3-1
「へえ」
お互いに寝支度を済ませ、すっかり定位置となったソファとその足元で過ごしていたら、灯真がふいに声をもらした。どうかしたのかと灯真を見る。灯真は黎の視線に気づき、スマホから顔を上げて苦笑いした。
「あ、いや、ごめん。高校んときクラス同じだった子が結婚するんだってさ。それ見て声出ただけ」
灯真はどことなく恥ずかしそうにうなじを掻きながらそう言って、またスマホへ視線を戻した。黎は灯真のわずかにゆるんだ目元をじっと見つめる。結婚。その言葉を反芻しているうちに、視線は自然と灯真の指先へ移っていた。きれいに整えられた、灯真の爪へ。
「……久我さんは」
「んあ? なに?」
「いや……」
灯真の爪を見つめているうちにぽろりと呼びかけてしまい、黎は目を泳がせる。灯真はふしぎそうに小首をかしげて黎を見ていた。黎は目をそらしたままそっと息を吸いこむ。
「……久我さんは、結婚するの」
「え、俺?」
黎がおそるおそる訊くと、灯真がどこか気の抜けた声をもらした。それからすぐにふはりと表情を崩す。
「しないよ。そんな相手いねえもん」
くつくつと笑いながら返された答えに、黎の肩から力が抜けかける。
「そもそも俺ゲイだし。結婚とは無縁よ」
「……え」
けれど続けて告げられた言葉に、黎は思わず声をこぼしてしまった。どっ、と心臓が大きく鳴る。
「くが、さん、……ゲイなの?」
口にした瞬間、灯真の表情がさっとこわばったように見えた。すぐに笑みを浮かべたが、どこかぎこちない。それには気づけたけれど、その理由を推しはかることまではできなかった。灯真の言葉で、思考がずっと止まっている。
「……あー、うん。そうね」
わずかな沈黙のあと、灯真が肯定する。黎はごくりと唾を飲みこんだ。
「久我さん、男のひとと、セックスするの?」
「まあ、うん、そう。そうね、うん」
灯真のたどたどしい返事を聞き、黎は目の前にぱっとひかりが射したような気分になった。灯真のセックスの相手は男。つまり自分も、その対象になれる。
お互い向かいあいながらも目は合わないまま、テレビの音が虚しく響く。けれどそれがよく聞こえないくらい、黎の鼓膜の奥では心臓の鼓動がやかましく鳴りつづけていた。灯真から告げられた言葉が頭の中でぐるぐると巡っている。
「……なんか、ごめんな。変な話して」
沈黙をやぶるように灯真が呟く。は、と黎が浅く息を吐いたのと同時に、リモコンを取った灯真がテレビの電源を消した。途端に部屋が静かになり、鼓動の音がいっそうやかましく響く。
「俺がゲイだからって、おまえに手出したりしねえから。ごめん」
こちらを見ることなく、灯真がぽつりとこぼす。灯真の言葉がうまく入ってこない。言われたことはわかるのに、頭がついていけていない。
「寝るわ。おやすみ。おまえもはやく寝ろよ」
灯真はそう言って立ちあがった。黎の反応を待つことなくリビングの電気を消し、寝室へ入る。黎はその場から動くこともできないまま、寝室のドアを見つめていた。頭の中でいろんな言葉がはじけては、ぐちゃぐちゃになってまざっていく。
灯真に拾われてからだいたい三ヶ月。灯真はあいかわらず黎からなにも受けとろうとしないし、黎になにも求めない。役割を与えられない黎にできることなどなにもなかった。灯真はやりたいならやればいいけどそうでないならやらなくていいというスタンスを崩そうとしないし、そもそも黎の手伝いを必要としていない。料理も、掃除も、洗濯も、ぜんぶひとりでできている。だから、黎は必要ない。
でも、セックスは。
セックスは、最低でもふたりいないとできない。
それでなら、灯真に対価を渡すことができるのでは。これまでの飼い主たちと同じように。真っ暗な部屋の中で、黎は自分の口角がいびつに上がるのを感じた。
自分はなにもできない。でも、セックスはできる。最初の飼い主に教えられてからずっとやってきた。どの飼い主からも、それだけは褒められた。世話してもらう代わりにセックスという対価を渡してきた。むしろ、それ以外を知らない。
灯真は男同士ではしないひとなのだと思っていた。だから黎にセックスを求めないのだ、と。男同士でするひととしないひとがいるのは知っている。以前男性の飼い主からそう教えられた。
でも、灯真は男とセックスするらしい。それなら、灯真にだって同じように対価を渡せるのでは。やっと、やっと対価を渡せるのでは。そうしたら、自分はまだ、ここにいてもいいのでは。たくさん世話をしてもらったのだから、対価を渡さなければ。ここにいるために、灯真と、セックスしなければ。灯真に快楽を渡さなければ。そうしなければ捨てられる。これまでのように。なにもできない自分は、ここにはいられない。いてはいけない。捨てられたく、ない。
黎はよろよろと立ちあがり、灯真の眠る寝室へと足を向けた。この家で唯一、黎が入ったことのない場所。その扉をひらく。小さな音が鳴って、黎の心臓がまた大きく跳ねた。震えそうになる足を踏みだし、寝室に入る。
寝室の中も真っ暗だった。物音ひとつしない。うっすらと浮かぶ輪郭だけを頼りにベッドへと向かう。すぐそばまで近づいても、灯真は身じろぎひとつせず眠っていた。
ベッドサイドに立ち、じっと灯真を見おろす。なにかがやけに耳につくと思ったら、自分自身の呼吸の音だった。息が荒い。吸っても吸っても足りない気がしてまた吸ってしまう。さっきまで鼓動の音がうるさく響いていた耳の中は、今はぐわんぐわんとよくわからないくぐもった音が鳴っていた。その音と自分の呼吸音がまざる。
黎は一度大きく息を吐いてから、ベッドに乗りあげた。ぎし、とスプリングが軋む。それに構わず掛け布団の上から灯真に馬乗りになると、耳の奥で鳴る音がいっそう強くなった気がした。なんだこの音。わからない。うるさい。それよりも、このひとと、セックスしなければ。黎はうまく力の入らない手を灯真へ伸ばす。
「どうした、レイ」
「……っ!」
けれどその指先がふれるよりも先に、灯真の声が静かに響いた。体がびくつき、息が止まる。少しずつ暗さに慣れてきた視界の中で、灯真が薄目をあけて黎を見ていた。
「なんかあった? 寝れない?」
寝ていたからか、灯真の声がかすれている。言わなければ。黎は顔に笑みを浮かべる。しかし頬が引きつっているのは自分でもわかった。
「く、がさん」
「なに」
「くがさん、おれと、セックスしよ」
「…………は?」
暗がりの中、灯真の目がゆっくりと大きくなる。黎はへたな笑顔のまま言葉を続けた。
「くがさん、ねえ、おれとセックスしよ」
「いや、……は? なに言ってんの、おまえ」
「しよ、ねえ、おれ、くがさんと」
セックスしたい。
そう言いかけて、頭の中でふいに灯真の声が響いた。やりたければやればいいけど、そうじゃないならやらなくていい、という声が。あれ、と黎は思う。
――俺、久我さんとセックスしたかったんだっけ。こんなこと、したかったんだっけ。
「どうした、急になに言いだすんだよ、おまえ」
灯真の声で黎ははっと意識を戻す。あれ、あれ、と頭の中がぐちゃぐちゃで、けれど黎は笑顔のまま灯真の布団を両手でつかんだ。震える指先が布地をひっかく。
「くがさん、セックスしよ」
「……レイ」
「おれ、セックスうまいっていわれるんだ」
「なあ、話聞けって」
「だから、しようよ。おれ、ちゃんとできるよ」
「レイ、おい、レイってば」
「くがさん、おとこのひととセックスするんでしょ、じゃあ、おれと」
「……っ、んだよ、それ!」
がん、と胸元に痛みが走って、黎は息を呑んだ。黎の胸ぐらをつかんだ灯真が、上体を起こして黎を睨む。
「ふざけんなよ、てめえ」
低い声で灯真がうなる。初めて聞く声。薄くひらいたままの黎のくちびるがはくりと震える。
「なに、男だったら見境ねえとでも思ったか? 誰とでも寝ると思ったか?」
ちがう、と黎は思う。思ったけれど、それを音にはできなかった。口の中が渇いて、喉がひりついて、耳の奥でぐわんぐわんとなにかが鳴って。くちびるは震えるばかりで、なにも言えない。灯真が荒い舌打ちをした。
「しねえよ、絶対しねえ。安く見やがって。ふざけんな」
「ち、がう」
「はっ」
違う。違う。そんな、灯真を安く見たつもりなんてなかった。今度こそ絞りだせた声を聞いて、灯真がくちびるを歪めて笑う。
「じゃあなんだよ。なにが違うって? 言ってみろよ」
胸ぐらをつかむ灯真の手に力がこもる。鼻先がふれそうなほど近い距離で、目の前の灯真は怒っていて、黎は肩で息をしながら、ちがう、とふたたび口にした。
「ちがう、おれ、おれ、それしかできないから、おれ」
自分がなにを話しているのかわからない。灯真の眉がぴくりと動く。こんなことがしたかったんだっけ。頭の中で自分のものじゃないみたいな自分の声が響く。でも、これしかないから、これしか、わからないから。浅くはやい呼吸を繰りかえしながら、黎はつかんだままだった布団を手繰る。
「おれ、わかんない、これしか、セックスしかわかんないから、おれ、それしかできないから、おれ、ねえ、くがさん、おれと、おれとセックスしようよ、おれには、それしかないから、ねえ、くがさん、おれ、ちがう、おれ、おれは」
「……レイ」
静かな声で呼ばれ、黎の体がふたたび跳ねる。灯真は大きなため息をこぼすと同時に、胸ぐらをつかんでいた手を離した。そのままがしがしと自分の頭を掻く。
「しねえよ、おまえとは」
「……な、んで」
あらためて拒絶され、黎の顔がぐしゃりと歪む。
「ねえ、なんで、しようよ、くがさん」
「しねえ」
「なんで、おれ、できるよ、くがさん」
「しねえって」
「おれ、うまいって」
「知るかよ、そんなもん」
「そうだ、ねえ、おれ、おれのなか、いいって、きもちいいっていわれたことあるから」
「は?」
黎は以前の飼い主の言葉を思いだし、笑ってみせる。けれど灯真はそれを聞いた直後、あからさまに顔をしかめた。また舌打ちが響く。
「……しねえ。したくねえ。できっかよ、そんなこと」
静かに、けれど吐きすてるように言われ、黎の喉からひゅっと音がした。したくないって、それじゃあ、どうすればいいんだろう。セックスしかできないのに、それしかわからないのに、それさえも拒絶されたら、もうなにもできない。なにもできなければ、なにも渡せなければ、ここにいられない。力なくうなだれると、灯真がまた大きなため息をついた。
「だいたい、おまえ、俺とヤりてえの?」
呆れた声で訊かれ、黎はうなだれたまま体をこわばらせる。こんなことしたかったんだっけ。わからない。黎はぐしゃりと布団をつかむ。灯真も口をつぐんでしまい、寝室がしんと静まりかえった。息が苦しい。うまく吸えない。耳の奥がぐわんぐわんと鳴っていて、なんだかひどく寒かった。
長い沈黙のあと、また灯真が重く息を吐く。
「レイ、どきな。こっちこい」
そう言って、灯真が黎の肩をぐっとつかんだ。そのままベッドに寝かされ、黎の目が瞬く。
「とりあえず、今日はここでもう寝ろ」
灯真はぶっきらぼうに言ったあと、黎の隣に寝転がった。戸惑っているうちに布団がかけられる。灯真は布団の位置を直してから、無言で黎の頭を撫でた。いつもより雑で、いつものように、優しい手つき。なんで、と黎は思う。なにもできなかったのに、なんで。けれど、これも言葉にはできなかった。喉が詰まったみたいに苦しい。
黎と向かいあうように横向きになった灯真が、布団の上から黎の背中に片腕をまわす。とん、とん、と背中を叩かれ、黎は瞠目したまま息を詰めた。
「おまえ、寝れてんの?」
静かな声で灯真が訊く。黎はそれに肯定も否定も返せなかった。寝れているかどうかなんて、よくわからない。今そんなことを考えるほどの余裕なんて黎にはなかった。黎が無言でいたからか、灯真が鼻から小さく息をもらす。
「寝れなくても、目閉じて横になってれば、体休まるから。今日はもう目閉じて、そのまま寝ろ。おやすみ」
灯真が寝返りを打ち、黎に背を向ける。おやすみと言われたけれど、おやすみとは返せなかった。
灯真に目を閉じろと言われたのだから、それに従わなければいけないのに、黎は目をあけたままじっと暗闇を見つめつづけた。ぐわんぐわんと耳の奥でなにかが鳴りつづけている。うるさいのに、消えない。
こんなことがしたかったんだっけ。ぐちゃぐちゃの頭の中で、黎は思う。
セックスしか渡せるものがないから、それしかできないから、それ以外わからないから、灯真に渡そうとしたけれど、灯真はしたくないらしい。じゃあもうなにも渡せない。なにもできない。灯真を怒らせて、傷つけて、なにをしているんだろう。
自分は、間違えたのだ。なにもできないのに、そのうえ間違えたのだ。
それなのに、どうして今、灯真と同じ布団に入っているのだろう。どうして布団を直して、頭を撫でたのだろう。
捨てられるべきだ。だって自分は間違えたのだから。それなのに、どうして。そこまで考えて、出ていくなら朝になってからにしな、と昔灯真に言われたことを思いだした。ああ、と黎は理解する。灯真は優しいから、朝になるまでここにいさせてくれているだけなんだ。朝になれば捨てられる。追いだされる。もうここにはいられない。間違えたのだから。なんの役にも立たないのに、なんにもできないのに、捨てられたくなかっただけなのに、間違えたのだから。
朝が来なければいい、と黎は久しぶりに思った。このまま朝が来なければいい。いっそ今ここで全部終わってしまえばいい。朝になったら、捨てられる。灯真の静かな呼吸の音を聞きながら、黎は一睡もできずに夜明けに怯えて過ごした。
初めてのオリジナル小説です。
楽しんでいただけると嬉しいです。
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