3-2
急に電子音が鳴りひびき、黎の体がびくりと震える。かすかなうなり声を上げた灯真がスマホへ手を伸ばした。黎は息を詰め、固く目を閉じる。アラームが止まってすぐに「ん」と灯真が声をもらした。衣擦れの音。灯真の身じろぎとともにマットレスが揺れる。
灯真が起きた。カーテンが閉まっているからわからないけれど、朝がきてしまったんだ、と黎は身をこわばらせたまま思う。きっとこのまま追いだされる。捨てられる。呼吸がうまくできなくて、浅く、荒く、乱れていく。
「……ふ」
なぜか吐息だけで笑った灯真が、黎の頭を撫でてきた。黎は目を閉じたまま息を呑む。なんで。どうして。大きなてのひらでゆったりと頭を撫でられ、黎の脳内が困惑で埋めつくされる。灯真はしばらく無言で黎の頭を撫でたあと、その動きをふいに止めた。てのひらが離れて、黎は息をもらしかける。
しかしその手が今度は目の下、皮膚の薄いところにふれたせいで、わかりやすく体を揺らしてしまった。黎はいっそう固く目をつむり、くちびるを嚙む。灯真はあいかわらず無言のまま、黎の目の下を指先で軽くさすった。指先が何度か往復したあと、灯真が息をもらす。ため息にも似た、やわらかい息が黎のひたいのあたりにふれた。
その手も離れ、灯真が動いたような気配がした。ベッドが軋み、布団がめくれる。灯真はその布団を直して黎の肩まですっぽり覆ったあと、ぽんぽん、と黎の頭を撫でた。静かな足音が遠ざかる。灯真の気配がなくなってから、黎はようやく大きく息を吐いた。
今自分に起こったことが、なにひとつ理解できなかった。朝になれば終わりだと思っていたのに。どうして灯真は、なにも言わなかったんだろう。どうして頭を撫で、目の下にふれ、布団を直したんだろう。昨晩の灯真は、間違いなく黎に対して怒っていた。怒られて当然のことをした。なのに、どうして。
いつまでもここにいるわけにはいかない。わかっているけれど、この布団から出て灯真と顔を合わせるなんて、できそうになかった。黎は震える指先で布団の端をつかみ、もぐりこむ。
灯真の前でどんな顔をすればいいのかわからない。怒らせた。捨てられる。謝らなければ。謝ってどうなるんだろう。こわい。捨てられる。なんの役にも立たなくて、間違えて、怒らせた。捨てられる。捨てられる。捨てられるはずなのに、どうして、撫でたの。
「レイ? まだ寝てんのか?」
突然声をかけられ、黎の体がびくりと跳ねた。その拍子にスプリングが軋む。
「朝メシできてるよ。いらねえなら別にいいけど、食うなら出ておいで」
灯真がしかたないなとでも言わんばかりの声音で話す。黎はそれを聞いて、は、と浅く息を吐いた。どういうこと? 布団の中で黎は静かに瞠目する。灯真は言うだけ言って、寝室から離れていったらしい。足音が遠ざかる。けれどドアが閉まる音はいつまでたっても聞こえてこなかった。
黎は布団から目元を出し、様子をうかがう。寝室のドアはひらいたままになっていた。テレビの音と灯真の立てる物音がかすかに聞こえてくる。朝の音だ。朝、いつも聞いているのと同じ音。
どういうことだ。どうして黎のぶんまで朝食を用意したのか、灯真の意図がさっぱりとわからない。
のそのそと上体を起こすと、トーストの焼けたにおいとコーヒーの香りが鼻腔をくすぐった。黎はなにひとつ理解できないまま、リビングへつながるドアを見つめる。あけはなたれたドア。まるで出てくるのを待っているみたいだ、と思い、そんな都合のいいことを考えた自分に対して顔を歪めた。
黎はくちびるを嚙み、重い体をなんとか動かしてベッドから降りた。一歩踏みだすごとに、頭にずきんと痛みが走る。目の見え方がいつもと違うのが気になって、頭を軽く振った。しかしそのせいで体がかしぎそうになり、黎はたたらを踏んでしまった。なんだろう。なにかが変だ。それに気づきながらも、とにかく寝室から出る。ダイニングチェアに座っていた灯真が黎に気づき、「お」と声を上げた。
「おはよ」
やわい苦笑とともに声をかけられ、黎は喉が詰まったような感覚になった。どうふるまえばいいのかわからず、黎は視線を下へ落とす。視界の端で灯真がダイニングテーブルに頬杖をついたのが見えた。
「歯磨いたりしておいで。待ってるから。起きたなら一緒に食おうぜ」
穏やかに話しかけられ、黎の心臓がじくりと痛くなる。なんで。どうして。灯真のすべてが理解できないまま、言われたとおりに洗面所へ向かう。大した距離ではないはずなのに、足が重くてしかたなかった。
なんとか洗面所まで来たはいいが、歯を磨く気力が湧いてこない。けれどそんな理由で灯真を待たせるなんてだめだ。はやく、戻らなければ。……でも、どうして待つんだろう。
頭が痛むのをこらえながら、歯を磨き、顔を洗う。鏡を、鏡に映る自分を見たくなくて、ほとんど視界に入れないまま濡れた顔を雑にタオルで拭いた。
よたよたと、けれど自分の中ではせいいっぱい足早に部屋へ戻る。灯真は朝食に手をつけることなく、食卓からテレビを眺めていた。黎を視界に入れ、またゆるく苦笑する。
「食うか」
灯真が軽く座りなおす。ほんとうに座ってもいいんだろうか。いつもの椅子を見てわずかにためらったものの、灯真が待っているのがわかったから椅子を引いた。黎が座ったのを確認し、灯真が両手を合わせる。
「いただきます」
挨拶をして、灯真が朝食に手をつけた。いつもなら黎も同じように挨拶をしていた。けれど、今日は、とてもじゃないがそんな気分になれなかった。喉の奥がずっと苦しくて、声を出す気力がない。
「食わねえの?」
灯真に声をかけられ、黎は浅く息を呑む。食べる気力すらどこにもない。けれど、灯真が用意してくれたのだから、食べなければ。そう思いトーストに手を伸ばそうとして、黎ははつりと瞬きを落とした。
いつもと違い、トーストが半分しかない。灯真の皿を見ると、端が齧られているものの一枚のまま乗っていた。どうしてだろう。今までずっと、灯真と同じ量だったのに。黎の視線に気づいたのか、灯真がちらりとこちらを見る。
「食ったあと足りなかったら言いな」
灯真はそれだけ言って、また食事を再開した。なんで、と黎は思う。なんで減らしたの。わからないことだらけだ。聞けばいいのかもしれないけれど、今灯真になにかを話しかける度胸なんて黎にはなかった。なにか言葉を発すれば、途端にこの時間が終わるような気がする。それが、こわい。
黎は釈然としないままトーストを持ち、ひとくちかじる。もそもそと咀嚼してみたけれど、いつもより飲みこむまでに時間がかかった。それでも灯真が用意してくれたのだから、と朝食を食べすすめる。量こそ少ないもののいつもと変わらない朝食のはずなのに、味がしない。ずっと頭が痛いし、目の見え方も変なままだった。
黎が半分も食べおわらないうちに、灯真は朝食を終えてしまった。ちらりと黎の皿を見たあと、なにも言わずにテレビへ視線を向ける。黎が食べおわるのを待っているのだろうか。いつものように。それならはやく食べないといけない。そうは思うものの、なかなか飲みこめないし、咀嚼をするのも億劫に感じられた。
灯真はそれを見越してトーストを減らしたのだろうか。だとしたら、どうしてわかったのだろうか。なにも言っていないのに。黎にもよくわかっていないのに。
咀嚼の合間にちらりと灯真を見る。灯真はコーヒーのマグ片手に、無言でテレビを眺めつづけていた。こちらを見ることはない。けれど黎を置いて席を立つこともなかった。
いつもより時間をかけてなんとか食べきると、灯真がテレビから黎へ視線を戻した。
「ごちそうさま」
灯真が手を合わせて食後の挨拶をする。黎はそれも言うことができなかった。黎を見た灯真の瞳がゆるやかにたわむ。
「メシ足りた?」
黎は迷ったものの、浅く顎を引いた。満腹かどうかはよくわからない。でも今はもうなにも食べたいとも思えなかった。
空になった皿に視線を落としていると、灯真が立ちあがった。ぐしゃりと黎の頭を撫でたあと、ふたりぶんの皿をまとめてシンクへ持っていく。灯真は手早く後片付けをしてから、黎の前にラップで包まれたおにぎりとタッパー、水のペットボトルに箸――いつもの昼食を置いた。それを見て、は、とかすれた息がもれる。
「昼メシ。食えたら食いな。いらなければ残してもいいから」
灯真はそれだけ言って、寝室へ向かった。黎は瞬きも忘れ、目の前に置かれた昼食をじっと見つめる。
なんで。
なんで当たり前のように、昼食を用意してくれたんだろう。なんでなにも言わないんだろう。昨日灯真を怒らせたのに、なんでなにもなかったような態度でいるんだろう。なんで。どうして。わからない。間違えたのに。なんの役にも立たないと、灯真に対して渡せるものはなにもないと証明してしまったのに。
ねえ、なんで怒らないの。なんで追いださないの。なんで捨てないの。もういらないって言えばいいのに、出ていけって言えばいいのに、なんでなにも言わないの。なんで優しくするの。なんで拾ったの。なんで撫でるの。なんで笑いかけるの。なんで。なんで。なんで。
黎の頭の中で疑問ばかりがぐるぐると巡りつづけている。聞ければいいのに、なにも聞けない。言葉にするのがこわい。灯真がなかったことにするなら、自分もそうしたほうがいいのでは。いや、いいはずがない。間違えたのだから、謝らないと。でも昨日のことを口にしたら、今度こそ追いだされるかも。捨てられるかも。
どうすればいいのかなにひとつ決められずに昼食を見つめているうちに、灯真が寝室から出てきた。黎は顔を上げられず、テーブルの下で拳を握る。
「んじゃ行ってきます」
灯真は通りすがりに黎の頭をぽんと撫でてから廊下へと向かった。いつもなら、昨日までなら、その背中を追いかけて、玄関で靴を履いている灯真に行ってらっしゃいと声をかけて見送っていた。けれど今日は、立ちあがることすらできなかった。なにも言えない。おはようも、いただきますも、ごちそうさまも、いってらっしゃいも、ぜんぶ、ぜんぶ、喉の奥に詰まったまま出てこない。こうしているあいだに、灯真が行ってしまう。わかっているのに、体が動かない。
廊下のドアを茫然と見つめていると、ふいにそのドアがひらき、灯真がひょこりと顔を覗かせた。目が合ってしまい、黎の肩が大きく跳ねる。灯真はそれを見てふっと眉を下げた。
「行くからな」
灯真は黎をまっすぐに見てそう言ったあと、ふたたびドアの向こうへ消えた。ほどなくして、玄関から鍵の閉まった音まで聞こえてくる。行ったんだ、と黎は頭の隅で思う。もうそこに灯真はいない。わかっていたけれど、灯真が出ていった玄関のほうを見つめつづけた。
「……なんで」
かすれた声が喉の奥から剥がれるように落ちる。灯真がなにを考えているのか、ひとつとしてわからなかった。
追いださないの。捨てないの。ここにいていいの。いていいはずない。灯真がいないうちに出ていくべきなのでは。でも昼食がある。灯真が黎のために用意してくれた昼食。せっかく用意してくれたのだから、食べるべきだ。それを食べたら出ていく? 灯真に捨てられる前に、自分から出ていくべき? でも、だめだ、鍵がない。出かけるときは鍵を閉めていけと灯真が以前言っていた。けれどどこにも行かないからいらないと、自分で言ったのだ。鍵なんて大切なものを、自分の前に置かないでほしかったから。どこにあるのかも知らない。じゃあ、だめだ。鍵をかけられない。ここにいるしかない。鍵もないし、昼食はあるし、そういえば、今自分が着ているのは灯真に借りているスウェットだ。じゃあ、やっぱりだめだ。ここにいるしかない。ここで、灯真を待つしかない。
のろのろとテーブルへ視線を戻す。いつものように、当たり前のように用意された昼食を見て、黎は顔を歪めた。灯真がなにを考えているのか、わからない。理解ができない。なんで、が次から次へとあふれてくる。
目の奥がずきずきと痛い。見え方もずっとおかしい。黎は大きく息を吐き、両手で目元を強く押さえた。
初めてのオリジナル小説です。
楽しんでいただけると嬉しいです。
感想・コメントなどいただけると励みになります。




