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物音が聞こえた気がして、黎はふっと目を覚ます。寝ぼけながらもはためかせた手が空を切ったことで、もう彼女の隣で寝ていないことを思いだした。暗がりの中、てのひらをじっと見つめる。
彼女の声も、顔も、言われたことも、最後の表情も、まだはっきりと覚えている。でもその前の飼い主のことはぼんやりとしか思いだせない。前も、その前も。言われたことだけはずっと生々しく残っているけれど、どんなふるまいを求められていたかは曖昧だ。……この癖は、いつまで残っているんだろう。考えこんでいたら、ドアの向こうから足音が聞こえてきた。黎は慌てて目をつむる。
ドアのひらく音。足音。あくびの声。カーテンがひらく音。足音。目を閉じたまま、灯真の立てる物音に耳を澄ませる。足音がゆっくりと近づいてきて、大きなてのひらが頭を撫でた。毛布が直され、足音が廊下のほうへ遠ざかっていったのを聞いてから、黎はそっとまぶたを持ちあげた。
毎朝くりかえされるこの行為にもいっこうに慣れない。黎は毛布にくるまりながらもぞもぞと両足のつまさきを擦りあわせる。灯真はなにを考えて黎の頭を撫で、毛布を直しているんだろう。黎が寝たふりしていることに気づいているのかもしれないけれど、灯真からなにかを言及されたことはなかったし、黎からふれることもできないままだった。
灯真が洗面所にいるあいだに上体を起こす。昨日テーブルに置きっぱなしにしていたマグカップはどこにもなかった。灯真が片付けてくれたんだろうか。ぼうっとテーブルを見つめていると、灯真がリビングに戻ってきた。
「おはよー」
のんびりと声をかけられ、黎は一瞬怖気付いたけれど小さくうなずいた。灯真はそれを見ていたのかどうなのか、ふわふわとあくびをしながらキッチンに立つ。そのまま朝食の準備をするのかもしれない。黎はそっと深呼吸をしてから「……あの」と灯真に声をかけた。灯真の目線がこちらへ向く。
「……はみがき、してくる」
つっかえながらも言うと、灯真がふわりとほほえんだ。
「ん、いってら」
さらりと送りだされ、黎は早足で洗面所へと向かう。洗面台のふちに手をつき、大きく息を吐きだした。
訊かれていないことで自分から意思を示したのは初めてだった。歯を磨くと伝えただけなのに、心臓がばくばくと鳴っている。それでも黎の胸には、うまく言葉にできない安堵のようなものが広がっていた。
身支度を整え部屋に戻ると「おかえり」と声をかけられた。その言葉をどう受けとめればいいのかわからず、黎の顔に力が入る。しかし灯真はこちらを見ることなく作業を続けていた。その先の行動をうながすこともない。黎は息を吸い、ダイニングチェアに腰かけた。昨日までは、そうしていたから。灯真の様子をうかがってみたが、灯真はやはりなにも言わずに朝食の用意をしていた。咎められないのならこれで合っていたのだろうか。おちつかなくて、黎の目があちこち泳ぐ。
少しして、灯真が朝食とコーヒーを用意してくれた。「いただきます」と言い、灯真が食べはじめる。黎も灯真に倣い、箸を手に取った。夕飯は毎日違うけれど、朝食は同じなんだな、と思いながら黙々と食べすすめる。
灯真が食べおわってからあいだをあけず、黎も朝食を終えた。食後の挨拶をした灯真が洗い物をしているのを、黎は食卓からじっと見つめる。頭の中では昨日の灯真とのやりとりがずっと渦巻いていた。
「レイー」
洗い物を終えた灯真に呼びかけられ、黎は灯真と目を合わせる。
「今から買い物行くんだけど、レイも行く?」
小さく首をかしげながら訊かれ、黎はぱちりと目を瞬かせた。
「……いっていいの」
おそるおそる尋ねると、灯真がまなじりをゆるませる。
「当たり前じゃん。ついてきたら、おまえにも荷物持ってもらうけどな」
どこかいたずらっぽく言われ、黎はまたも目をしばたたかせてしまった。当たり前なのか、と灯真の言葉を頭でなぞる。胸の奥がこそばゆい。しかし今はそれよりも、灯真の買い物に同行することで役に立てるのかもしれないということのほうに意識がひっぱられた。
黎がうなずくと、灯真が「待ってな」と言いのこして寝室へ入る。言われたとおり待っていると、灯真が服を抱えて戻ってきた。
「黎、ちょっと立って」
どさどさと床に服を落としながら言われ、黎は椅子から立ちあがる。
「さすがにそれで買い物行くのはあれだし、着替えな。着れると思うけど」
言いながら、灯真は黎に今持ってきた服を当てて見比べてきた。灯真もこれをするのか、と黎は息を詰める。久しぶりの状況に、身動きひとつしないよう気をつけながら、真剣な表情で服を選んでいる灯真を眺めた。
「ん。これかな?」
しばらくしてコーディネートが決まったのか、灯真が服を手渡してくる。
「俺も着替えてくるから、着替えてな」
灯真は使わなかった服を拾い、寝室へと戻っていった。黎は静かに息を吐き、渡された服を見る。たぶんこれも、灯真の私服なんだろう。飼い主にその日着る服を選ばれたことはあるけれど、部屋着ではない服を貸してもらうのは初めてだ。緊張しながらも着替える。
「着替えたかー?」
着替えおわって少したつと、寝室の向こうから声をかけられた。うなずこうとして、それでは灯真に見えないことに気づく。黎は息を吸い、「着替えた」と声を張った。久しぶりに大きな声を出したせいでけほりと咳きこむ。黎の返事がちゃんと聞こえたのか、灯真が寝室から出てきた。
「お、いいじゃん」
黎を見るなり、灯真がにっと口角を上げる。なにか他にも言われるかもと身構えたけれど、灯真はもう外出の準備を進めていた。黎は浅く息を吐き、冷蔵庫の中を確認している灯真を眺める。灯真はスーツともスウェットとも違うカジュアルな装いをしていた。貸してもらったものと色味が似ている気がする、とあらためて服を見る。部屋着以外の服を着たのはかなり久しぶりだった。なんだかおちつかなくて、黎は結んだくちびるに力をこめた。
「じゃあ行くか。つっても歩いていけるとこだから、大した距離じゃねえけど」
玄関へ向かう灯真の後ろをついていく。数日ぶりに見たサンダルを履こうとして「あ、待って」と灯真に声をかけられた。
「靴、サイズ違うかもしんないけどこれ履きな。そんなサンダルじゃ寒いだろ」
そう言って、灯真が黎の前に靴を出してくれた。黎はそれに従い、その靴に足を通す。灯真の靴はほんの少し小さい気もするけれど、履けないほどではなかった。
灯真に続いて外に出る。薄曇りだけれどまぶしくて、黎は思わず目をすがめた。
「こっちだよ」
灯真が先導するのにあわせ、黎もその背中を追う。外に出るのは追いだされた日以来だ。とはいえまだそんなにたっていないはずだけれど、外気の冷たさに慣れなくて、ほんのりと頬が痛かった。
初めてのオリジナル小説です。
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