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灯真との暮らしは黎にとってあまりにも穏やかだった。もしかしたら夢なのではと思ってしまうほどに。
灯真は日々、規則正しい生活を送っていた。月曜から金曜は仕事で、土日が休み。いつもだいたい同じ時間に起きるけれど、休みの日は少し遅い。朝食は必ず同じメニューで、トースト、目玉焼き、野菜スープとコーヒー。夕食はその日によってさまざまだが、いつも自分で作っていた。
黎も灯真が作ってくれた食事を、灯真と同じだけ食べさせてもらっていた。朝も、夜も、そして昼も。灯真が仕事の日は、必ず黎の昼食を用意してくれていた。おにぎりと、タッパーに詰められたおかず。灯真のぶんも作っているのは一度も見たことがない。朝晩とは違って黎のためだけに用意された昼食。灯真はそれを、ごく当たり前のことのように続けてくれていた。
家事はためることなく、洗い物はその都度、洗濯物はいちにちの終わりに必ず回し、土曜の午前中にはまとめて家の掃除をする。基本的に早寝だけれど、金曜と土曜の夜はゲームをしているから黎よりも寝るのが遅い。日曜の午前中は、週に一度の買い出しの日。
ルールとしてきっちり決まっているというわけではなさそうだが、灯真はだいたいいつも同じような流れで動いていた。灯真に合わせているから、黎も同じく朝起きて夜眠る生活を送っている。時間や曜日を意識するようになったのは、学校に行っていたとき以来だ。これまでの飼い主たちは夜に働くひとたちばかりだったし、出勤する日も時間帯も不規則だったから。
灯真との暮らしは初めてのことが多くて、今もまだ慣れずにいる。朝昼夜と毎日三食食べることにも、毎晩必ず湯船に浸かることにも、毎日洗濯されている服に着替えることにも。
毎週土曜日の昼は、いつもより豪華な食事とともに映画を見るのが決まった流れになっていた。
二度目の土曜日はデリバリーの寿司とともに。三度目の土曜日は、いつも行くスーパーで惣菜のオードブルを買ってきた。四度目——前回の土曜日はふたりで駅前のファストフード店まで行き、ハンバーガーとポテトをテイクアウトしてきた。それらを食べながら、灯真の選んだ映画を見る。どれも知らない作品だったけれど、毎回気づけば集中して見ていたし、終わったときはあっというまに時間がたったような気分になった。
「レイ、もしかして結構映画好き?」
前回映画を見おわったあと、片付けをしながら灯真が言った。灯真からそんなことを言われたのは初めてだった。目をしばたたかせながら灯真を見ると、灯真はにっと口角を上げていた。黎はそれに肯定も否定も返せなかった。自分は映画が好きなのか、よくわからなかったから。けれど映画を見ているあいだはいつだって、その作品の世界に惹きこまれていることは自覚していた。
映画を見て後片付けを終えると、灯真はいつも少しだけソファで昼寝をした。そのあいだ、黎はソファのそばで膝を抱え、灯真の寝顔をぼんやりと眺めて過ごしていた。無防備に眠る灯真を見られるのは、土曜の午後のこの時間だけだった。灯真と一緒に眠ったことはないし、寝室に入ったことすらない。だから灯真の寝姿は、黎にとって見なれないふしぎな光景だった。なぜその姿を眺めつづけてしまうのかは、自分でもまだよくわかっていない。
灯真と暮らしているうちに、おはようと言われればおはようを、おやすみと言われればおやすみを、灯真とともにいただきますとごちそうさまを、灯真に対してありがとうを、それから、いってらっしゃいとおかえりなさいを、少しずつ言えるようになってきた。灯真はそれを聞くたびに、少しだけ目元をほころばせる。けれど大げさにふれることはなかった。
最初はなにを話せばいいのかわからず黙っている日々が続いていたが、少しずつ言葉を交わせるようになってきた。けれど灯真の問いかけにはまだ答えられないときが多い。
灯真はいつも黎の意思を聞き、黎に選ばせようとする。黎にとってそれは未知の経験だった。選べない。正解がわからない。言葉を探しても見つけられず、黙りこむしかないことがたびたびあった。
しかし灯真はそれを咎めることもなく、黎を待たずに会話を続けてくれることがほとんどだった。黎はそういうとき、いつもほっとする。待たれるほうが苦しかった。待たせてもなにも答えられない自分が嫌になるから。
灯真はときどき「俺ばっか喋ってごめんな」と眉を下げた。黎はそう言われるたびに首を振って否定した。灯真が話したいのならいくらでも話したらいいのに、どうして謝るのか黎にはよくわからない。返事を求められてもうまく返せないけれど、黙って話を聞いているだけならばいつまでだってできそうな気がした。灯真が感情豊かに話すのを聞いている時間はちっとも疲れないし、テレビのように一方的に聞かされていると感じたこともない。だからなおさら灯真が気にする必要はないのだが、それをうまく説明できないままでいる。
夜、灯真が寝室に行って静かで暗い部屋の中でひとりになると、黎はいつもそこはかとないおそろしさを感じてしまっていた。
灯真との暮らしは穏やかで、黎を傷つけるものはどこにもない。だからこそ、いつもうっすらとした息苦しさが黎にまとわりついている。なにも求められず、なんの役割も与えられないのに、灯真からはあれもこれも、たくさんのものを与えられている。灯真はそれを受けとることさえ強要しない。黎はなにもしていないのに、ありがとうと言われることさえある。灯真のふるまいは今もまだ黎にとって理解できないことばかりだった。
これは自分にとって都合のいい夢なのではないか、と夜になるたび考える。なにもかもが夢で、まぼろしで、目を覚ましたら自分は、誰にも見向きされない路地裏でひとりうずくまっているんじゃないか、と。そんなことをぐずぐずと考えているうちに、規則正しい生活に慣れきった体が気づけば眠りに落ちていた。寝室からのかすかな物音で起きると、黎は目を閉じたまま小さく深呼吸をするのが癖になりつつあった。目をあけたとき、ここが灯真の家であることを祈るように。
灯真は黎に出ていけと言わない。行くところが見つかるまでここにいればいいと言う。黎は次の行くあてを探さないまま、灯真の家に居座りつづけている。役割を与えられず、なんの対価も求められず、ただひたすらに穏やかな暮らしを享受することに居心地のよさと悪さを同時に感じながら、灯真の家で飼われつづけている。
灯真に拾ってもらってから、もう一か月が過ぎていた。
初めてのオリジナル小説です。
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