3-7
「レイ、ちょっとこっちおいで」
夕食の後片付けを終えた灯真が、昨日と同じ、ソファの前のラグから黎を手招いた。あのなにも答えられなかった時間を思いだし、体がすくむ。
とはいえ、呼ばれているのに無視するわけにもいかない。おずおずと灯真に従ったものの、灯真がラグにいるのにソファに座る気にはなれなかった。灯真は黎を呼んだだけで、どこに座るかまでは言っていない。灯真と少し距離をあけてラグに座ってみたが、灯真はなにも言わなかった。これで大丈夫なんだろうか。様子をうかがっていると、灯真が黎のほうを向いて座りなおした。「はい」とかたわらに置いてあった紙袋を黎に差しだす。
「これ、おまえにあげる。いらなければ俺が使うから」
真剣な顔つきで言われ、思わず目を瞠る。一瞬遅れて、黎はぎこちなく、けれど大きく首を横に振った。
「い、いらない」
せいいっぱい声をしぼりだすと、灯真の眉尻がまた下がってしまった。
「いや、まあ、いらなければいらないでいいんだけどさあ」
「でも、おれ、いらない。くがさんつかって」
「うーん……」
灯真は小さくうなっただけで、紙袋を持った手を引っこめはしなかった。なぜいきなりこんなことを言われているのかわからず、重心が後ろへかたむく。いらない。もらえない。灯真が使うというなら、最初から使えばいいのではないか。固唾を飲んで灯真を見ていると、灯真が空いた手でうなじを掻いた。
「とりあえず、あけてみない? 中身見てから決めても遅くないんじゃないかなって思うけど」
「お、おれが、あけるの」
「うん。レイがあけて」
そう言って、灯真が瞳をゆるく細める。黎はくちびるを固く結び、そろそろと紙袋を受けとった。そんなに大きくないけど、少し重い。中にはなにかの箱が入っていた。黎は灯真をちらりと見る。灯真は目を細めたまま、無言でそっとうなずいた。
あけるだけ。中身がなにか見るだけ。見たら、すぐ灯真に返す。震える手で紙袋からそうっと箱を取りだす。箱の外側に載っている商品の写真を確認した瞬間、「え」と声をもらしてしまった。これがなんなのか知っている。最近見た。そう、灯真と行った美容室で。
「……これ」
「タブレット。それ買いに行ってたから、帰ってくるの遅くなっちゃった」
灯真が指先でこめかみをこする。あけてと言われていたけれど、中身がなにかわかった今、あけたくない。あけられない。黎は箱をあけることなく、灯真にずいとそれを差しだした。灯真の目が一瞬丸くなったけれど、すぐにまた細められる。
「あけねえの?」
やわらかな声で灯真が訊く。黎は全身をこわばらせながらもなんとかうなずいた。
「こんなの、あけられない。いらない。くがさん、つかって」
自分の耳に届いた自分の声が、ひどくうわずっていた。箱を持つ手が震えている。はやく持っていってほしい。こんな高いもの、持っているのすらこわい。灯真はしばし口をつぐんで黎を見ていたけれど、やがて小さく息を吐き、箱を受けとってくれた。両手が開放され、黎はようやくまともに息を吸いこむ。
「ちなみになんだけどさ」
灯真は言いながら、タブレットの箱をローテーブルに置く。それから一拍置いて、黎に視線を戻した。
「なんでいらないのか、聞いてもいい?」
「だって、くがさん、つかうんでしょ」
「うん、まあ、おまえがいらないならね。タブレットは持ってないし、あれば使うよ」
「じゃあ、いらない。もらえない」
「うん、でも、そのいらない理由を教えてほしいなって思うんだけど。俺が使うから、ってだけ?」
灯真が眉を下げたまま小さく首をかたむける。どうして灯真が食いさがるのかわからない。灯真が使うなら、使えばいいはずだ。それでいいじゃないか。なのに灯真は理由を聞いてくる。教えてと言っている。答えなければ。そんな、理由なんて、ひとつしかないのに。
「……だって」
黎が声をこぼすと、灯真が黎をまっすぐに見つめたのがわかった。
「だって、そんなの、もらえない。もらう、資格、ない」
「資格?」
黎の返事を聞いて、灯真が気の抜けた声をもらした。きょとんと目を丸くしたあと、灯真の首がゆるゆるとかたむいていく。
「資格、って……どういうこと? 資格なんていらねえだろ。俺があげたいと思っただけなんだし……」
灯真は心底ふしぎそうに呟いた。視線が黎とタブレットを行き来している。あげたいと思った、とあっさり明かされた言葉が、黎には信じられなかった。気づかないうちに、呼吸が少しずつ浅くなっていく。
「それあれば、今よりできること増えるんじゃないかって思ってさ。俺いなくても、映画とか、本とか、いろいろ……自由にできるかな、みたいな……」
灯真は考えるようなそぶりを見せながら、ぽつぽつと言葉をこぼしていく。灯真の意図がわからない。なにもできないから、できることを増やせという話なんだろうか。自由に、と言われても、そんなもの知らない。灯真がそうしろと言うなら、する。でも、そんな高いものは、もらえない。なにもできないのに。なにひとつ返せていないのに。
「おれ、もらえない、こんな、こんなの」
「うん。なんで?」
「だって、おれ、久我さんになにもしてない」
「いや、なんかしてもらったお礼とかご褒美とかじゃないし、いいんだよ。そんなこと気にしなくて」
「いいわけない」
かすれた声ではっきり言いきると、灯真がまた目を丸くした。黎はまだ震えている腕で膝を抱える。
「おれ、なにもしてないのに、なんの役にも立ってない、役立たずなのに」
「なんだそれ。そんなことねえよ」
ずっとやわらかかった灯真の声に、わずかな鋭さがまざる。はっとして灯真を見ると、難しい顔でふたりのあいだのラグを見ていた。
「おまえのこと役立たずなんて、思ったことねえよ。そんな……そんなこと言わないでよ」
「だって、なんにもしてないのに、まちがえたのに、おれ」
なんで、と黎は思う。頭の中で、なんで、なんで、と自分の声が響いている。は、は、と短い呼吸をくりかえしながら灯真を見る。灯真は表情を変えないまま目線を黎に向けていた。
「ねえ、おれ、なにしたらいいの。してほしいことないの。おれは、なにをすればいいの」
答えてほしい。教えてほしい。今度こそ、役割を与えてほしい。すがるような黎の問いに、灯真の眉がぴくりと動いた。一瞬の沈黙のあと、灯真がゆるくかぶりを振る。
「前も言ったけど、おまえにしてほしいことはない。やりたいことがあるならやったらいいと思うけど、やりたくないことはやらなくていい。強いて言うなら、それ使っておまえが好きなものとか嫌いなもの見つけてくれれば嬉しいとは思う。でも、それも強制じゃない。おまえの自由にしていい」
灯真はゆっくりと答えてくれたけれど、それを聞いて黎は愕然としてしまった。まただ。また、役割を与えてもらえない。膝を抱えた腕にぎゅっと力がこもる。
「好きなもの、見つけたらいいの」
「いや……それだと、なんか違うっていうか……」
「好きなもの見つけたら、久我さん、嬉しいの。おれは、それをすればいいの」
「いや、うーん、ちょっと待って」
灯真は黎から目線を外し、うなじをさする。待てと言われたから口をつぐんだものの、内側にとどめきれない、なんで、が爆発しそうだった。灯真はしばらく考えこんだあと、目を逸らしたまま口をひらく。
「おまえが好きなもの見つけられたら嬉しいなって思うのはほんとうだよ。だからって、好きなものをむりやり探してくれって言ってるわけじゃない。いろんな経験を積んでいくうちに、なにが好きでなにが嫌いかわかったらいいなってだけで……」
灯真が言葉を選んでいるのは伝わってきたが、黎にはさっぱり理解ができなかった。黎が好きなものを見つけられたら灯真が嬉しいと思う。なんで。好きなものが見つかったら嬉しいと思うのにむりやり探さなくてもいいと言う。なんで。難しい。言っている意味がわからない。黎の顔がどんどん歪んでいく。
「好きなもの見つけたら、なんなの。どうなるの」
「どう、って……」
灯真が口ごもったあと、小さく息をこぼす。
「俺も、そんな、難しいことわかんねえけど……。でも、好きなことも嫌いなこともわかんないまま生きるのって、なんか……さみしくねえ?」
さみしい、という言葉に黎の眉がますます寄る。わからない。なんでさみしくなるのか。今までそんな理由でさみしさを感じたことはなかった。さみしい、は、母の帰りを待つひとりの夜しか、知らない。
「わかんない。おれ、好きも嫌いもわかんないけど、でも、生きてるよ。これからも、生きていけるよ」
「いや、まあ、そりゃ、そうかもしんねえけど……」
そう言って、灯真がまた口をつぐむ。ずっと難しい顔から変わらない。困らせている。こんな言い方をしていたら怒られる。わかっているのに、うまく止められなかった。そんな自分が嫌になる。役割さえ与えてもらえれば、それになるのに。恋人でも、ペットでも、なんだっていいから。それになれと言われたら、ちゃんとなるのに。
灯真はしばらく黙りこんだあと、またうなじをさすった。
「俺は、おまえがこれまでどんな生き方をしてきたのか知らない。聞いてないから。今こんな状況で聞くのも違うと思うし、聞かない。でも……」
灯真はそこで一度言葉を区切り、息を吸いなおした。
「でも、おまえががんばって生きてきたのは、なんとなくわかる。なんつうか……いったん休憩して、好きなこととか楽しいと思えること、探していいんだよ。やらないといけないことは、なんもないんだから」
そう言って、灯真が眉を下げてほほえんだ。灯真の言葉をうまく理解しきれない。好きなこととか楽しいことを探していい。でもやらないといけないわけではない。やらないといけないことはなにもない。つまり、どうすればいいんだろう。休憩と言われても、自分は今、なにもしていないのに。
「じゃあ、おれはなにをしたらいいの」
「どういうこと?」
震える声で訊くと、灯真が首をひねった。はやく、はやく、答えがほしい。自分がやるべき、正解がほしい。抱えつづけた焦りがどろどろと外に漏れていく。
「おれはなにをしたらいいの。してほしいこと、ないの、ねえ」
「いや、だから、別にないって。なんか手伝ってほしいとかあれば、そんときに頼んでるだろ?」
「たりない、ねえ、おれはなにしたらいいの、してほしいことないの」
「足りないって言われても、ないもんはないんだってば」
困りはてた声でこぼされた言葉を聞き、黎のくちびるが震えた。ふくれあがった、なんで、を、もう、とどめておけない。
「なんで」
「いや、なんでって、そんなこと言われても……」
灯真がまた難しい表情になり、目線を揺らす。
「前にも言ったけど、俺、なんかしてほしくておまえのこと連れてきたわけじゃないし」
「じゃあなんで拾ったの」
黎が言うと、灯真の肩が小さく揺れた。こんなこと聞いたらだめだと、わかっているのに、止められない。抑えられない。
「なんでここまでしてくれるの」
「ここまで……」
「なんでこんなにいろんなことしてくれるの。俺はなにもしてないのに、なんで」
「俺が連れてきたから」
灯真は黎の言葉にかぶせるように、黎をまっすぐに見て答えた。それを聞いた瞬間、黎の喉がひゅっと鳴る。
「面倒見るって、俺が決めたから。いろんなこと、っつーのがなにを指してるのかはわかんねえけど、決めたからにはやることやるっつうか、世話くらいするよ」
あまりにも平然と告げられた言葉を聞いて、黎の中でなにかがはじけたような気がした。
「それなら……っ!」
黎は勢いよく顔を上げ、灯真を見る。
「それなら、おれ、拾ってほしくなかった。久我さんに迷惑かけるくらいなら、おれ、拾ってほしくなんかなかった!」
叫ぶように言いきった直後、灯真の表情がこわばった。それからすぐに力なく笑ったのを見て、あ、と目を瞠る。ちがう。ちがう。こんな顔させたかったわけじゃない。ちがう、また、まちがえた。
「そんな……それは、さみしいじゃんか」
灯真は笑ったまま、目線をゆっくりラグへ落とした。
「おまえは嫌だったかもしれないけど……俺はおまえのこと、連れてきてよかったって思ってるよ。だって俺、おまえと一緒にいるの楽しいもん」
やわらかくて、優しくて、どこかさみしさを含んだ声で灯真が言う。灯真の言葉をうまく飲みこめない。けれど黎の視界がじわりとぼやけ、すぐに頬が濡れた感覚がした。なんで、とさっきまでよりも弱々しくなった声が頭の中で響く。
「迷惑だなんて、思ったことねえよ。ぜんぶやりたいからやってるだけ。押しつけがましかったかもしんねえけど」
ちがう。ちがう。そんなことない。黎は歯を食いしばりながら何度も首を横に振る。押しつけがましいなんて、一度だって思ったことない。灯真が息を吸った音が静かに響く。ぼやけた視界の中で、灯真がこちらに顔を向けた。
「俺は、この何ヶ月か、おまえと一緒にいて楽しかったし、おまえがいてくれてよかったって思ってる。なんで面倒見るの、の理由になんねえかな、これ」
「ぅ、あ、うう……っ!」
灯真との暮らしが黎の脳裏を一気に駆けめぐる。ぐ、う、と潰れた嗚咽が喉の奥からいくつもあふれてくる。
灯真との暮らしは、今まで味わったことないくらい穏やかで、ずっと、ずっと、苦しかった。灯真と一緒にいればいるほど、なにもできないことが、なにも返せないことが苦しくて、それなのに与えられつづけることにどうしていいかわからなくて、苦しくて、でも、ここにいたかった。出ていくチャンスは何度だってあったけれど、そんなことしなかった。できなかった。したくなかった。ここにいていい理由も見つからない。ここにいていいとも思えない。でも、ここにいたかった。ここに、いたかった。
——ねえ、久我さんは、楽しかったの。おれ、ここにいて、よかったの。
灯真の笑顔が、灯真の言葉が、頭の中でいくつも浮かんではじけている。ぼたぼたとあふれる涙が止まらない。息が苦しくて、体を支えていられなくて、黎は灯真のいるほうに向かってくずおれた。自分のくぐもった嗚咽の向こうで、灯真がそっと息をもらした音が聞こえたような気がした。
「……おまえ、すげえ苦しそうに泣くんだな」
ぽつりと呟いたあと、灯真が近づいてきた。すぐに背中にてのひらがふれ、黎の体が跳ねる。
灯真は一度手を離したものの、また黎の背中にふれた。そのまま無言で背中を撫でる。そのてのひらがあたたかくて、優しくて、それなのに苦しさがいっそう増したような気がした。
苦しい。苦しい。灯真になにか報いたいのに、なにもできないことが苦しい。自分にはなにもない。なにもできない。なにもわからない。なににもなれない。どうすればいいかわからない。どうしたらいいの。どうすれば、返せるの。
「……ちょっとごめんな。おいで、レイ」
その言葉とともにそうっと頭を持ちあげられた。かと思えば灯真の膝に頭を乗せるかたちになり、黎ははっと息を呑んだ。とめどなくあふれる涙のせいで灯真の服が濡れていく。だめだ。汚してしまう。そう思ったけれど、体を起こす力はないし、涙を止める方法もわからなかった。
灯真はそれきり口をつぐみ、黎の背中をゆっくりとさすりつづけてくれた。何度も間違えたのに、なお優しさを与えてもらえることも苦しい。もういい。もうやめて。もうじゅうぶんもらったから。それなのに、この手を、跳ねのけられなかった。
初めてのオリジナル小説です。
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