻することもない。

 黎は間抜けなことを言った恥ずかしさと、灯真が遅刻しないという安堵を同時に覚えながら、それを紛らわせるように水に口をつける。昨日からずっと、恥ずかしいことばかりだ。灯真の膝で寝てしまったことも、声も抑えずに泣きじゃくってしまったことも。

 あんなふうに泣いたのは、もうずいぶんと久しぶりのことだった。




 朝食の後片付けを終えると、灯真は掃除を始めた。黎はどうするか迷ったものの、いつもそうしていたから、と灯真のそばに寄った。シンクを掃除している手元を後ろから覗きこむ。

 最初に灯真が掃除しているところを見て以来、黎はなんとなく灯真の後ろからその様子を見つめるのが習慣になっていた。手伝ったことはない。やったほうがいいのか聞いても、返ってくるのは「やりたければやったらいいけど、やりたくないならやらなくていい」という言葉だったから。それに対する答えを、まだ見つけられていない。

 キッチンの掃除を終えた灯真が、食卓を拭き、次は洗面所へと向かった。毎週変わらない順番で、灯真は掃除を進めていく。黎はその後ろをついてまわりながら、灯真は掃除をやりたいんだろうか、と考えていた。やりたいからやっているんだろうか。それが好きなことなんだろうか。

 灯真にはきっと、好きなことと嫌いなことがあるんだろう、と黎は思う。自分とは違って。けれど黎はそれを知らない。灯真に聞こうとしたこともない。飼い主の好きなことと嫌いなことを知るのは、飼い主の求める役割どおりふるまうためだったから。

 でも今、知りたい、と黎は思っていた。灯真がなにを好きでなにを嫌いなのか。知ってどうなるのかはわからない。役割を与えられていないのだから、知ったところで活かせない。でも、知りたい。聞いてみたい。灯真に。

 どうして急にこんなことを思ったのかは、自分でもよくわからなかった。言いたいことがあるなら聞く、という灯真の言葉が、まだ頭の中にくっきりと残っているからかもしれない。昨日たくさんぶつけた、なんで、に灯真がちゃんと答えてくれたからかもしれない。

 掃除の邪魔になるかも。でも、言いたいことがあるなら聞くと、灯真が、言っていたから。


「……久我さん」


 黎はそっと息を吸いこんでから、浴室の掃除をしている灯真に呼びかけた。灯真はこちらを見ないまま「んー?」と返事をする。


「久我さんは、掃除が好きなの?」

「ええ? いや、別に」


 灯真がふっと目を細め、笑みをこぼす。好きじゃないのか、と黎は少し面食らってしまった。黎がこの家に来てから、毎週必ず掃除しているのに。


「じゃあ、嫌いなの?」

「いや……別にそんなこともないかな」


 灯真は手を止めないまま、わずかに首をかたむける。


「掃除は別に、好きじゃないけど嫌いでもないな。やらないと困るからやってるだけで、別に好きだとか楽しいからやってるわけじゃない」


 灯真はそこまで言って、浴槽にシャワーを当てた。流水音を聞きながら、黎は眉を寄せる。好きじゃないけど嫌いでもない。やらないと困るからやっている。それはつまり、やりたくないけどやっているということなんだろうか。黎が考えこんでいると、灯真が浴室の掃除を終えて出てきた。次はトイレの掃除へ向かう背中についていく。


「掃除、好きじゃないの?」

「そうだな」

「でも嫌いでもないの?」

「うん、そうだよ」

「やりたくないけどやってるの?」

「いや、うーん、それも違うかも」


 便座の前にしゃがんで掃除を始めた灯真の背中にいくつも訊ねる。灯真は首をひねりながらもそれに答えてくれた。


「やりたくないわけじゃないよ。終わったあときれいになってるのを見たら気分あがるし。だからって掃除楽しいと思ったことはないかも。めんどくせえもんはめんどくせえ」

「……それって、どっちなの?」

「どっちでもない、がいちばん近いかも」


 灯真は黎に背中を向けたまま、どこか楽しそうに話す。好きじゃない。でも嫌いでもない。やりたいからやっているわけでも、やりたくないのにやっているわけでもない。どっちでもない。なんだかよくわからなくて、考えているうちに顔に力がこもっていく。


「なんかさあ」


 灯真が話しはじめたのを聞いて、黎はふたたび意識を向ける。


「好きと嫌いだけじゃなくて、やりたいとやりたくないとか、なんでもそうだと思うんだけど、そのあいだにはどっちでもないがいっぱいあると思うんだよな」


 どっちでもない。灯真の口からまた出てきたその言葉を、黎は音にせず呟く。


「掃除は好きでも嫌いでもどっちでもないし、やりたいわけでもやりたくないわけでもない。まじでめんどくさいときはやんないし、なんか急にやる気出てどっかぴかぴかにすることもあるし。なんていうか、絶対ってないと思うんだよな。絶対どっちかに決まってる、そうじゃないのはありえない、みたいなのはないんじゃないか、みたいな。……なんか、うまく言えないんだけどさあ」


 灯真はどこか照れくさそうに吐息だけで笑った。


「……むずかしい」


 灯真の話を反芻しながらぽつりと呟く。その声が聞こえたのか、灯真が黎をふりかえって眉を下げた。


「まあ、俺もうまく説明できないような、俺の感覚の話だからな。誰にでも当てはまるわけじゃないと思うし」


 どうやら掃除が終わったらしく、灯真は立ちあがってトイレの水を流した。そのまま手洗いの掃除を始めた灯真の邪魔にならないよう、体を隅に寄せる。


「……やらなくていいなら、やらない?」

「まあ、そうだなあ。なんもしなくてもずっと家がきれいなままなんだったら、やらないかもな」

「俺が代わりにやったら、久我さんは嬉しい?」

「いや、別に」


 掃除を続けたまま即答され、黎は静かに息を呑む。


「やってみたいとか、やりたいとか、そういう理由でやるならいいと思うよ。嬉しいっつうか、助かるって思うかもな。でもそうじゃなくて、そうだな……見返りみたいな感じでやるっていうなら、なんも嬉しくない。むしろ嫌だなって思う」

「……なんで」

「そういうつもりでおまえと一緒にいるわけじゃないから」


 灯真はやわらかな声音で、けれどきっぱりとそう言った。黎はぐっとくちびるを嚙む。


「誰かに家事を肩代わりしてほしいなら、最初からハウスキーパーとかお願いするよ。そういうことしてほしくておまえと暮らしてるわけじゃない。おまえがやりたいって言うならなんも止めないけど、俺のためになんかしないとって思ってるならやらなくていい。なんもしなくていい」


 灯真は手を止めず、こちらを見ることもなく、ゆっくりと言葉を紡いだ。黎はくちびるを嚙んだままうなだれる。

 いつもこうだ。いつもこうして、なにもしなくていいと言われる。そう言われてしまったら、どうしていいかわからなくてそこからどこにも進めない。


「次行くけど、おまえは?」


 声とともに肩を手の甲でぽんと軽く叩かれ、黎ははっとする。いつのまにか掃除が終わっていたらしい。トイレを出ていく灯真を慌てて追った。次は、掃除機だ。大きな音がふたりのあいだで鳴る。黎はそれきりなにも言えず、ただ灯真の背中と手元を見つめつづけた。



初めてのオリジナル小説です。

楽しんでいただけると嬉しいです。

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