2-3
「こんちわー」
軽い挨拶とともにドアをあけた灯真のうしろで、黎は眉を寄せてうつむいた。受付カウンターにいた男性が、灯真を見て気さくに片手をあげる。
灯真から髪を切るために美容院へ行こうと打診されてから、黎は灯真へ何度も行かないと告げた。もうすでに食費などで灯真に負担をかけている身だ。そのうえで髪を切るためだけにまた金をかけてもらうのはどうしても気が引けた。
しかし、黎がどれだけ拒んでも灯真は受けいれてはくれなかった。黎が灯真に対してここまで意思表示をしたのも初めてだったし、灯真が黎の要望を突っぱねつづけたのも初めてだった。
「金以外の理由があるなら教えて。金が理由なら気にしなくていい」
灯真はそれしか言わないし、黎にはお金がかかるから以外の理由がない。灯真がどうしてここまでかたくななのかはわからないが、そう言われてしまえば黎は口をつぐむしかなかった。
「はさみ、貸して。髪、自分で切れるから」
なにを言っても聞きいれてくれないのなら、とそう頼んでもみた。苦肉の策だった。けれどそれを聞いた灯真は黎の申し出にうなずくことなく、呆れたみたいな笑みを向けてきた。
「自分で切ったことあんの?」
灯真に訊かれ、黎は言葉に詰まった。そんな経験はない。けれど、この伸びた前髪がよくないというのなら、短くすればそれでいいのではと黎は思っていた。ただ切るだけならきっと自分にもできる、と。
灯真は黎の様子を見てなにかを察したのか、ますます眉を下げて黎の頭を撫でた。
「失敗してからじゃ取りかえしつかないかもしんねえんだし、ちゃんとプロに切ってもらいな。おまえの散髪代くらい負担になんねえよ」
嚙んで含めるように言いきかせられ、黎はそれ以上なにも言えなくなってしまった。でも、と口の中だけでつぶやき、くちびるを固く結ぶ。
結局灯真の意思を変えることはできず、あっという間に美容院の予約の日を迎えてしまった。灯真の家の最寄り駅から電車で二駅。電車に乗ったのもかなり久しぶりのことだった。乗っているあいだずっとおちつかなくて、灯真の貸してくれたコートの中で身を縮こまらせていた。
「その子が、言ってたお連れさん?」
「そうそう」
話の矛先が自分へ向いたことに気づき、黎の肩がびくりと跳ねる。前髪の隙間からおずおずと様子をうかがうと、カウンターの男性が柔和にほほえんだ。
「初めての方には基本的にカウンセリングから始めるんだけど……苦手かな、そういうの」
男性の言葉に、黎はきゅっと眉を寄せた。カウンセリング。以前飼い主のひとりに連れていかれた美容院でも、似たようなことをされた覚えがある。とはいえあのときは彼女の言うがままにすべてを決めてもらっただけで、黎がなにか意思表示をした記憶はない。どうすればいいのだろう。隣にいる灯真をちらりと見る。黎の視線に気づいた灯真が、どことなく困ったように目を細めた。
「なんか言っておきたいこととか、してほしい髪型とかある?」
灯真に訊かれ、黎はためらうことなく首を横に振った。それを見て、灯真が男性に視線を戻す。
「だそうです。千葉さんにおまかせしていいっすかね」
それを聞き、男性が穏やかにうなずいた。どうぞこちらに、とうながされ、みっつ並んだ椅子のいちばん奥まった席へ通される。灯真は黎の隣、真ん中の席で別の男性美容師に切ってもらうようだった。先ほどの男性が移動式の椅子を持ってきて、黎の後ろに座る。鏡越しに目が合い、黎は唾を飲んだ。
「今日担当させていただきます、千葉と言います。よろしくお願いします。久我くんから聞いたけど、レイくんとお呼びしても?」
チバ、と名乗った美容師に訊かれ、黎は緊張しながらもうなずいた。鏡の中でチバが目元をゆるませる。
「久我くんからはカットとトリートメントということで聞いています。さっきおまかせでって久我くんが言っていたけど、レイくんはそれでいいですか?」
丁寧な態度であらためて確認され、黎はそれにも小さくうなずいた。黎の首肯を見てから、チバが黎の髪にふれる。
「髪質やわらかいし、癖もないし、そうですね……あんまり短くしすぎず、手入れもしやすいナチュラルなマッシュがいいかな」
チバはそう言って、カウンターに置いてあったタブレットを手に取った。しばらく操作したあと、黎に画面を見せる。そこには男性の髪型の写真がびっしりと載せられていた。
「これとか、こんな感じ」
チバが画像をいくつか拡大する。それらを見ながら、少し前の飼い主でこういう髪型が好きなひとがいたっけ、とぼんやり思いだしていた。
「どうかな?」
静かな声で確認され、黎はあまり考えることなくうなずいた。それを見て、チバがタブレットをカウンターに置く。
「じゃあ切っていきますね。そのタブレットで雑誌とか読めるんで、自由に見てください」
そう言って、チバがカットの準備を始めた。ずいぶんと久しぶりにカットクロスへ腕を通しながら、カウンターに置かれたタブレットを見る。
これで雑誌が読めると言われても、スマホすら持ったことない黎には操作の方法もよくわからなかった。雑誌が読みたいわけでもない。灯真はどうしているのだろう。横目でうかがうと、灯真も同じようにクロスを着せられ、手元のタブレットに視線を落としていた。黎はふたたび自分の前にあるタブレットを見る。
よくわからないものをさわるのは、少しこわい。なにかを間違えてしまうかもしれないから。タブレットのような高価なものならなおさらだった。でもそうすると、なにをしていればいいかわからない。黎はくちびるを結んだまま、鏡に映る自分の胸元をじっと見ていた。
しゃき、と音が鳴り、髪が切られていく。美容院の中はかすかに音楽が流れるだけで、とても静かだった。チバは話しかけてこないし、灯真と灯真を担当している美容師もときおり言葉を交わしているもののほとんど無言だった。こういう静かな美容院もあるのか、と黎は思う。これまで飼い主に連れてこられた美容院では、飼い主が終始黎に話しかけてくるか、そうでなければ美容師が話しかけてくるかだったから。昔はこういうときでも当たり障りのない会話ができていたはずだけれど、今はもうできそうにないな、と黎はくちびるの内側を嚙む。
前の飼い主に飼われてずいぶんたったころ、与えられた役割どおりのふるまい方がわからなくなった。なにを話せばいいのかわからない。どんな表情でいればいいかわからない。それでもなんとかごまかしてはいたが、そのうち笑うことも、セックスさえもできなくなった。最後のほうは、最低限の挨拶や会話にもならないような受け答えをするので精いっぱいだった。どうしてそうなったのかはもう思いだせない。少しずつ、少しずつ言葉が出てこなくなって、気づいたらまともに話せなくなっていた。
前の飼い主は黎がそうなってもしばらくは家に置いてくれていたけれど、元に戻れない黎に愛想を尽かしたのだろう。当然だ、と思う。世話してもらっているのに対価を渡せなかったんだから。
黎はふたたび横目で灯真を見る。灯真は黎に役割を与えてはくれない。そのかわり、黎がなにも話せなくてもそれについてなにか言ってくることもなかった。
なんでもいいから役割がほしい。そう思うものの、今それを与えられたとして、自分は、うまくその役割をこなせるんだろうか。うまくできる自分が想像できなくて、黎は目の前の鏡へ視線を戻す。鏡の中の自分と目が合って、あ、と黎は思った。前髪が目にかかっていない。自分自身の目をまともに見るのは、なんだか久しぶりな気がした。
「じゃあ一度シャンプーとトリートメントして、そのあとまた整えますね」
声をかけられ、黎は意識を戻しうなずいた。丁寧な手つきでクロスを外したチバが、黎をシャンプー台へと誘導する。椅子が倒れてすぐ顔に布がかけられた。視界が遮られ、黎はかすかに息をもらす。自分で思っていた以上に緊張していたのかもしれない。
「それじゃあお湯かけますね。熱くないですか?」
チバの確認にうなずこうとして、ぎりぎりで踏みとどまった。今頭を動かしたら、迷惑がかかるかもしれない。
「……だい、じょうぶです」
「はい、では洗いますね」
かすれた声で返事をすると、チバが黎の頭を洗いはじめた。頭皮にチバの指先がふれる。閉じたまぶたの裏では、どうしてか灯真の顔が思いうかんでいた。
灯真は今でも毎晩、風呂上がりの黎の頭をタオルで拭いてくれる。朝起きてリビングに入ってきていちばん最初に黎の頭を撫でるのも変わらない。なぜこんなことをするのだろう、と黎は疑問に思いながらも、ずっと聞けずにいた。
頭を洗うチバの手つきは優しく、やわらかく、不快なことがなにもない。すごいな、と思う。けれど黎は頭の片隅で、灯真の少し力の強い指先のことを考えていた。
トリートメントまで終わってから、チバに声をかけられ元の椅子に戻る。ふたたびクロスをつけたあと、ドライヤーの温風が髪に当てられた。
「普段、ドライヤー使ってますか?」
風量を弱めたチバに訊かれ、黎は首を小さく横に振った。飼い主に使ってもらったことはあるが自分で使ったことはないし、灯真の家に来てからは一度も使っていない。鏡の中のチバが、やんわりと眉を下げる。
「できればタオルドライだけじゃなくて、ちゃんとドライヤーも当てたほうがいいですね。髪が傷みにくくなるのもそうだけど、、頭皮がより清潔に保たれますから」
チバの口から出てきた、清潔、という言葉に、黎ははっと息を呑んだ。
「男性だとドライヤー使わないひとも多いですけど、若いときから習慣つけとくと楽ですよ。僕みたいなおじさんになると、ほら、加齢臭とかありますからね」
「おじさんって。千葉さんまだ若いじゃないすか」
チバの話に、灯真が横槍を入れる。チバは髪を乾かす手を止めずに笑った。
「レイくんや久我くんに比べれば、じゅうぶんおじさんだよ」
「レイと比べられたら、俺もおじさんですよ。ひとまわりくらい違いますし」
「え、久我くん今いくつだっけ」
「三十二。レイは十九ですよ」
「えっ。レイくん、そんなに若いんだ。僕の半分もいってないじゃん」
乾かしおわったのか、ドライヤーを止めたチバが大げさに驚く。黎はどんな顔をすればいいのかわからず、視線をわずかに落とした。
「そうかあ、十九かあ。いいですねえ、若いって」
黎の髪を整えながらチバが楽しそうにつぶやく。若いとはいいことなんだろうか。あまり腑に落ちず、黎は鏡の中のチバを見て眉を寄せた。それに気づき、チバが瞳を細める。
「おじさんになるとね、若者ってだけでまぶしく見えちゃいますよ。これからどんなことだって挑戦できますし。髪型だってね」
レイのやりたいようにすればいいよ。灯真の声がふと頭をよぎる。黎は思わず目線を落としてしまった。そんなふうに言われたところで、挑戦したいことなんてなにもない。この先見つけられるとも思えなかった。
「レイくん、どうですか? 一度確認してもらってもいいですか?」
チバに呼ばれ、黎ははっと目の前の鏡を見た。直後、思わず息を詰める。鏡の中には見慣れない髪型の自分が映っていた。チバが見せてくれた写真の髪型とよく似ている。……こんな顔してたっけ。黎は鏡の中の自分をしげしげと眺める。風呂に入るときも、顔を洗うときも、鏡はほとんど見ていなかった。意識したわけではないけれど、直視した記憶もない。鏡の中の自分は、記憶にあるものよりもどこか顔色がいいような気がした。
「後ろはこうなってます。試しにさわってみて、量とか気になるところがあれば教えてください」
声をかけられ、黎は我に帰る。チバは鏡越しに黎の後頭部が見えるよう、大きな鏡を持ってくれていた。言われるがまま髪をさわってみる。いつもよりさらさらしているし、前髪が目にかかっていないし、心なしか頭が軽くなったような気もする。けれどチバがどんな返事を求めているのかはよくわからず、黎は自分の髪を雑にさわりながら鏡越しにチバを見た。
「だいじょうぶ、です」
なんとか答えると、チバがにこりとほほえんだ。「よかったです」と言いながらチバが鏡を下げる。
「へえ、おまえそんな顔してたんだ」
ふいに灯真の声がして、黎の肩がわずかに跳ねた。どうやらすでに終わっていたらしく、灯真はチバの横から鏡越しに黎を見ていた。顔、という言葉に、黎の血の気がさっと引く。
「いいね、すっきりしたじゃん」
表情をこわばらせた黎の反応とは裏腹に、灯真はにっと笑ってそう言っただけだった。顔や見た目にさしてふれられなかったことに、黎は内心安堵の息を吐く。
「このあとどこか行きますか? セットします?」
チバが黎のクロスを外しながら訊く。黎はなんと答えればいいかわからず、目を泳がせた。その反応を見てか、チバが眉尻を下げる。
「今日はそのままにしておきますか。長い時間お疲れ様でした」
そう言って、チバは黎の椅子を回した。黎は小さく会釈して立ちあがり、灯真の元へ寄る。灯真はすでに身支度を整え、カウンターの前に立っていた。
「会計はふたりまとめてでいいんだっけ?」
「そ、おねがいしまーす」
チバの問いに灯真が軽い調子で答え、支払いをする。申し訳なさで縮こまる黎に、灯真を担当していた美容師が声をかけてきた。預けてあったコートを持ってくれている。それに袖を通しながら、灯真と談笑しているチバを横目で見た。
灯真との会話から察するに、灯真よりも年上なんだろう。つまり、黎よりもずいぶんと年上。でもずっと丁寧だった、と黎はぼんやり思う。ときどき砕けた話し方になることはあったけれど、黎が若いから、年下だからといって馴れ馴れしくすることなく、ずっと客として扱ってくれていた。そのことが、黎の胸の隅にじわりと残っているような気がした。
「んじゃ行きますか。ありがとございましたー」
支払いを済ませたらしい灯真の声が耳に入り、黎は目の前に意識を引きもどす。チバともうひとりの美容師が黎たちに向けてにこやかに笑んだ。
「レイくん、なにか気になることがあれば手直しするのでお気軽に言ってください」
チバに言われ、黎はおずおずとうなずく。それを見たチバが目元の皺を深くした。
「よければまたいらしてください。久我くんも」
「俺はもうここにずっとおまかせするって決めてるんで。また次もよろしくお願いしまーす。行くか、レイ」
灯真は軽い調子でそう言って店を出ていった。黎はあわててふたりへ会釈をしてから灯真の背中を追う。
外に出てすぐ、黎は小さく息を呑んでしまった。
分厚い前髪のフィルターがなくなった視界が、よくひらけている。空ってこんなんだったっけ、と黎は目線を上へ向けた。髪を切っただけだ。それなのに、なぜか胸がすくような思いだった。
黎の頭の中でふいに、すっきりしたじゃん、という灯真の声が響いた。これが、と黎は思う。これが、すっきりするということ。自分を清潔に保つということ。自分を、大切にするということ。
「……ん? どうした、レイ」
気づけば足が止まっていた。数歩先から灯真がこちらを振りかえる。こんな顔してたんだ、と黎は思う。灯真の顔は今日までも見ていたはずなのに、前髪越しじゃないというだけで、なんだかすごく鮮明に見えるような気がした。黎は無意識のうちに拳を握り、灯真をまっすぐに見つめたまま大きく息を吸いこむ。
「……くが、さん」
黎が呼ぶと、灯真がわずかに瞠目した。初めて名前を呼んだ、と黎は頭の片隅で思う。
「久我さん、ありがと」
かすれた声でたどたどしくそう言うと、灯真がぱちり、ぱちりと緩慢に瞬きをした。それから灯真の瞳がゆるやかにたわむ。
「いいよ。すっきりしてよかったな」
穏やかな声で言われ、黎はくちびるを結んだ。小さくうなずいてから、数歩あいた距離を詰めて灯真の隣へ並ぶ。それを合図に、灯真もまた歩きはじめた。
「どっか寄ってく? ついでだし、行きたいとことかある?」
こともなげに訊かれ、黎はわずかに眉を寄せる。行きたいところなんてどこも思いつかない。返答に困っていると、灯真が黎を見て、ふっと笑った。
「いや、まっすぐ帰るか。疲れただろ」
灯真がからりと言う。黎は眉を寄せたまま少しだけ首をかたむけた。疲れたんだろうか。それすらよくわからない。久しぶりの外出で、灯真以外のひとと話すのも久しぶりで、自分は今疲れているんだろうか。けれど灯真がそう言うなら、きっと、疲れているのかもしれない。そう納得し、黎は灯真と歩調を合わせ駅へ向かった。
なにもできないのに美容院のお金を払わせてしまったという心苦しさはまだ残っている。礼を言っただけで足りているなんて到底思えない。それなのにどうしてか、行きよりも胸の内側は凪いでいた。
行きは身を縮こまらせるように乗っていた電車で、帰りは窓の外の景色をぼうっと眺めることができた。体のどこにもむだな力が入っていないと自分で自覚する。クリアな視界で見る景色はなんだか少し違うような気がしたけれど、なにが違うのかまではよくわからなかった。
初めてのオリジナル小説です。
楽しんでいただけると嬉しいです。
感想・コメントなどいただけると励みになります。




