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物音が聞こえ、意識がふっと浮上する。目を閉じたまま飼い主を抱きよせようとして、その前にはっと踏みとどまった。ここは、灯真の家だ。胸元から動かさなかった右手を、左手でゆるくさする。
しばらくそうしていると、寝室のドアがひらいた音がした。黎は硬く目をつむり、息をひそめる。カーテンがひらき、まぶた越しにまぶしさを感じる。灯真は昨日までと同じように黎を撫で、毛布を直したあと廊下へ出ていった。灯真の気配がなくなってから、黎はそっと息を吐いた。そのまま体を起こす。
どこを見るでもなくぼんやりしていると、廊下から足音が聞こえてきた。ドアのほうへ顔を向けると、戻ってきた灯真と目があった。灯真が表情をゆるませる。
「おはよう。眠れた?」
笑みとともに訊かれ、黎は少し迷ったものの小さくうなずいた。寝起きでまだ少しだるいが、もう眠くはない。だから、たぶんちゃんと眠れたのだろう。灯真は「そっか、よかった」とやわらかく笑い、キッチンに行った。エプロンをつけているのを見て、朝食を用意するのだと察する。
「……あの」
黎が声をかけると、灯真がこちらを見た。黎は息を吸いこみ、ふたたび口をひらく。
「はみがきする」
緊張しながらもそう伝えると、灯真がふっと瞳を細めた。
「おう」
灯真は軽い調子でそれだけ言って、また朝食の支度に戻った。黎はなんとなく灯真のほうを見られないまま洗面所へ行き、歯ブラシを手に取った。歯を磨きながら、灯真の反応を思いかえす。あっさりしていたな、と思った。かといって適当なわけでも、ぞんざいなわけでもない。大げさにせず、でも受けとめてくれている。思いあがりかもしれないけれど、灯真の態度からそれが伝わってくるような気がした。それをどうとらえればいいのかは、まだよくわからない。
身支度を整えて部屋に戻ると、灯真はテレビの音を聞きながら朝食を作っていた。「おかえりー」と出迎えられ、くちびるの端がむずりと動く。黎はわずかに迷ったものの、灯真にうながされる前にダイニングチェアに座った。灯真が黎に視線を向ける。けれどなにも言わず、すぐに作業へ戻った。
灯真の動きをぼうっと目で追っているうちに、朝食の支度が終わったらしい。灯真がふたりぶんの朝食とコーヒーを食卓に並べていく。それから黎の前にだけ、ラップに包まれたおにぎりとおかずの詰められたタッパー、水のペットボトルが二本ぽんぽんと置かれた。
「昼のぶんな」
灯真がにっと口角を上げる。えくぼに気を取られかけたが、黎はそっとうなずいた。話していたとおり、ほんとうにまた用意してくれたのか。昼食を見つめ、黎は結んだくちびるに力をこめる。灯真は黎の向かいに座り、ふわふわとあくびをしながら手を合わせた。
「いただきます」
挨拶をしてから食べはじめた灯真を追うように、黎も朝食に手をつける。トーストをかじりながら、昨日食パンを二袋買っていたな、と頭の隅を記憶がよぎった。それから卵も二パック。黎も、一緒に食べるから。ちらりと灯真の様子をうかがう。灯真はテレビを見つつ黙って食べすすめていた。
特に言葉を交わすこともなく、互いに朝食を終える。灯真は洗い物をしてから、さっきまで黎が使っていた箸と箸置きをタッパーのそばに置いた。
「昼はそれ使いなね」
灯真が言うだけ言って、寝室へと向かう。仕事の準備をするのだろう。寝室のドアを少し見つめてから、目の前の昼食に視線を戻した。黎のために用意された昼食。わざわざ洗ったあとまた持ってきてくれた箸。押しつけられることなく与えられるものが、黎の内側にしんしんと積もっていく。なにひとつ返せていないのに。苦しい。なのに、あたたかい。
嫌だよ。灯真の声が、また耳の奥で鳴ったような気がした。
着替えを終えて戻ってきた灯真が、テーブルに鍵を置いた。黎ははっと息を呑む。
「どっか行くなら鍵かけてって」
灯真が数日前と同じことを言う。灯真が次の言葉を続ける前に、黎は息を吸い、灯真を見た。
「いらない」
まっすぐにそう言うと、灯真がぱちりと瞬きをした。
「鍵、いらない。……どこも行かないから」
声が震えそうになるのをこらえながら、最後まで言いきる。灯真は数度瞬きしたあと、浅く息を吐いた。丸くなっていた瞳がゆっくりと細くなる。
「……そっか。じゃあこれ片付けとくから」
そう言って、灯真は鍵を持って寝室へと戻った。それからすぐに出てきて、玄関へ向かう前に黎の頭をくしゃりと撫でる。
「だいたいいつもと同じくらいの時間に帰ってくる。いってきます」
灯真は腕時計を確認しながらそう言って、玄関へ向かった。廊下のドアがぱたんと閉まる。黎はそのドアを少し見つめてから立ちあがり、灯真を追った。玄関で靴を履いていた灯真が黎に気づき、不思議そうな顔になる。
「なんかあった?」
首をかしげながら訊かれ、黎はかぶりを振ってからまっすぐに灯真を見た。
「……いってらっしゃい」
かすれた声で言うと、灯真の目がまたも丸くなった。一拍置いて、その目がふっとたわむ。
「ん、いってきます」
灯真は笑みとともに黎に答えたあと、玄関を出ていった。かちゃんと音を立てて鍵が閉まる。足音が遠ざかっていくのを聞きながら、黎は静かに息を吐いた。
灯真が帰ってくるまで、このドアがひらくことはない。これでいいのか、ここにいていいのか、今もまだよくわからない。世話してもらう対価を渡せない。なにでいればいいのか、どうふるまえばいいのか、なにひとつわからない。灯真はなにも求めてくれない。なのにここにいれば、灯真にただ負担をかけつづけることになる。それだけは、わかる。
だからといって、ここを出て誰か他に拾ってくれるひとを探す気にはなれなかった。笑うことすらできなくなった今の自分を誰かが拾ってくれるとも思えない。見つからなかったら外で眠るしかないし、しばらくなにも食べられないだろう。それでも構わない。それでも、我慢できる。
でも、灯真がそれは嫌だと言っていたから。
灯真に嫌な思いを、してほしくない。自分がどうするべきなのかはわからないままだけれど、灯真が嫌な思いをするのは、嫌だった。
初めてのオリジナル小説です。
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