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 前を行く背中を見失わないようしばらく歩いていると、灯真が足を止めて黎を振りかえった。ここ、と指で示された店に目を向ける。大きな建物だ。外観を眺めていたら、「おいで」と灯真に声をかけられた。黎は意識を戻し、灯真について店に入る。

 中に入ってすぐのところには、たくさんの野菜や果物が陳列されていた。黎はぱちりと目を丸くする。物珍しさにあたりを見まわそうとしたけれど、カートを押して歩く灯真とはぐれてしまいそうで、慌ててその背中を追った。

 店内にはこどもから老人まで、さまざまなひとたちがいた。みんなかごを持って野菜を吟味している。あちこちで話し声が飛びかっているうえに、店内には音楽も流れている。活気があふれているといえば聞こえはいいのかもしれないが、黎には少し騒々しく感じてしまった。初めて来る店に目を惹かれたのは一瞬だけで、黎は身をすくませ、灯真だけに意識を向ける。灯真は慣れているのか、ときおり足を止めて野菜を選びながらも、すいすいと店内を進んでいた。

 買い物としか聞いていなかったが、食料品を買いに来たのだろうか。黎にとって買い物とは、飼い主の服や化粧品を選ぶのについていくか、飼い主とコンビニへ行くかくらいで、こういう大きな食料品店に来るのは初めてのことだった。飼い主たちの中にはたまに気が向いたときに料理するひともいたけれど、毎日料理を作っているひとと暮らすのも灯真が初めてだ。黎には名前もよくわからない野菜や食べ物を迷うことなくかごに入れている灯真を見ていると、なんだかなおさら灯真が遠い世界のひとのように思えた。


「……なあ、レイー」


 ふいに灯真が黎を振りかえり、困ったように目を細めて笑う。


「隣おいでよ。話しかけづらいだろ」


 手招きとともに言われ、黎はわずかに瞠目してしまった。それからすぐに過去の記憶が頭をよぎる。買い物の最中、飼い主たちは自分の服を選んでいるときにも黎にあれこれと話しかけていた。だから隣かすぐそばにいるようにしていた。背中を追っていては、確かに話しづらい。言われたとおりに灯真の横に並んだものの、距離の近さに緊張してしまい、呼吸がわずかに浅くなる。


「レイさあ、好きなもんある?」


 おもむろに訊かれ、黎は困惑しながら首を横に振った。それを見た灯真が「ええ?」とおかしそうに声をもらす。


「好きなもんねえの? 困ったな。じゃあ嫌いなもんは? アレルギーはないって言ってたっけ」


 灯真は足を止めることなく会話を続ける。黎はその質問にもかぶりを振った。


「……なんでもいい」


 黎がぽそりと答えると、灯真が足を止め、目線をこちらに向ける。


「なんでも、ねえ」


 灯真は苦笑気味につぶやいたあと、またゆっくりと歩きはじめた。できるだけ隣にいられるよう、灯真にペースを合わせる。

 食べ物に対して好き嫌いなんて考えたこともないし、そもそも言える立場ではない。あったとしても、黎の好みに配慮する必要なんてないはずだ。それなのに、どうしてそんなことを訊いてくるんだろう。黎は居心地の悪さを感じながら、うつむきがちに歩く。灯真はそれきりなにも言わず、手際よく食材をかごへ入れていった。

 店内には野菜だけでなく、肉や魚もあるし、日用品もあった。所狭しと並んでいる商品の多さに圧倒される。


「レイがいるなら、ちょっと多めに買ってもなんとかなるのか」


 灯真はひとりごとのようにつぶやいたあと、黎に顔を向けた。


「荷物持ち頼んだぞ」


 歯をのぞかせて笑った灯真に、黎は首肯を返す。やっと役に立てるんだ、とわずかに安堵したが、それはすぐに消えてしまった。

 今までの飼い主たちがトイレットペーパーやシャンプーのような日用品をどうやって買っていたのかはよく知らない。見たこともなかったし、使わせてもらっているという意識はあったけれどそこまで深く気にしてはなかった。

 しかし、灯真がかごに入れていく品々を見ているうちに、黎はおそろしくなってしまった。荷物持ちとして役に立てるなんて思っていた自分が恥ずかしい。自分がいなければ、本来こんなにたくさん買う必要がなかっただけではないだろうか。なにをどれくらいの頻度でどれだけ買わないといけないのか、黎にはわからない。でも今かごの中に積みあがっている物の中には、黎がいるせいで必要になった物もあるはずだ。その事実にいまさら気づき、黎はぞっとしてしまった。あんたといると金がかかる、と言ったのは、どの飼い主だったっけ。

 黎がおののいているあいだにも、灯真はかごにどんどん商品を入れていく。牛乳のコーナーで立ちどまると、じいっと陳列棚を見つめた。それから大きな紙パックを手に取り、黎を見ていたずらっぽく笑う。


「おまえも飲むってあてにするからな」


 そう言って灯真はかごに牛乳を入れた。その牛乳には、黎のぶんも含まれている。灯真にとって、それは当たり前のことなのだ。

 なにひとつ対価を渡せないまま、ただ負担をかけているだけ。それなのに、なんでこの先も黎がいることを前提に買い物をしているんだ。理解ができない。考えれば考えるほど、息が苦しくなっていく。


「昼メシ、ここでなんか買っていこうぜ。ここの弁当おいしいんだよ」


 灯真がどことなくはずんだ声で弁当コーナーへ向かう。くるりと視線を走らせたあと、黎に笑いかけてきた。


「おまえも好きなの選びな」


 軽い調子で言われ、黎は息を呑んでしまった。そんなこと言われても、選べない。こんなにたくさんある中から、なにを選んでいいかわからない。選べない。選んではいけない。いらない。もうこれ以上、なにも与えられてはいけない。もうじゅうぶんだ。だって自分は、灯真になにも返せない。でもそんなふうに断れば、灯真が気分を害するかもしれない。してあげたんだからありがとうでしょ。また誰かの声が黎の中で響く。

 顔をこわばらせて葛藤していると、灯真が黎を覗きこんできた。


「どうした?」


 気遣わしげな表情を向けられ、黎ははくりとくちびるを震わせる。


「……いらない」


 やっとの思いで喉の奥から声を絞りだすと、灯真の目が丸くなった。


「いらない、って……なに、腹減ってねえの?」


 困惑を隠すことなく訊かれ、黎は小さくかぶりを振る。そういうわけじゃない。わからない。選べない。いらない。もらう資格がない。黎が口をつぐんでいると、灯真がかすかに息を吐いたのがわかった。


「食いたいもんなかった? 違うのにするか?」


 心配されているのがひしひしと伝わってくる。違う。そうじゃない。でも、このぐちゃぐちゃした気持ちをうまく説明できない。


「……わかんない」


 うなだれたままそれだけ言うと、灯真が「わかんないか」と黎の言葉をなぞるようにつぶやいた。わずかな沈黙のあと、灯真が口をひらく。


「わかった。じゃあ、俺のおすすめにするよ。おまえのぶんな。いらなかったら俺が夜食うから、気にしないでいい」


 そう言って灯真が弁当をひとつかごに入れた。灯真自身のぶんと思しき弁当も入れたあと、どこかへ歩きだす。黎は慌てて灯真を追い、隣に並んだ。

 どうやらこのまま精算するらしい。店員が商品をレジに通していく。それを見ていると、ますます息が苦しくなった。こんなにたくさんお金がかかっている。黎が、いるせいで。礼を言うべきなのか、謝るべきなのか、どうすればいいのかわからない。灯真はなにも話さず、てきぱきと商品を袋に詰めていた。

 灯真が持ってきたエコバッグにはおさまりきらず、追加で買ったレジ袋にもぱんぱんに商品が詰めこまれていた。そのうちのひとつを灯真に手渡される。灯真は両手に袋を下げていた。片手が空いているからもうひとつ持つと言うべきか迷ったが、黎が言いだす前に灯真が店の出口に向かってしまったので、タイミングを逃してしまった。一歩ぶんの距離をあけ、灯真と並んで帰路を辿る。


「レイがいてくれたおかげでまとめ買いもできたし、よかったわ。ありがとな」


 帰っている最中ふと灯真に言われ、黎は思わずたじろいでしまった。黎がいるせいでよけいな負担がかかっているはずなのに、どうして礼を言われているのかわからない。黎がいなければ、こんなにたくさん買わずに済んだかもしれないのだ。

 黎が言葉に詰まっていると、視界の端で灯真がまた困り顔で笑ったのが見えた。けれどなにも言おうとはしない。黎もその表情の理由がわからず、くちびるをきつく結んだままひたすら足を動かしつづけた。

 会話もなく、灯真の家に戻ってくる。玄関に入るなり灯真が「ただいまー」と言ったことに、黎は面食らってしまった。他に誰もいないはずなのに、誰に向けて言ったんだろう。黎が驚いているあいだに、灯真は家の中へ入っていった。黎も靴を脱ぎ、灯真の後を追う。


「レイ、片付け手伝ってもらっていい?」


 灯真が買い物袋をワークトップに置きながら、黎に声をかける。黎がうなずくと「袋から出したもの渡してほしい」と灯真は冷蔵庫の前に立った。言われたとおり、袋の中身をひとつずつ渡していく。野菜、野菜、野菜、肉、魚、野菜、肉、豆腐、魚、納豆、野菜、調味料、牛乳。買ってきたものを手に取るたび、黎の心が重く沈んでいく。

 たぶんこれは、ぜんぶふたりぶんの量だ。黎がいなければ、こんなにたくさん買わなくてよかったものたち。黎がいるから、買わないといけなかったものたち。

 くちびるを嚙み、灯真にひたすら中身を手渡していく。食料品をすべて片付けると、灯真は日用品を袋にひとまとめにした。


「ありがと。助かったわ」


 灯真は口角を上げてそう言い、袋を持って廊下へと出ていった。シャンプーやボディーソープがあったから、それを片付けに行ったのかもしれない。黎はキッチンで立ちつくしたままうなだれる。これじゃ、足りない。こんな手伝い程度じゃ、役に立ったとは思えない。世話してもらっているのに、あんなにたくさん買わせて負担になっているのに、自分は灯真になにもできない。


「どうした、そんなとこで」


 灯真に声をかけられ、黎ははっと意識を戻す。声のしたほうを振りかえると、片付けから戻ってきた灯真が眉を下げて黎を見ていた。黎は小さくかぶりを振る。灯真は肩をすくめ、黎から目線を外した。


「メシ食うには……はやいよなあ」


 悩ましげな表情をしている灯真の目線をたどる。どうやら壁の時計を見ているらしい。まだ十一時にもなっていなかった。灯真が黎に視線を戻す。


「レイ、腹減った?」


 困り顔で訊かれ、黎は首を横に振った。灯真は「だよなあ」と笑い、そのまま寝室へと入っていった。少しもしないうちに出てきて、今度はソファに座る。寝室から持ってきたのか、本を一冊手にしていた。


「そんなとこ立ってないで、おまえも適当に座りな」


 笑みまじりに言われ、黎は視線をさまよわせた。適当に、と言われても、どこに座ればいいかわからない。昨日までなら灯真の足元に座れたけれど、今はそれすらゆるされていないような気分になっていた。かといって他の場所を選ぶこともできず、黎は結局灯真の足に添うかたちで座る。すると背後から無言で頭を撫でられた。黎は喉の奥が詰まるような感覚を覚えながら膝を抱える。

 灯真は本を読んでいるのか、なにも話さない。視界の端でときどきページをめくっているのが見える。今日はテレビもついていないから、とても静かだった。なにもすることがない。なにもできない。それなのに世話だけをしてもらっている。負担を、迷惑をかけている。このまま黙っていればずっとここで飼ってもらえるかもしれない。なにもしなくたって世話してもらえるならそれでいいと思うことなんて、できなかった。


「……ねえ」


 かすれた声で呼びかけると、灯真の手の動きが止まった。「どうした?」と声が返ってきて、黎は灯真を見ないまま体を縮こまらせる。


「……おれ、いつまでここにいていいの」


 絞りだした声はかすかに震えていた。灯真がふっと息を吐いた音が鼓膜にふれる。


「いつまででも。おまえがもういいやってなるまで、いていいよ」


 穏やかな声音で灯真が言う。心臓が握りつぶされたみたいに苦しい。膝を抱える腕に力がこもる。


「……もういいよ」


 喉の奥から声がこぼれおちる。もういい。もうじゅうぶんだった。なにもできないのに、なにも返せないのに、なんの役にも立てないのに、ここにいていいはずがない。世話をしてもらう資格がない。わずかな沈黙のあとに本を閉じた音が聞こえ、黎はかすかに肩を揺らす。


「ここにいるの、嫌になった?」


 少しだけひそめられた声で静かに問われ、黎はためらうことなく首を横に振った。違う。そんなことは思っていない。嫌じゃない。けれど、いていいとは思えない。灯真の手が頭にふれ、黎の肩が跳ねる。


「ここを出たとして、行くあてはあんの? 今日寝るところは見つけられんの?」


 ぽん、ぽん、と頭を撫でながら、灯真が優しい声で訊く。黎は肯定も否定もせず、くちびるを嚙んだ。行くあてなんてない。もしかしたら次の飼い主に拾われるかもしれないけれど、今日必ず見つけられるという保証なんてない。黎の沈黙をどうとらえたのかはわからないが、灯真がやわらかなため息をついた。


「レイが嫌じゃないなら、今はここにいな。次住むところが見つかるまででもいいから。おまえが出ていきたいって言うなら止めないけど、俺はおまえが、寒い中野宿したり、ひもじい思いとかするの、嫌だよ」


 言いふくめるような灯真の言葉に、黎はぎゅっと拳を握りしめてしまった。なんだそれは。なんで。理解ができない。なんで。なんで灯真が、嫌だと思うんだ。なんで。なんで。


「……なんで」


 自分の内側にとどめきれなかった戸惑いが口をついて出る。それを聞いて、灯真がふっと笑った。


「なんでって言われても。そりゃ嫌だろ、こどもがそんな思いすんの。……いや、たとえおまえがおとなだったとしても気にするわ。それならここにいなよって思うけど」


 灯真が笑みまじりに言う。それを聞いて、なおさらわからなくなった。なんで灯真が嫌だと思うんだ。なんで灯真が気にするんだ。寒いのもひもじいのも我慢できるのに、灯真はそんな思いをするならここにいていいという。それなら、役割がほしい。世話をしてもらうなら、代わりに、役割を与えてほしい。そうしないと、ここにいられない。なにもしないのに世話をしてもらうなんて、そんなことはゆるされない。


「おれ、なにができるの」


 黎はうつむいたまま、すがるように問いかける。


「ここにいるなら、おれ、なにをしたらいいの。なんでもするよ。おれ、なんでも。なんでもいいから、なにか、してほしいことないの」


 役割がほしい。答えがほしい。必死の思いで訊いてすぐ、灯真がぐしゃりと黎の髪をかきまぜた。


「……言っただろ。おまえは元気にのびのびしててくれりゃ、それでいいんだよ。あったかいところで、あったかいメシ食って、眠くなったら寝て、それでいいんだよ。おまえがなんかしたいなら好きなようにしたらいいけど、なんかやらないといけないってことはないんだよ」


 灯真は黎の頭を撫でながら、ひとつひとつ言いきかせるようにゆっくりと話した。黎のくちびるから浅い息がもれる。まただ。また、なんの役割ももらえない。呼吸がだんだん短くなっていく。黎はくちびるを強く噛み、膝に額がつくほど丸くなった。それでもなお、灯真はゆったりと黎を撫でつづける。

 どうして灯真は、なにも求めてくれないんだろう。ここにいるためにはなにをしたらいいのか。なにをすればここにいていいのか。望んだ答えはなにひとつもらえないまま、他のものばかりを与えられ、ここにいることを許されている現実は、黎にとって未知のことで、ただひたすらにおそろしかった。

 役割を果たせなければ、対価を差しだせなければ、いつか灯真も、黎を不要とする。それならいっそ、今すぐどこかへ行けと、もういらないと言ってくれたほうがいい。そのほうが、苦しくない。だからもう捨ててほしい。なのに、……この手を振りはらって、出ていこうと、思えない。

 黎を撫でる灯真のてのひらはひたすらに優しくて、痛いことなんてなにもされていないはずなのに、心臓がずっと痛くて、息が苦しくて、黎は体をこわばらせたままじっと膝を抱えていた。



初めてのオリジナル小説です。

楽しんでいただけると嬉しいです。

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