3-4
夕飯を食べおえ、灯真が後片付けを始めても黎は椅子から立ちあがれなかった。今しがた食べたうどんの味も、最後までわからなかった。割れそうなほどの頭痛がおさまる気配もない。
このままではだめだということは理解している。間違えたことを謝らなければ。しかしそのために灯真と向きあうのがこわくてたまらない。昨晩のことにふれた途端、捨てられる。そうとしか考えられない。結局黎はなにもできずなにも言えないまま、じっとダイニングテーブルの天板を見つめつづけた。
シンクから響いていた流水音が止まった。視界の端で灯真がソファのほうへ歩いていく。
「レイ」
その道すがら呼びかけられ、黎はびくりと肩を跳ねさせた。軋むようなぎこちない動きで灯真へ顔を向ける。
「ちょっと話しよ。こっちおいで」
灯真はソファの前のラグに座り、黎を手招いた。困ったように笑う灯真を見て、黎の体がこわばる。
「おいで」
立ちあがることのできない黎を、灯真が再度呼ぶ。終わるんだ、と黎は思った。今から怒られて、追いだされる。捨てられる。こわい。だからといって無視することもできず、黎はよろけるような足取りで灯真のそばへ近寄った。
「ここ座りな」
言いながら、灯真がソファの座面をぽんぽんと叩く。黎はその理由が理解できず、一歩あとずさりながら首を横に振った。灯真がラグに座っているのに、話をすると言われているのに、自分がソファに座るなんてありえない。もう一歩あとずさろうと足を浮かせかけたところで、灯真の眉尻がますます下がった。
「大丈夫だから、おいで」
そう言って、灯真が黎に向かって手を伸ばした。力の入らない手を軽くつかまれ、黎はひゅっと息を詰める。さっきまで洗い物をしていたからか、灯真の手はほんの少し冷たくて、しっとりとしていた。
「おいで」
灯真が空いた手で再度ソファの座面を叩く。灯真は黎が座るのを待っている。これ以上待たせるわけにはいかない。黎は歯の根が合わないような感覚を覚えながら、ようやくソファに座った。
うつむいても下から灯真に見つめられ、黎の目がうろうろと泳ぐ。灯真は眉を下げたままふっと息を吐き、つかんでいた黎の手を離した。
「……っ!」
その手が黎の顔のほうへ伸びてきた瞬間、黎は体をすくませぎゅっと目をつむってしまった。叩かれる、と思った。灯真が息を呑んだ小さな音が鼓膜にふれる。
「……なんもしないよ」
灯真は穏やかな声でそう言って、する、と黎の目の下を指先で撫でた。それ以上はなにもせず手が離れ、黎の口から浅い息がこぼれる。おずおずと目をあけると、灯真は眉を下げ、さっきと同じように困ったように笑っていた。その表情を見て、今度は黎が息を詰める。
叩かれるなんて思ってしまった。今までさわられる瞬間に緊張したことはあっても、そこまで思ったことはなかったのに。灯真はこれまで一度も暴力を振るわなかったのに。それでも、叩かれると、思ってしまった。
心臓がばくばくと暴れている。なにか言わなきゃ。謝らなきゃ。でもどれから謝ればいいんだっけ。頭の中がぐちゃぐちゃで、なにひとつまとまらない。口をはくはくと動かしてはみたものの、喉の奥から音が出てくることはなかった。
灯真がリモコンを取り、テレビを消す。静かになったリビングに、灯真がかすかに息を吸った音が落ちた。
「レイ、今日なにしてた?」
ゆるい笑みとともに訊かれ、黎の肩に力がこもる。
――なんでなにもしてないの、役立たず。
鼓膜の奥で誰かが黎をなじる。言われて当然だ。だってなにもしていない。なんの役にも立てていない。黎は首をぎこちなく横に振る。灯真のくちびるがひらくのが、やたらとスローモーションに見えた。
「そっか。昼寝は? できた?」
「……え」
咎められる。怒られる。そう身構えた黎にかけられたのは、あまりにも予想外の言葉だった。言われたことをうまく理解できず、黎の口から間の抜けた声が転げおちる。
「昼寝だよ。してない?」
灯真はなぜかくつりと喉を震わせた。昼寝、と頭の中でなぞりながら、ぱちぱちと瞳を瞬かせる。なんで昼寝? よくわからないことを訊かれたせいか、灯真の雰囲気が穏やかだからか、黎の体からふっと力が抜ける。そのまま再度首を横に振ると、灯真はそれを見て「そうか」と呟いた。
「昼間って、いつもなにしてんの?」
その雰囲気のまま訊かれ、黎の目が泳ぐ。なにもしていない。正直に告げたら、今度こそ役立たずだと怒られるかも。そう思ったけれど、一度気が抜けてしまったからか、さっきのような誰かの声はもう聞こえてこなかった。あれは誰の声だっけ。意識が遠くに飛ぶのを感じながら、黎はくちびるを薄くひらく。
「……なにも」
「そうなの?」
こぼすように答えた声はかすれていて、自分でもうまく聞きとれなかった。けれど灯真の耳にはちゃんと届いたらしい。灯真がやわい苦笑を浮かべる。
「テレビは? 見てねえの?」
灯真に言われ、黎の目線が一瞬テレビに引きよせられる。今は真っ暗な液晶画面に灯真の背中と自分の姿がぼんやり映りこんでいて、黎はすぐに視線を逸らした。そのまま首を横に振ると、灯真が「え」と声をもらした。
「いつもついてるから、見てんのかと思ってた」
なかば驚いたような声音で灯真が言う。たしかに朝灯真がつけたあとはずっとつけっぱなしだ。消していいのか、消すべきなのか、わからなかったから。黎はふるりと首を横に振ってから口をひらく。
「ついてる、だけ」
かすれた声で答えると、灯真の顔がわずかにくもった。
「なら消せばいい……あー、いや、そうか。俺がつけっぱなしだったから……」
灯真は自分で言って自分で納得したのか、そのまま口元に指の背を当てて黙りこんだ。灯真はなにも気にすることないのに。さっきまでよりも強く首を横に振ると、灯真がゆるく眉を下げた。
「うるさかっただろ、テレビの音。もっとはやく気づけばよかったな」
そう言って、灯真がうなじを掻いた。そんなことないと黎はかぶりを振ろうとして、けれど動けないまま目線を落とした。テレビの音がうるさいと感じたことは、何度もあったから。
視界に入るからただ眺めて過ごすことはたしかにあった。けれど、内容に意識を向けたことはない。見ようとか、聞こうとか思ったこともない。それなのに絶えず流れてくる音は、ずっと黎の体にまとわりついてくるみたいだった。少しの沈黙のあと、灯真がかすかに息をもらす。
「なんもしてなかったら退屈じゃねえ?」
そう言われ、黎はぱちりと瞬きをした。退屈かどうかなんて、考えたことがなかった。退屈ってどういうものなんだろう。それもよくわからない。なにもしていなくても灯真は黎を咎めない。なら、なにも問題はないはずだ。戸惑ったまま考えこんでいると、灯真がなぜか難しい顔をして首をひねった。
「映画見たりとかは? テレビで見れるじゃん」
灯真の言葉を聞き、今度は黎が表情をくもらせた。あのテレビで映画が見れるのは知っている。灯真がいつもそうしているから。だからといって、ひとりでいるときに見るという発想がなかった。黎の表情を見てか、灯真がうかがうような視線を向ける。
「……もしかして、映画、興味なかったりする?」
おそるおそる訊かれ、黎は慌てて大きく首を横に振った。そんなことはない。灯真と映画を見ていると、気づいたらいつもその世界に惹きこまれている。映画が始まれば胸の内側が勝手にそわそわするようにもなった。興味があるとはっきり言えるわけではない。でも、どうでもいいとは思っていない。それをうまく伝えられず、黎の顔が歪む。灯真は黎が無言とはいえ否定したからか、「そっか」と表情をゆるませた。
「映画、あんまり見たことねえ?」
灯真に訊かれ、黎は小さくうなずく。あんまり、どころか一度もない。灯真と一緒に見たのが初めてだ。灯真がふうんと息を吐く。
「映画じゃなくて、アニメとかドラマとかは? そういうのもテレビで見れるよ」
続けて訊かれたものの、黎は反応に困ってしまった。アニメもドラマも、ひとりで見たことがない。映画と同じで、ひとりで見ようと思ったことすらなかった。無言のままの黎を見て、灯真の眉が下がる。
「本読むとかは? 小説でも、漫画でも。うちにいろいろあるよ」
本、という言葉に、今度はぐっと奥歯を噛んでしまった。本も漫画も読んだことがない。最後にまともに文字を読んだのは、まだ小学校に通っていたころだ。漢字もほとんど読めないし、難しい言葉もわからない。そんな自分が本を読めるとは思えなかった。苦い顔の黎を見て、灯真がううんと首をひねる。
「あとは……ゲームは? それもしねえ?」
なんとか絞りだしたみたいな声で訊かれ、黎は表情をくもらせたまま目線を落とす。ゲームだってしたことがない。なにを訊かれたとしても、灯真の求めていそうな返事ができる気がしなかった。灯真がどうしてあれこれ聞いてくるのかもわからない。
黎はなんだか肩身が狭いような気持ちになり、小さく身を縮こまらせる。灯真はなにか考えこんでいるのか、それきり黙ってしまった。リビングに静寂が積もっていく。
「……レイ」
しばらくの沈黙のあと、静かな声で呼びかけられた。黎の肩がひくりと震える。
「おまえの好きなものって、なに? なんかある?」
真面目な顔つきで訊かれ、黎はくちびるを嚙む。好きなものなんてない。知らない。わからない。そんなもの考えようとしたことすらなかった。口をつぐんでいる黎を見て、灯真のまなじりが下がる。
「じゃあ、嫌いなものは? なんかない?」
嫌いなもの。続けて訊かれ、黎は眉を寄せた。きらい、と、いや、は同じなのだろうか、と考える。
いやなことはある。ひどい空腹が続くこと。喉が渇いてもなにも飲めないこと。寒いこと。雨に打たれて濡れること。風呂に入れなくて体がかゆくなること。怒られること。捨てられること。行くところもなく迎える夜明け。それから、ちっともおさまらない、このひどい頭痛。
これは、きらい、なんだろうか。黎が顔をしかめたまま考えていると、灯真が力なく笑ったのが見えた。その表情を見て黎ははっと息を呑む。なんでそんな顔をするんだ。黎が動揺しているあいだに、灯真の表情がにかっとした笑顔に変わった。ぽんぽん、と膝を軽く叩かれ、視線がそちらに向く。
「急にいろいろ聞いて、ごめんな。今日はもう寝ようか」
「え、えっ」
「ほら、体横にしちゃいな」
唐突にうながされ、黎の口から困惑の声がもれる。頭がついていけていない。話は終わったんだろうか。いや、でも、昨日の話はまだしていない。終わっていないはずだ。それなのに、寝てもいいんだろうか。ここで? このまま? 自分は、間違えたのに?
「とりあえず、寝ようぜ。な?」
今度は肩を撫でさすられ、黎はくちびるを薄くひらく。なんで。わからない。でも、灯真が寝ろと言っているのだから、そうしなければ。のたのたとソファで横になると、灯真が口元にかすかな笑みを乗せた。これで合っているということなのだろうか。さっきまで見おろしていた灯真の顔を見あげながら、何度も目を瞬かせる。灯真は黎が戸惑っていることに気づいているはずだ。けれどそれにふれることなく、黎に毛布をかけた。
「今日はもう目閉じな。おまえが寝るまでここにいるから」
言いながら、灯真が黎の目元をてのひらで覆う。反対の手ではぽん、ぽん、と肩を叩かれ、黎は浅く息を吐いた。
今自分は、灯真に寝かしつけられている。わからないことだらけだけれど、それはわかる。でも、なんでそうされているのかはわからない。ほんとうにこのままここで眠っていいということなんだろうか。
なんで。考えているうちに、黎のくちびるがはくりと震える。なんで追いださないんだろう。なんでなにも言わないんだろう。自分は間違えたのに。灯真を怒らせたのに。わからない。わからないけれど、謝らなきゃ。だって、そうしないと、捨てられる。
「もう今日はおしゃべりもおしまいにしよう」
「……っ」
呼びかけようと息を吸いこんだけれど、その息を吐く前に灯真がやわらかな声で黎を制した。行き場のなくなった息をそっと吐く。
謝らなきゃ。はやく。そうしないと、このままじゃ、謝れなくなる。間違えたんだから、ちゃんとしないと、捨てられる。わかっているのに、灯真のてのひらのぬくもりと、肩を叩く優しいリズムに導かれるように、どろりとした眠気が黎を包む。
――くがさん、なんで。おれ、ここにいていいの。
そう聞きたかったのに、もう声を出す気力もなかった。まぶたが重くて、瞬きをしたらそのままくっついてしまった。意識がすうっと遠ざかる。おやすみ、と灯真の声が聞こえたような気がしたけれど、本当に聞こえたのかはもうわからなかった。
初めてのオリジナル小説です。
楽しんでいただけると嬉しいです。
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