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風呂から上がり、いつものようにタオルで髪を拭いただけの状態で洗面所を出ようとして、は、と黎は足を止めた。ドライヤーを使ったほうがいいというチバの言葉を思いだした。
しかし洗面所の中を見まわしても、それらしきものはない。黎はわずかな逡巡のあと、洗面所を出て灯真のもとへ向かった。
「……久我さん」
「ん、上がった?」
キッチンで夕飯を作っていた灯真に声をかける。灯真は手を止めてこちらを見た。
「あの、……ドライヤー、って、あるの」
つっかえながらもなんとか言うと、灯真の目がぱちりと丸くなった。それからすぐに目元がゆるむ。
「あるよ」
灯真は短く答えてから、手を洗った。タオルで拭いたあと、あらためて黎を見る。
「おいで、場所教えるから」
洗面所へ向かう灯真についていく。灯真は洗面台の下の棚をあけ、中からドライヤーを取りだした。こんなところにあったのか、と黎はわずかに目を瞠る。
「いつもこの下に片付けてる。コンセントはこれ使いな。そんで、このスイッチをいちばん上に入れれば電源つくから」
灯真は黎に見せながら、ドライヤーについて説明してくれた。黎はそれを聞きもらさないようにしながら、灯真の動きを目線で追う。
「……ありがと、久我さん」
黎が言うと、灯真がどこかいたずらっぽく口角を上げた。
「レイ、ここおいで。膝立ちになりな」
灯真が自分と洗面台のあいだを指で示す。なんで、とは思いつつも、言われたとおり膝立ちになった。途端、ぶおん、とドライヤーが鳴る。
「乾かしたげる。初回サービスな。千葉さんみたいにうまくはねえけど」
そう言って、灯真は黎の髪にドライヤーの熱風を当てた。ばさばさと髪をかきわける灯真の指先が、黎の頭皮を何度もかすめていく。タオルで拭くのとは違う。直に指先がふれている。目線が定まらず、あちこちに揺れてしまう。
「自分でさわって、湿ってるとか冷たいとか感じなくなるくらいまでしっかり乾かしな」
大きな風音の隙間を縫うように、灯真の声が黎に届いた。黎はあまり頭を動かさないよう、顎を引いた。
「おまえの髪、ほんとにさらさらだよな。トリートメントしたし、よけいにか?」
手を止めることなく、灯真が楽しそうに言う。黎はされるがままになりながら、洗面台のふちを軽くつかんだ。指先にくっと力がこもる。
これまで髪を乾かしてもらったことはある。飼い主にも、美容師にも、……母にも。うまいとか、へたとか、そういうことは黎にはよくわからない。が、灯真の手つきがチバよりもやや雑なことはわかる。勢いが強いからかときどき指先が頭をはじいて少し痛い。それなのになぜか、チバよりも心地いい気がした。
「明日からは自分でがんばれよ」
ドライヤーを当てたまま灯真が言う。それを聞いて、そうか、と黎は気がついた。明日から自分でドライヤーを使って乾かすのか。もう灯真に頭を拭いてもらうことはないのか。それなら聞かなければよかった、と思って、そう思ったことに自分で少しだけ驚いた。自分で自分を大切にすること、清潔に保つこと。それをやったほうがいいのかもと思って、聞いたはずなのに。
黎は内心の動揺を隠すように、そっと目を閉じる。暗くなった視界で、ドライヤーの音と灯真の指先だけがくっきりとしていた。
灯真に言われたとおり、これからは自分でドライヤーを使う。黎はそう思っていたのに、なぜか灯真はあれからも黎の髪を乾かしてくれていた。今日も灯真に髪を乾かされながら、どうして、と黎は思う。
毎日ではない。黎から頼むこともない。けれどときどき、黎がドライヤーを使いはじめて少ししてから、灯真がひょこりと洗面所に現れるのだ。そして「乾かしたげる」と楽しげに言う。毎回疑問には思っている。黎が自分で乾かせることは、灯真もわかっているはずだ。とはいえ断る理由も見つからなくて、結局黎は灯真のなすがままになっていた。
灯真と美容院に行ってから、自分でだったり、灯真にやってもらったりはするけれど、毎日ドライヤーを使って髪を乾かしている。爪を切る理由もまだ腑に落ちたわけではないけれど、灯真に切ってもらってからは白いところが伸びてきたら切るようにしている。これも、黎が自分で切ったあと、なぜか灯真がやすりをかけてくれるのだが。それについても毎回、なんで、と思っている。思っているだけで、聞いてはいない。聞いたら答えがもらえる代わりになにかが変わってしまいそうだから、聞けずにいる。
自分を大切にすること。清潔にすること。灯真がそうする理由は、自分の体とは一生つきあっていくからだ、と言っていた。自分を大事にしてどうなるの。その先になにがあるの。そうしたからってなんになるの。今も疑問は残ったままだけれど、いつかなにかがわかるのかもしれない、と思って黎は続けている。髪を切ってもらったとき、ひらけた視界で胸がすくような思いをした理由がわかるかもしれない、と。
一生つきあっていく自分の体を、自分で大切にして、清潔に保つこと。それが、髪を乾かしたり、短くしたり、爪を切る理由なんだとしたら、灯真の行動の理由はなんだろう、と、黎はずっと思っている。
黎が自分で自分を清潔に保つならわかる。けれど、灯真は黎が清潔でいられるよう手助けをしてくれている。やすりはともかく、ドライヤーは自分でできるのに。
灯真の言うとおり、そういうことが自分自身を大切にする行動なのだとしたら、どうして灯真は、黎を大切にするような行動を取るのだろう。他のことだってそうだ。黎のぶんの食事を用意するのも、黎の衣服を洗濯するのも、ぜんぶ、ぜんぶ。さっぱりわからない。わからないまま、黎は日々灯真に与えられつづけている。ほどこされている、と思う。
灯真はあいかわらず、黎からなにも受けとろうとしない。家事を代わりにやると言っても、やりたいならやるといいけど、そうじゃないならいい、と言われる。そう言われてしまうと、やりたいのかどうかはわからなくて、黎はいつも答えに窮してしまった。
なにかを返さなければ。対価を渡さなければ。黎の中でじくじくと焦りばかりが大きくなっていく。しかし灯真が黎になにかを求めることはない。たまに頼みごとはしてもらえるけれど、すぐに終わる簡単なことばかりだから、それで釣り合いが取れているなんて到底思えない。それなのに灯真は黎の世話をし、さらに黎の体を大切にするような行動を取る。
なんで、と黎は思う。思うのに聞けないまま、黎は今も灯真に髪を乾かされている。
灯真がなにを考えているのかなにひとつわからないまま、灯真に拾われた冬が終わって、季節は春になろうとしていた。
初めてのオリジナル小説です。
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