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「……ん? レイ」
夕飯の最中急に声をかけられ、黎は灯真へ視線を向けた。灯真は訝るようなまなざしで黎の手元を見ている。どうかしたのだろうか。黎が小首をかしげると、灯真が鼻から息をもらしたのがわかった。
「おまえ、すげえ爪伸びてるんだな。気づかなかった」
灯真に言われ、黎も自分の指先を見る。確かに爪の白い部分がずいぶんと長くなっていた。てのひら側からもはっきりと爪の裏側が見えるし、手を握ればてのひらに爪が食いこむ。
「……そっか。うち来てから、爪切ってないのか」
ひとりごとか確認かうまく判別できない灯真の言葉に、黎は小さくうなずいた。灯真の言うとおり、この家に来てから一度も爪は切っていない。切る必要がないと思っていた。黎にとって爪を整えるのは、黎を飼ってくれていた女性たちに対価を渡すため、彼女たちを悦ばせるためだったから。
灯真は黎になにも求めない。もちろん、セックスも。にもかかわらず爪を切って整えないといけない理由が黎にはわからなかった。どうして今、灯真が黎の爪を気にしているのかも。
黎は自分の爪から目線を外し、灯真の様子をうかがう。灯真は難しい顔をしているものの、ふたたび箸を動かしていた。どうやら話は終わったらしい。それなら、と黎も食事を再開する。
食べすすめながら、灯真の指先をちらりと見る。灯真の爪は白い部分がほとんど見えないくらい短く揃えられていた。割れたり欠けたりもしていないし、切り方もきれいなのが見ただけでわかる。……灯真はどうして、そんなきれいに爪を整えているんだろう。誰か相手がいるんだろうか。だから黎に、なにも求めてこないのだろうか。
けれど灯真は黎を拾ってからこの一か月、仕事に行ったあとは毎晩家に帰ってきていたし、休日もずっと黎と過ごしていた。誰かとセックスしているとは思えないし、そんな気配を感じたこともない。ということは、そのために爪を整えているわけではないんだろうか。だとしたら、どうして。
黎は聞けない問いを白米と一緒に飲みこむ。灯真の作ってくれた夕飯はいつもと変わらない味のはずなのに、なぜだか胃の奥がもやもやとするような気がした。
「レイ、ちょっとこっちおいで」
夕飯の後片付けを終えた灯真が、ソファに座って黎を手招いた。黎は呼ばれるがまま灯真の足元に座ろうとして、そこにレジ袋が置いてあることに気づく。なんだろう、と思いつつも、それを避けるようにして座った。膝を抱えて灯真を見あげると、灯真の眉尻がゆるやかに下がる。
「あのさ。レイの爪、俺が切ってもいい?」
ためらいがちに訊かれ、黎は目をしばたたいた。なんで、と疑問が一気にふくれあがる。なんで爪を切るんだろう。なんで灯真が切ろうとしているんだろう。なにもかもわからない。けれど灯真がそう言うのなら、拒む理由がない。そっとうなずくと、灯真の表情がやわらいだ。
「じゃあ、手貸して。右手からな」
ん、と灯真が黎に向かっててのひらを出す。その言葉に従いそろそろと右手を出すと、灯真は黎の右手を取り、その下にレジ袋が来るよう調整した。手を持ちあげるのではなく上体をぐっと倒し、黎の指先へ顔を近づける。そのせいで灯真のつむじが眼前へ来て、黎は静かに息を詰めた。
「深爪しないように気をつけるけど、もしなんかあったら、まじでごめん」
灯真は黎の指先から視線を逸らさないまま言って、爪切りをあてがった。ぱちん、と小気味いい音とともに、指先へかすかな振動が伝わる。黎はどうしていればいいのかわからず、できるだけ息をひそめてふたりの手元に目を向けた。ぱちん。ぱちん。リビングに乾いた音が鳴る。
「爪切りの場所、言ってなかったよな。片付けるときに教えるよ。伸びてきたら、次からは自分で切りな」
ぱちん。ぱちん。小さな音の合間に灯真が言う。黎はそれに返事もできないまま、短くなっていく自分の爪を見ていた。白く伸びた爪のかけらがレジ袋へ落ちていく。灯真は親指から小指まで切りおえたあと、黎の右手をわずかに見つめて、うん、と小さくうなずいた。
「じゃあ次、左手ね」
こちらを見ないまま言われ、黎はおずおずと左手を差しだす。灯真はその手を取り、また同じように爪を切りはじめた。
黎は解放された右手へそっと視線を落とす。あんなに伸びていた爪はすっかり短くなっていた。さっきまで灯真の手がふれていたからか、てのひらがいつもよりあたたかい気がする。自分の手じゃないみたいにうまく力が入らないのがふしぎだった。
右手を軽く握ってはゆるめるのをしばらくくりかえしているうちに、灯真が上体を起こした。どうやら左手も終わったらしい。爪切りがソファに置いてあった。じゃあもういいのか、と手を引っこめようとしたら、灯真が黎を見てゆるやかに口角を上げた。
「まだだよ。もう一回、右手貸して」
また灯真にてのひらを向けられ、黎は戸惑いながらもその手に自分の手を乗せた。なんだかお手みたいだ、と頭の片隅でぼんやり思う。
灯真は真剣な表情で黎の指先を見ながら、今度は銀色の棒のようなものを爪に当てた。しゅり、しゅり、と音を立てて動くそれによって、切ったばかりで角の立っていた爪が丸く整えられていく。これはなんだろう。しげしげと眺めてみたが、爪切りではないことしかわからない。
「……それ、なに」
「ん? やすりだよ」
疑問がぽろりと口をついたことに、え、と自分で思ったのと同時に、灯真がこともなげに答えてくれた。やすり、と黎は音にせず口にしてみる。自分からこんなことを訊いたという驚きと、灯真がいつもどおりの調子で答えてくれたことへの安堵で、なんだか妙にそわついてしまった。黎は鼻から息を吐き、ふたりの手元へあらためて目を向けた。灯真の丁寧な動きによって丸みを帯びていく爪をじっと見る。
これまでは万が一にも膣内を傷つけたりしないようなるべく深く切っただけで終わりだったから、こんなことをするのもされるのも初めてだった。灯真の爪も同じようにきれいなカーブをえがいている。なんでここまできれいにするんだろう。ますますふしぎだった。爪が短くなれば、それでじゅうぶんではないのだろうか。
灯真はきれいになった黎の指先を見て、満足そうに息をもらした。
「次、左手も」
そう言われ、黎は灯真のてのひらへ素直に左手を乗せた。灯真は同じように左手の爪にもやすりを当てていく。しゅり、しゅり、と動くやすりを見ながら、黎は小さく息を吸いこんだ。さっき大丈夫だったから、と自分に言いきかせ、口をひらく。
「……なんで」
「ん?」
「なんで、爪、切るの?」
爪の話題が出てからずっと黎の中でわだかまっていたことを、そろりと訊く。途端、灯真は面食らったような顔をして黎を見た。なんで、と灯真のくちびるが音もなく動く。
「……え、なんで? なんでって……だって、爪は伸びるじゃん」
「爪は、伸びたらだめなの?」
セックスもしないのに、と続く言葉を口にするのはなんだかよくないような気がして、黎はそっとくちびるを結んだ。灯真は黎を見たまま瞳をしばたたかせたあと、うーん、とうなる。
「別に、だめってことはないと思うけど……」
「じゃあ、なんで切るの?」
「なんで……なんでねえ……」
灯真は考えこみながらも、ふたたびやすりを動かしはじめた。しゅり、しゅり、という硬質な音がふたりのあいだで静かに響く。
「……なんで、って言われると難しいんだけどさあ」
しばらくの沈黙のあと、灯真が口をひらいた。黎はその声に耳をかたむける。
「爪ってさ、伸びすぎると不衛生じゃん。ごみとか溜まって汚くなるし。あと、怪我しやすくなるだろ? どっかに引っかけて割れるとか、剥がれるとか。そこまでいかなくても、肌とか引っかいちゃうかもしんねえし」
灯真はやすりを動かしながら、訥々と言葉を紡ぐ。
「それとさあ……爪を切るって、俺は、自分を大事にすることのひとつだとも思う」
自分を大事に。選ぶように、けれど芯を持った声で言われ、黎はぱちりと瞳を瞬かせた。
「メシを食うとか、いっぱい寝るとかはさ、やらないと生きていけないじゃん。そういうのじゃなくて、歯を磨くとか、風呂に入るとか、自分を、こう……清潔に保つっていうの? そういう、やらなくてもいいけどやったほうが気持ちいいことのひとつに、爪を切るってのもあると思うんだよ」
「きもちいいこと?」
「そう」
思わず聞きかえすと、灯真が手元を見たままうなずいた。
「気持ちいいっていうか、すっきりする? さっぱりする? 歯磨いたあととか、風呂入ったあととかさ、すっきりするじゃん。それって気持ちいいことだと俺は思うのよ。レイは違う?」
ふいに訊かれ、黎はぐっと言葉に詰まってしまった。そんなこと訊かれてもわからない。気持ちいい、は、飼い主たちがセックスのときに言っていたものしか知らないのだから。
けれど、歯を磨いたあとや、風呂に入ったあとにすっきりする、さっぱりするというのは、黎にも覚えがあった。それも、気持ちいいということなんだろうか。あの気持ちいいとこの気持ちいいは、同じものなんだろうか。黎が考えこんでいると、灯真がふっと眉を下げて笑った。
「清潔じゃなくても生きていける。でも、清潔でいたほうが気持ちいい。気分がいいっていうの? そういうことをするのが、自分を大切にすることにつながるんじゃないかなって俺は思う。だから俺は朝晩歯を磨くし、夜は絶対風呂に入りたいし、爪が伸びてきたら切る」
そう言って灯真は黎の手を離し、体を起こした。黎は自分の指先へ視線を落とす。丁寧に整えられた両手の爪。これが、気持ちいい、なのだろうか。黎がじっと自分の指先を見ていると、やすりをソファに置いた灯真が黎の頭をやわく撫でた。
「自分を大切にするって、別に特別なことじゃないと思うんだよね。そういう、やらなくてもいいけどやると自分が気持ちいいことを日々積みかさねていくことによって、自分を大事にできるんじゃないかなと思うわけ。自分とは、死ぬまでのつきあいじゃん。俺は自分を大事にしたい。だから爪も切る。それが理由かも」
灯真は言いきってから真剣だった表情をへらりと崩し、照れくさそうにこめかみをこすった。
「なんて。こんなん初めて言語化したから、違うかもしんねえけど。なんか恥ずいわ」
灯真ははにかみながら小さく咳払いしたあと、黎の前髪を指で軽く分けた。伸びきった前髪の隙間から、灯真とまっすぐに目が合う。
「レイさ、髪って長いほうがいい?」
おもむろに訊かれ、黎はゆっくりと首を横に振った。
「……どうでもいい」
黎はうなだれながらぽつりと答える。髪型なんてどうでもよかった。今までは飼い主たちに言われるがまま見目よくなるように整えていただけで、こだわりなんてない。伸びていようと、逆に丸坊主になろうと、なんだってよかった。灯真は黎の返事を聞き、困り顔で笑う。
「じゃあさ、髪、切らねえ? 今度俺が髪切りにいくときに一緒に行こうぜ。こんだけ前髪伸びてたら、目悪くなる」
灯真に言われ、黎ははっと目を瞠った。さっきよりも少しだけ勢いを強くして首を横に振る。視界の端で灯真が首をかたむけたのが見えた。
「なんで? やだ?」
理由を訊かれ、黎は目を泳がせる。今までならうまく答えられず、黙りこむだけだった。そうすれば灯真はそれ以上なにも訊いてこなかった。でも、今は、と黎は思う。思ったことをそのまま訊いても、あるいは答えても、灯真はいつもと変わらず接してくれたから。無意識のうちに体をこわばらせながら、黎はおそるおそる口をひらく。
「……お金、ないから」
「ふは、なんだ。そんなことか」
絞りだすように答えると、なぜか灯真が笑った。その理由がわからなくて、黎はきょとりと目を丸くする。灯真はくすくすと肩を震わせながら、黎の前髪を分けていた手でまた頭を撫でてきた。
「金なら俺が出すから、気にしなくていいよ。さっぱりしにいこうぜ」
「……っ、そ、れは」
あっけらかんと言われ、黎はほとんど反射で口をひらいたもののその先をうまく繋げられなかった。今でさえたくさんお金がかかっているのに、そのうえ髪を切るお金まで出してもらうなんて、そんな資格、自分にはない。これ以上はもらいたくない。もらってはいけない。
顔を歪め、くちびるを嚙んだ黎の頭を、灯真がぽんぽんと軽く叩く。
「髪切るのも、自分を大切にすることのひとつだと俺は思うよ」
灯真が穏やかな声で言う。黎はそれを聞きながらぎゅっと拳を握りしめた。灯真が整えてくれたおかげで、てのひらに爪が食いこむことはない。
なんでそこまでしてくれるの? という問いが、黎の喉に貼りついている。けれどその問いは音にならず、黎はくちびるを嚙みつづけた。
初めてのオリジナル小説です。
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