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3-5


 かすかに物音が聞こえた気がして目が覚める。重いまぶたを持ちあげると、あたりは真っ暗だった。ひとりきりのリビングで黎は静かに息を吐く。割れるような頭痛はいくぶんかましになっていた。やっぱり寝れば治るんだ、とまだぼやけた頭で思う。

 とろとろと瞬きをしていたら、寝室のドアがひらいた音がした。黎は反射で目を閉じる。灯真の足音が近づいてきたあと、そっと頭を撫でられた。それから毛布を直し、灯真が離れていく。いつもと変わらない手つき。その理由がいつまでたってもわからない。

 息を吐き、のっそりと体を起こしてみる。あんなに変だった目の見え方も昨日よりはよくなっていた。寝起きだからか少しかすんでいるものの、これくらいならよくあることだ。寝たから治ったのだろう。そう、寝た。朝まで起きることもなく。……またこの家で朝を迎えてしまった。きっと、今日こそ追いだされる。今日こそ、捨てられる。灯真が戻ってきたら、そのときこそ終わりだ。黎はソファに座ったまま、力なくうつむいた。


「おっ、おはよ」


 洗面所から戻ってきた灯真に声をかけられ、黎の肩が跳ねる。鼓動が一気にはやくなったのを自覚しつつ、軋むような動きで灯真へ顔を向けた。けれど目を合わせられず、視線が揺れる。灯真がどんな顔をしているのか見られない。怒っていたらどうしよう。あの夜の表情が頭をよぎる。


「どう? ちょっとは寝れたか?」


 すぐそばで灯真の声がして、黎ははっと意識を戻す。声のしたほうへ反射で顔を向けた直後、息を呑んでしまった。目の前に灯真がいる。顔を覗きこまれている。いつのまに。気づかなかった。突然のことに体がこわばる。しかし灯真は黎の想像とは違い、目元にゆるい笑みを浮かべていた。なんで、と目が丸くなる。黎の様子を見ていた灯真が、小さく吹きだした。


「百面相? 忙しいね、朝から」


 灯真がくすくすと肩を振るわせる。なんで、笑っているんだろう。あまりにもいつもどおりの灯真に気が抜けてしまい、詰めていた息がこぼれた。


「んで、寝れたのか?」


 あらためて訊かれ、黎はさっきよりも少しはおちついた頭で考える。眠る前の記憶が曖昧だ。灯真に寝かしつけられて、まぶたが重くて、瞬きしたつもりで次に目をあけたらもう朝だった。ということは、眠れたと答えていいのだろうか。おずおずとうなずくと、灯真がふっと目尻に皺を寄せた。


「ならよかった。メシ作るから、歯磨いたりしておいで」


 そう言って、灯真がぽんと肩を叩く。黎は浅く顎を引き、ソファから立ちあがった。おぼつかない足取りで洗面所へと向かう。

 いつもどおりだ、と黎は思った。一昨日の夜のことなんてなにもなかったみたいに、いつもどおり。どこまでも穏やかな朝。灯真はあの夜にふれないし、黎もふれられない。もしかしたらあれは夢だったのでは、と思ってしまいそうになる。けれど夢なんかじゃないことは自分がいちばんわかっていた。いつ追いだされるんだろう。薄いガラスの上で重りをつけて歩いているような気分だった。次の一歩で割れるかも。次、いや、その次かも。




 黎の不安とは裏腹に、特別なことはなにも起こらないまま朝食を終えた。いつもと違うのは今日もトーストが半分だったことと、まだ味がよくわからなくて食べるのに時間がかかったことくらいで、それ以外はいつもどおりの朝食の時間だった。いただきますとごちそうさまは、今日も、言えなかった。

 水の音が止まり、灯真が洗い物を終える。そのまま寝室に向かうのかと思ったら、「レイ」とキッチンから声をかけられた。今度こそ追いだされる、と黎は食卓を見つめたまま息を詰めて身構える。


「おまえ、まだ頭痛い?」


 しかし黎の予想に反して、聞こえてきたのは気遣うような声だった。言われたことがうまく理解できなくて、黎ははつりと瞬きをする。どうして、灯真がそれを。返事できずにいたら、足音が近づいてきたのがわかった。けれど、さっきの灯真の言葉を飲みこめていないせいで反応が遅れる。


「ごめん、ちょっとおでこさわるぞ」


 灯真の声が聞こえた直後、額に灯真のてのひらがふれた。黎は静かに息を呑む。洗い物をしていたからか、灯真のてのひらは少しだけひんやりとしていた。灯真はなにを確かめたのか、「うーん」とうなりながら手を離す。


「熱はなさそうだけど。頭痛いの続いてるなら、薬飲む?」


 灯真の言葉に、黎は浅く息を吐く。困惑を隠すことなく灯真を見ると、灯真は黎の様子をうかがいながら眉を寄せていた。


「……なんで」

「ん? なんて?」

「なんで、それ」


 かすかに震える声でなんとか訊くと、灯真がやんわりと眉を下げた。


「そうかなって思っただけ。違うなら別にいいけど。どう? 頭は痛いの?」


 ふたたび訊ねられ、黎はぎゅっとくちびるを結ぶ。どうして灯真は気づいたんだろう。なにも言っていないはずなのに。胸の奥がなぜか苦しい。どう答えるべきなのか迷ったものの、黎は正直に小さくうなずいた。灯真がそっと息をもらした音が聞こえる。


「薬、飲んどく?」


 くすり、と黎は音にせずくちびるを動かす。どうすればいいかわからない。どう答えるのが正解かわからない。こんなこと、言われたことがない。考えているうちに、ずきん、とまた頭が痛くなって、黎は思わず顔をしかめてしまった。灯真は黙ったまま黎の返事を待っている。答えなければ。待たせている。でも、なにを? 正解はなに?


「……わかんない」


 なんとか声を絞りだすと、「わかんない」と灯真が黎の言葉をなぞった。


「頭痛、だいぶひどいの?」


 訊かれている。でもわからない。昨日よりは痛くない。でも痛い。喉が詰まっているみたいで、ずっと苦しい。なんで。わからない。またずきんと痛みが走る。これは、ひどい頭痛なの。わからない。ひどいかどうかなんて、考えたことがない。


「……でも、ねれば、なおるから」

「いや、そうかもしんねえけど」


 黎の返事を訊き、灯真が呆れたように言う。寝れば治る。ずっとそうだった。だから平気。我慢できる。昨日もできた。黎はくちびるを嚙み、テーブルに視線を落とす。


「……ちょっと待ってな」


 そう言って、灯真が黎の視界から消えた。足音が遠ざかったあと、また戻ってくる。ずっと見つめていたテーブルの天板に、灯真の手が割りこんできた。その手がなにかを置く。……薬だ。それに気づき、黎は静かに瞠目する。


「寝れば治るかもしんないけど、それ飲んだら楽になると思うから。つっても、合わなかったらごめん」


 謝られてしまい、黎は慌てて首を横に振った。そのせいか、またずきりと頭が痛くなって顔をしかめる。出された薬をどうするべきなのかわからなくてじっと見つめていると、灯真が今度はキッチンへ向かった。テーブルにいつもの昼食と水のペットボトルが置かれる。どうして、また、昼食が。黎の視線が薬と昼食を何度も行き来する。


「薬、飲んでも飲まなくてもどっちでもいいよ。おまえの好きにしていい。おまえの言うとおり、寝るのがいちばん大事だと思うし。ゆっくりしてな」

「……のんだら、どうなるの」

「飲んだら? そりゃ、頭痛おちつくけど……」


 ふしぎそうな声音で返され、そうなんだ、と黎はくちびるを結ぶ。一拍置いて、灯真が小さく息を吸った音が聞こえた。


「もしかして、薬、飲んだことない?」


 ひとつひとつの言葉を確かめるように訊かれ、黎はそっと顎を引いた。一瞬の沈黙のあと、灯真がため息のような息を長く吐く。


「そういうことか」


 灯真はそう呟いて、ふたたびキッチンへと向かった。水の音が少し聞こえたあと、灯真が戻ってくる。薬の横に水の入ったコップが置かれ、黎はそっと目を瞬かせた。灯真がそのまま薬のシートを手に取る。


「頭痛薬……鎮痛薬って言うのか? 仕組みはよくわからん。でも薬飲んでしばらく休めば、気づいたら頭痛いの治ってる」


 灯真は薬をシートから出しながらぽつぽつと話す。少しぶっきらぼうで、静かな声だった。


「俺はこれ効くけど、ひとによって合う合わないはあるし、おまえに効くかもわかんない。飲んでおちつくならそのまま様子見でいいと思うけど、治んないなら病院行こ。黎、手出して」


 病院、という言葉に体がこわばりかけたけれど、続けて灯真に指示を出され、黎はひとまずそれに従った。てのひらの上にシートから出された薬が乗せられる。


「その水と一緒に飲むんだよ。水はぜんぶ飲みな。ごめん、俺着替えてくるから。薬飲んでて」


 灯真は慌ただしくそう言って、寝室へ向かった。黎は手の中の薬をじっと見つめる。

 これまで飼い主が薬を飲んでいるところは見たことがある。でも自分が飲むことになるなんて、想像したこともなかった。黎は緊張しながらも薬を口に含み、水で流しこむ。灯真に言われたとおり、コップの水はぜんぶ飲みほした。また頭痛がして、黎はくちびるを嚙む。これで治るんだろうか。こんな小さい薬を飲んだだけで。なんだかふしぎな気分だった。

 少しして、灯真が寝室から出てきた。


「薬飲めた?」


 黎がうなずくと、灯真の目元がゆるむ。


「頭痛いの、嫌だよなあ。はやく治るといいな」


 灯真は黎の頭にぽんとふれてから、その手でコップを回収した。ざっと水につけたあと、腕時計を見る。そのまま玄関に向かおうとして、「あ」と呟いたのが聞こえた。なぜか踵を返し、食卓の横を通りすぎてテレビのほうまで行く。その動きを目で追っていると、灯真がテレビのリモコンを操作した。テレビの音がふっと消え、部屋がしんと静かになる。


「テレビ、見たいと思ったら自分でつけな」


 灯真に言われ、黎は浅く息を吐く。視線が自然と暗くなったテレビに向いた。消してよかったのか、と黎は思う。これまでずっとつけていたのに、どうして急に消したのだろう。……もしかして、昨日、テレビを見ていないと話したから。


「あっ、そうだ」


 暗い画面をぼうっと眺めていたら、灯真がふいに声を上げた。目線が灯真に引きよせられる。


「今日、帰ってくるの遅くなる。たぶん、けっこう遅いかも。ごめんな」


 申し訳なさそうに謝られ、黎は反射でかぶりを振った。そのせいでまた頭が痛くなって、黎は結んだくちびるに力をこめる。


「まあでも、ちゃんと帰ってくるからさ。遅くなるけど、晩メシ一緒に食おうぜ」


 灯真の右頬にえくぼが浮かぶ。明るい声音で告げられた言葉に、黎はぐっと奥歯を噛みしめた。夕飯も、一緒に食べていいのか。それまで、ここにいてもいいのか。間違えたはずなのに、まだ、追いだされないのか。まだ、捨てられないのか。


「眠けりゃ寝てなさいね。行ってきます」


 ひらりと手を振って、灯真が廊下へ出ていく。静かに閉められた廊下のドアを少し見つめてから、黎はそっと深呼吸をして椅子から立ちあがった。灯真を追い、玄関へ向かう。玄関で靴を履いていた灯真が黎に気づき、ふっと目を細めた。黎の足が廊下の中ほどで止まる。

 行ってらっしゃいと言うために来たはずなのに、喉が閉まっているみたいに苦しくて、なにも出てこない。はくはくとくちびるを震わせていると、靴を履きおえた灯真があらためて黎を見た。


「おいで」


 ちょいちょいと招く手に誘われ、黎は灯真のほうへおそるおそる近寄る。灯真は黎を招いていた手を一度見たあと、その手をこちらへ伸ばし、黎の頭をわしゃりと撫でた。髪がぐちゃぐちゃになるくらい雑だけれど、優しい撫で方だった。てのひらの感触に意識を向けつつ、黎は息を吸いこむ。


「……くが、さん」


 かすれた声で灯真を呼ぶ。灯真は黎をまっすぐ見つめたまま、口元をかすかにゆるませた。


「……いってらっしゃい」


 震える声でなんとか言いきると、灯真の表情がほころんだ。


「ん、行ってきます」


 灯真は黎に向かって一度うなずいたあと、玄関を出ていった。かちゃりと鍵の閉まる音が聞こえ、詰めていた息を吐きだす。

 重いわけではないけれどなんだか足に力が入らなくて、黎はゆっくりとリビングに戻った。少し迷ってから、食卓を通りすぎソファに座る。いつもついていたテレビの画面は真っ暗で、静かだった。

 しばらくその画面を眺めたあと、体を横にする。毛布にくるまりながら、黎はそっと目を閉じた。寝ていてもいいと、灯真が言ってくれたから。

 いつもどおりの灯真を見ていると、あの夜なんてなかったような気がしてくる。灯真はなにも言わない。それなら、このままでもいいんじゃないか。そう思ってしまいそうになって、黎は閉じたまぶたにぎゅっと力をこめた。そんなわけないのに。なかったことになんてできないのに。ちゃんと謝らないと、いけないのに。

 それでも、自分からあの夜にふれるのはこわくてたまらなかった。ふれた瞬間追いだされる。捨てられる。もうここにはいられなくなる。

 それは嫌だ、と黎は思う。なんでそう思うのかは自分でもわからない。でも、ここにいられなくなるのは、嫌だった。はっきりと、嫌だと思った。

 昨日までは、目をつむると暗い寝室で見た灯真の表情ばかりを思いだしていたのに。今は、晩メシ一緒に食おうぜ、と言った灯真の笑顔がまぶたの裏に鮮明に残っていた。

初めてのオリジナル小説です。


楽しんでいただけると嬉しいです。


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