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3-3


 鍵のひらく音が聞こえて、膝を抱えていた腕に反射で力がこもった。かすかに身じろいだせいでバランスが崩れ、椅子に乗せていた足がすべる。黎がのろのろと足を抱えなおしているあいだに、廊下から足音が近づいてきた。黎は体をこわばらせたままドアを凝視する。


「……ただいま?」


 ドアがひらき、灯真がうかがうように顔を覗かせる。テレビの画面だけが煌々とひかる暗い部屋。灯真が黎を視界にとらえたのがぼんやりとわかった。抱えている膝に指が食いこむ。


「暗いなあ。電気つけるぞ」


 軽い調子で言いながら、灯真が部屋の電気をつけた。照明のまぶしさに目の奥がまた痛む。灯真はあらためて黎を見て、ゆるく眉を下げた。


「風呂の準備してきたから、沸いたら入っておいで」


 いつもどおり声をかけられ、黎のくちびるがはくりと震える。黎は返事もできずに灯真から目を逸らした。まぶしさから逃げるように顔を伏せ、息を吐く。灯真はそれ以上なにも言わず、寝室に向かったようだった。灯真の立てる物音を聞きながら、抱えた膝に額を当てて体を丸める。

 結局黎は昼のあいだ、この先どうふるまえばいいのかわからないまま、ここにとどまった。灯真が仕事に行ってからも椅子から動けず、昼になったら灯真が用意してくれた昼食を作業のように食べた。いつもよりもかなり長い時間をかけてなんとか空にしたタッパーと箸を下げたあとも、ソファに座る気にはなれずダイニングチェアに戻り、膝を抱えて過ごした。どこか動かすたびに、ずっと力の入っていた体が軋む。

 朝から続く頭痛は時間がたつほど痛みを増していた。寝れば治ると思ったが、のんきに眠る気になんて当然なれなかった。眠れなくても目を閉じていれば体は休まる、と灯真が言っていたことを思いだしたものの、昨晩灯真が黎に向けた表情がまぶたの裏に焼きついていて、長く目を閉じることもできなかった。視界は歪んだままだし、心臓はずっと壊れたみたいにどくどくと脈打っている。体がおかしいのは自覚しているけれど、どうしてこうなっているのかはよくわからないままだった。


「メシ食えた?」


 いつのまにか部屋に戻っていた灯真に話しかけられ、黎の体が揺れる。訊かれているから返事をしなければと思うのに、喉の奥がひりついて吐息すら出てこなかった。黎が黙りこくっているせいか、灯真が静かに息を吐く。沈黙に割りこむように、風呂が沸いたのを知らせる電子音声が部屋に響いた。


「レイ、風呂行ってきな」


 灯真に言われ、黎はくちびるの内側を嚙む。どうして当たり前のように入浴をうながされているのかもわからなかった。それでも、風呂に行けと言われているのだから行かなければ。力の入らない体をなんとか動かして立ちあがる。灯真を見ないようにしながら浴室へ向かおうとしたところで「レイ」と呼びとめられた。黎は視線を床に落としたまま、灯真のほうへ顔を向ける。


「風呂、はやめに上がっておいで。ああ、でも、ゆっくりするなって意味じゃないからな。ちゃんとあったまってこい。でも長風呂はするな。わかった?」


 灯真に言われ、黎はわずかに眉を寄せる。どっちなんだろう。よくわからないままとりあえずうなずくと、灯真が息をもらした音が聞こえた。話はそれで終わったらしく、灯真が口をつぐむ。黎は足を引きずるように歩きながら、あらためて浴室へと向かった。歩くたびに振動で頭痛がひどくなる。

 洗面所で服を脱ぎながら、なんで、と思った。なんで追いださないんだろう。なんで捨てないんだろう。なんで自分は今、風呂に入ろうとしているんだろう。

 がらりと音を立てて浴室のドアをあけると、入浴剤の香りとやわらかな湯気が黎を包んだ。ちゃんとあたたまる。でもすぐあがる。灯真に言われたことを口の中で音にせずつぶやく。灯真がそう言った理由も、黎にはわからなかった。自分が間違えたことだけははっきりとわかるのに、今自分が置かれている状況も、灯真の態度も、なにもかもがわからなかった。




 髪を拭くために持ちあげていた腕をおろし、大きく息を吐く。腕が重い。体がだるい。言われたとおり湯船には浸かったけれど、少しもたたずに上がった。頭が痛くて、それ以上は入っていられなかった。

 髪の先からぽたぽたと垂れる水滴をぼうっと目で追う。ちゃんと乾かさなければ。やらないといけないことはわかっているのに、体がついてこない。

 もうなんだっていいじゃないか、と頭の片隅で思う。自分を大切にしてどうなるんだ。どうせもう捨てられる。捨てられて当然のことをした。それなのに清潔だとか、大切にするだとか、そんなことしてなんの意味があるというんだ。

 着たばかりのスウェットを見て、結んだくちびるに力をこめる。今着ているのは黎がもともと着ていたスウェットだ。灯真も帰ってきたし、黎が戸締まりを気にする必要はない。じゃあ、もう、理由がない。出ていこう。なんの対価も渡せず、なにひとつ返せなかったけれど、このまま出ていこう。追いだされるより、捨てられるより、自分から出ていくほうがきっといい。そっちのほうが、きっと、つらくない。

 黎は手にしていたタオルを洗濯かごへ落とした。洗面所のドアに手を伸ばす。

 けれどあけるよりも先に、とんとん、とノックの音が洗面所に響いた。突然のことに黎の肩が跳ねる。


「レイ? もう上がった?」


 扉越しに話しかけられ息を呑む。なぜ灯真がここに。心臓がばくばくと鳴っている。はやく出ろと言われていたのに、時間をかけすぎたんだろうか。出なきゃ。ここから消えなきゃ。はやく、出ていかなきゃ。じゃないと、捨てられる。

 頭が真っ白のまま洗面所のドアをあけると、ドアの向こうにいた灯真と目が合った。灯真の目が丸くなる。しかしすぐに灯真はゆるく眉を下げた。


「髪濡れてんじゃん。おいで、乾かしたげるよ」


 ほらほら、と急かすように呼ばれ、気づけば黎は洗面台の前で膝立ちになっていた。なんで、と思っているうちに、灯真が手際よくドライヤーを取りだす。


「あったまったか?」


 穏やかに訊かれ、黎は顔をこわばらせながらも顎を引く。灯真はそれを見てやわらかく目を細めた。すぐにドライヤーの熱風が髪に当たり、灯真の指先が黎の頭皮を撫でる。黎は浅い呼吸を繰りかえしながら、抵抗もできず灯真のなすがままになっていた。


「晩メシ、うどんにするわ。風呂から出たら仕上げするから、待ってて」


 風の音の合間を縫うように灯真が言う。黎はそれを訊き、はくりとくちびるを震わせた。瞠った瞳が揺れる。灯真はすでに、黎のぶんの夕食を用意しているらしい。待っていろと言われてしまったら、もう、出ていけない。待つしかない。


「……なんで」


 自分の内側にとどめきれなくなった声が、ぽつりとこぼれおちる。けれどドライヤーの音にかき消されて、自分の耳にさえ届かなかった。当然灯真にも聞こえていなかったのだろう。灯真は気づくことなく黎の髪を乾かしつづけていた。

 灯真はなんで黎の夕飯も用意したんだろう。なんで今黎の髪を乾かしているんだろう。いったいなにを考えているんだろう。わからない。おそろしい。なにもわからなくておそろしい。それなのに髪を乾かす灯真の手つきはいつもと変わらず少し雑で、優しくて、灯真の指先が黎にふれればふれるほど、黎の心臓がぎゅっと痛くなった。


初めてのオリジナル小説です。

楽しんでいただけると嬉しいです。

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