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 溺れるような夢を見て、黎ははっと目を覚ました。全身がじっとりと汗ばんでいる。指先が痺れて、体がうまく動かせない。喘ぎながらも顔を上げると、目の前に灯真がいて一瞬息が止まってしまった。灯真は眉をひそめ、黎をのぞきこむ。


「レイ、大丈夫か?」


 うかがうように訊かれ、黎はただうなずく。大丈夫かと訊かれたら、肯定する以外を知らない。でも、ほんとうに大丈夫なのかはよくわからなかった。自分になにが起こったのか、まだよく理解できていない。もしかして、灯真と会話したあと眠ってしまっていたのだろうか。記憶がふっつり途切れていた。肩で呼吸しながらうつむくと、灯真がゆったりと頭を撫でてくる。


「気づいたら寝てたからそのままにしてたけど、起こせばよかったな。ごめん」


 なぜか謝られてしまい、黎はぶんぶんと大きく頭を振った。そのせいか、くらりと目が回る。それを表には出さないよう、くちびるを嚙んでこらえた。

 灯真が謝る理由がまったくわからない。眠ってしまったのも、うなされたのも、ぜんぶ黎が悪いはずだ。なのに、なんで。

 黎が膝を抱えなおすのとほとんど同時に、灯真が立ちあがった。はっと顔を上げて灯真を目で追う。灯真はキッチンへ向かっていた。冷蔵庫からなにかを取りだし、こちらへ戻ってくる。


「とりあえず、水飲みな」


 気遣うようにペットボトルを差しだされ、黎は顔を歪めながらそれを受けとった。心配させてしまったことが心苦しい。飲めと言われたのに従い、ペットボトルに口をつける。冷たい水が喉を通る感覚のおかげか、意識も少しは冴えたような気がした。半分もいかないうちに蓋を閉め、ペットボトルを軽く握る。


「声かけたけど起きなかったから、先に昼メシ食っちゃった。起こせばよかったかも。ごめんな」


 ふたたび謝られてしまい、黎はさっきよりも勢いを抑えて首を横に振った。どうして灯真が謝るんだ。灯真が声をかけてくれたのに起きなかった黎が悪い。灯真が気に病むことなんてなにもない。だから、もう、謝らないでほしい。


「もう夕方なんだけど、腹減ってる? それとも、先に風呂行く? すげえ汗かいてる」


 言いながら、灯真が黎のこめかみをぬぐう。汗が垂れているのが自分でもわかった。黎はくちびるを嚙んだまま浅くうなずく。服が張りつくほど汗をかいているのが気になった。灯真の服なのに汚してしまったことが頭をよぎる。なにもできない。迷惑しかかけられない。

 灯真は黎の頭をひとなでしてから離れていった。風呂の準備をしてくれているのかもしれない。遠くから物音が聞こえてくる。黎はペットボトルを握ったまま大きく息を吐いた。その勢いで息を吸いこむ。どれだけ息を吸いこんでも、目覚めたときの息苦しさがまだ濃く残っているような気がした。なんでなんだ。灯真のことも、自分のことも、なにもかもわけがわからなくて、黎の顔が歪む。

 頭を上げているのがだるくなり、うなだれていると、灯真が浴室から戻ってきた。慌ただしい足音が近づいてくる。


「レイ、体調悪い? 大丈夫か?」


 灯真の声から、さっきよりも心配されているのが伝わってくる。体調は悪くないはずだ。頭も腹も痛くないし、吐き気もない。これ以上灯真に不要な心配をかけたくなかった。

 大丈夫、ごめんね。今すぐ顔を上げ、愛想よく笑ってそう言えばいいだけ。わかっているのに、頬がひきつったようにうまく動かない。結局黎はうなだれたまま、かすれた声で「だいじょうぶ」と言うしかできなかった。


「なら、いいけど……」


 あまり納得いってなさそうな声ではあるが、灯真が引きさがる。


「あんまり長風呂しないで、はやめに出ておいで。服は全部洗濯かご入れていいからな」


 髪を撫でつけながら言われ、黎は首肯だけを返した。風呂が沸いたのを知らせる電子音が鳴り、灯真を直視しないままおぼつかない足取りで浴室へ向かう。脱衣所で服を脱ぐと、染みこんだ汗で服の色がところどころ変わっていた。せっかく貸してもらったのに、ますます申し訳なくなる。

 ふらつきながらもなんとか全身を洗い、いつもどおり湯船に浸かると、黎は頭を抱えるようにぐしゃりと髪をつかんだ。

 なんで灯真を相手にすると、なにもかもうまくできないんだろう。これまでの飼い主たちの前では、もう少しくらいはちゃんとできていたはずなのに。

 役割がないから? なにを求められているかわからないから? 恋人の代わりや、ペット、愛玩的存在、ただのセックス相手。これまで黎を拾ったひとたちは、みんな黎に対して明確に役割を求めていた。言葉にされなくても、一度セックスをすれば相手がなにを求めているのか察することができた。世話をしてもらう対価として、求められているとおりにふるまい、相手のしてほしいことをする。それしか知らない。誰かに飼われることでしか生きていけない。これまでも、きっとこれからも。

 それなのに、灯真はこれまでの飼い主たちとはなにもかもが違う。あんなひと、今までいなかった。これまで学んできたことがなにひとつ通じない。灯真が黎になにを求めているのかさっぱりわからないから、なにでいればいいのかわからない。にもかかわらず、灯真は黎を世話してくれる。そうすることが当たり前みたいに。それがいちばん理解できなかった。

 嫌だよ、と言った灯真の声が、ふいに鼓膜によみがえる。灯真がなにをしてほしいのかわからない。でも、あのひとがなにをしてほしくないのかは、わかる。黎が寒い外で眠ること。なにも食べられず空腹でいること。黎は我慢できるのに、灯真はそれを、嫌だと言う。灯真が寒いわけでもひもじいわけでもないはずなのに。

 黎は息を吐き、髪を掴んでいた手をゆるめる。この家は……灯真のそばはあまりにも穏やかで、黎が傷つくことなんてなかったはずなのに、息苦しさが絶えず黎にまとわりついているようだった。

 とりあえず、今は灯真に言われたとおりはやく風呂から出なければ。黎はいつもより手短に風呂を済ませた。息苦しさはまだ続いているものの、体のこわばりはわずかにやわらいでいる気がする。

 自分なりにしっかり髪を拭いてから部屋に戻ると、ソファに座っていた灯真がこちらを見た。


「おかえり。のぼせてねえ?」


 眉を下げながら訊かれ、黎はうなずく。「おいで」と招かれ、黎は素直に灯真の足元に座った。ここに座るのが正解なのかわからない。しかしこれまで咎められたことがないのなら、正解だと思うことにした。他の正解を探す気力が、今はない。


「ちょっと待ってな」


 灯真は黎に声をかけるだけかけて、廊下へ出ていってしまった。黎は言われたとおり、膝を抱えて灯真を待つ。時間をあけずに戻ってきた灯真の手には、さっき黎が使ったタオルがあった。それをどうするつもりなのか察しがついて、なんで、とタオルを凝視する。


「レイ、頭下げて」


 ソファに座りなおした灯真が、タオルを広げて言う。黎がうつむくと、すぐに頭にタオルがかけられた。そのまま豪快に、けれど優しく髪を拭かれる。今日もちゃんと拭いたはずなのに。まだ足りなかったのだろうか。それとも、これも世話のひとつなんだろうか。黎はされるがままになりながら、灯真の足をじっと見つめていた。

 やがてタオルが離れ、灯真の指先が黎の髪を整える。ときどき肌にふれるのがこそばゆくて、結んだくちびるに力がこもった。


「レイ、腹減ってる?」


 その問いに、黎は少し迷ってから首を横に振った。まだ腹は鳴ってない。すると灯真の眉が寄る。


「食欲ねえ?」


 続けて訊かれ、黎は反応に詰まってしまった。食欲がないのかどうか、訊かれてもよくわからない。今食べろと言われれば食べるし、食べなくても、たぶんまだ大丈夫だ。黎が答えあぐねていると、灯真がぽんぽんと黎の頭を撫でた。やわらかい手つきに息が止まる。


「俺も風呂入ってくるから、出てきたときになんか食えそうなら食うか。とりあえず、ゆっくりしてな」


 灯真はそう言いのこし、タオルを持って風呂へ向かった。黎は灯真が部屋を出ていったのを見届けてから、止めていた息を吐きだす。ひとりになると、一気に体の力が抜けた。さっきまで灯真が座っていたソファの座面へ頭を預け、そのまま目を閉じる。まだほのかにあたたかい布地からは灯真のにおいがした。灯真がそばにいると、緊張するし、苦しいし、おちつかないのに、灯真の気配が残るここにいると、どうして少し息がしやすくなるんだろう。

 わからないことばかり考えるのに疲れてきて、黎は目を閉じたままただ呼吸をくりかえす。嫌だよ、とまた耳の奥で灯真の声が鳴った気がした。

 ぼうっとしているうちに、廊下から灯真の足音がした。黎が体を起こしてすぐ、灯真が部屋に戻ってくる。


「弁当あっためる? 食えそう?」


 灯真はわざわざ黎のそばまで寄ってきて尋ねた。黎がうなずくと灯真がほっと息を吐く。灯真が安心したということは、正解したということなんだろう。正解を選べたことに、黎もわずかな安堵を覚える。


「俺もメシにするわ。用意するし、ちょっと待ってて」


 そう言って、灯真はキッチンで夕飯を作りはじめた。黎はソファの前から動くことなく、ぼんやりとその姿を眺める。少しして灯真がエプロンを外し、こちらを見た。


「できたよ。おいで、こっち座りな」


 呼びかけられ、黎はよろよろとダイニングチェアに座った。少し動いただけなのに、体が重い。

 黎の前に、弁当と味噌汁が置かれる。灯真の席には白米の茶碗と汁椀、おかずが並んでいた。そういえば起きたとき、灯真はもう弁当を食べたと言っていた気がする。


「味噌汁も、飲めたら飲みな。どっちも残していいから、ゆっくり食べて」


 向かいの席に座った灯真が黎に声をかける。「いただきます」と挨拶したのを聞いてから、黎はのろのろと箸を手に取った。汁椀を持ち、味噌汁をすする。ひとくち、もうひとくちと味噌汁を飲んでいるうちに、なんだか息苦しさがまぎれたような気がした。黎は椀を手に持ったまま、ほうと息を吐く。

 今度は弁当に手をつける。白米を口に入れるとあたたかくて、黎は驚いてしまった。一緒に詰められているおかずもちゃんとあたたかい。弁当なのに、冷たくない。記憶にある弁当とは、違う。


「……レイさあ」


 互いに無言で食べすすめていたら、ふいに声をかけられた。黎は手を止め、灯真を見る。


「さっき、なんか嫌な夢でも見た?」


 こちらを見ることなく訊かれ、黎の肩が小さく揺れた。嫌な夢だったんだろうか。あまり覚えていないが、とにかく苦しかったことだけははっきり残っている。正直に答えるか少しためらったものの、嘘をつくのもよくないと思い、小さくうなずいた。


「そっか」


 それだけ言って、灯真が食事を再開した。話が終わったと判断し、黎もそれに倣う。なんで訊いたんだろう、と思ったけれど、深くは考えないことにした。それよりも、目の前のあたたかな食事に意識を向ける。

 残してもいいと言われてはいたが、気づけば夕飯をすべて食べおえていた。黎が箸を置いたのを見て、灯真が「ごちそうさま」と手を合わせる。そのままいつものように後片付けと洗い物を始めた。黎はその姿を食卓から見つめる。やりたければやればいいけどやりたくないならやらなくていい。灯真の言葉を、黎はまた思いだしていた。


「なあ、レイ」


 洗い物を終えた灯真が、黎に声をかける。


「ソファ、体つらくねえ? 布団買おうか?」


 なんでもないことを言うみたいに訊かれ、黎は思わず瞠目した。すぐに首を大きく横に振る。ソファを使わせてもらっているだけでじゅうぶんありがたいし、つらいなんて思ってすらいない。それに、黎の脳裏にはまだ昼間の買い物の光景が鮮明に焼きついている。より負担をかける選択ができるはずもなかった。


「そっか」


 灯真がゆるく眉を下げる。それから大きく伸びをした。


「明日からまた仕事かあ」


 そう言って、灯真はダイニングチェアに座りなおす。


「……こうやって誰かとゆっくりしたの、久しぶりだわ。楽しい休みだった」


 わずかにはにかんだ灯真が、黎から目線を外してつぶやいた。その言葉に黎は息を呑む。灯真は少しだけ視線を揺らしたあと、指先で鼻の頭をこすった。


「……もしおまえが来週末もここにいるならさ、また一緒に、映画見ようよ」


 灯真はどこか歯切れ悪く言ったあと、黎を見て照れくさそうにふにゃりと笑った。途端、黎の心臓が大きく跳ねる。


「……いいの」


 震える声でそれだけ訊くと、灯真がますます目を細めた。


「いいよ。楽しかったもん。ありがとな」


 やわらかな声音で礼を言われてしまい、黎はくちびるを嚙んでうつむいた。感謝されるようなことはなにもしていないはずだ。ただいただけ。むしろ迷惑をかけ、世話をしてもらっているのだから、礼を言うべきなのはこちらなのに。わかっていても、喉の奥が閉じているみたいでなにも言葉が出てこない。灯真は椅子から立ちあがり、黎のほうへと近寄ってきた。頭を撫でられ、黎はぎゅっと拳を握る。


「んじゃ、また明日な。おやすみ。もし体調悪くなったら、いつでも起こして」


 あくびまじりに言われ、黎は小さくうなずいた。「電気つけとく?」と訊かれ、今度は首を横に振る。


「わかった、じゃあ消すわ。おやすみ、レイ」


 そう言って灯真はリビングを消灯し、寝室へと入っていった。

 黎は部屋が暗くなってもしばらく椅子に座っていたが、寝室から物音がまったく聞こえなくなってからようやくソファへと向かった。毛布にくるまり、静かに息を吐く。

 昨日までは灯真がゲームをしていたから、部屋の中は明るくて、ゲームの音もしていたし、目の前には灯真の背中もあった。しかし今は静かで真っ暗なのが妙におちつかない。灯真のいないローテーブルのほうへ手を伸ばしてみるが、当然その手は空を切った。黎はその手をきゅっと握りしめ、胸元に抱える。

 目を閉じても、また一緒に映画を見ようと言ったときの灯真の表情が、まぶたの裏に残っている。また明日、と言った灯真の声が、鼓膜の奥に残っている。いつまででも。ここにいな。嫌だよ。楽しかった。ありがとな。灯真の声が、表情が、いくつも浮かんできてはまぶたの中の暗がりにとけていく。

 明日も、来週も、ここにいていいの。なにもできないのに。迷惑ばかりかけてるのに。ここにいる代わり、なにをしたらいいの。

 答えのもらえない問いがいくつも積みかさなっていく。考えているうちに、小さなあくびがこぼれた。おやすみ、と灯真の声がまた頭の中で鳴る。その声にいざなわれるように、ゆっくりと、少しずつ、呼吸が深くなっていった。


初めてのオリジナル小説です。

楽しんでいただけると嬉しいです。

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