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 陽が沈み、部屋の中が真っ暗になったころ、灯真が小さなうなり声とともに身じろいだ。黎は息を呑み、灯真の様子をうかがう。灯真は緩慢に瞬きしたあと、眠たそうな目で黎をとらえた。


「んあ、へや、くら……いまなんじ……?」


 灯真が口の中が見えるくらい大きなあくびをする。それからゆるく握った手で目元をこすった。


「れー、すまほとって……」


 目を掻きながら言われ、黎は思わず瞠目する。灯真がしてほしいことを言ってくれたのに、体が素直に動かない。スマホをさわるなんて、そんなことしていいのだろうか。黎がさわっても、嫌じゃないのだろうか。その指示に従って、怒られはしないのだろうか。


「……さわっていいの」

「うん、いーよ」


 かすれた声でなんとか訊ねると、灯真が黎を見てふにゃりと笑った。いいのか、と黎はますます目を瞠る。自分の鼓動がはやいのを自覚しながらも、テーブルの上に置かれていた灯真のスマホをそっとつまみ、おずおずと差しだした。


「ありがと」


 軽い調子で礼を言われ、黎はくちびるをきつく結ぶ。こんなことでありがとうと言ってもらえるなんて。スマホの画面が明るくなり、灯真の顔をぱっと照らした。


「うわ、十七時? 寝すぎた、やべえ」


 慌てたような声で言って、灯真がのっそり体を起こした。くわあとまた大きなあくびをしたあと、黎を見て眉を下げる。


「おまえも寝てたの?」


 尋ねられ、黎は首を横に振った。ずっと灯真を眺めていたから、寝ていない。すると灯真がぱちくりと目を丸くする。


「起きてたのに、こんな暗いとこいたのか? あ、俺が寝てたから電気つけづらかったか」


 話しているうちに自分で納得してしまったのか、灯真がまた困り顔になった。違う。そんな理由じゃないのに。慌てて首を振り否定したが、灯真にはうまく伝わらなかったのかもしれない。困り顔がほどけることはなかった。


「レイ、電気つけてきてもらってもいいか?」


 まだ寝起きの声をしている灯真に頼まれ、黎は眉を寄せた。またやることをもらえたのに、動けない。どうしていいかわからない。黎が黙っていると、灯真が気遣わしげに黎を見て首をかしげた。


「どうした?」


 黎はしばらくためらったあと、こわごわと息を吸う。


「……つけかた、わかんない」


 役立たず、と罵る誰かの声が鼓膜によみがえる。灯真は何度か瞬きしたあと、「うわ、そっか」と小さく声をもらした。灯真の手が伸びてきて、体が固まる。


「ごめんな、気づいてなかった」


 しかし灯真は黎の頭をやわく撫でただけで、それ以上のことはなにもしなかった。そのうえ謝られたこともうまく理解できず、黎は呆然と灯真を見る。


「だからいつも部屋暗かったのか。ごめん、言えばよかったな。おいで」


 そう言って灯真がソファを降りる。またも謝らせてしまったことに心苦しさを感じながらも、黎は灯真の後を追った。


「ここだよ、ここにスイッチある。押せばつくし、もう一回押せば消えるから」


 灯真が壁のスイッチを押す。部屋がぱっと明るくなった。まぶしさに一瞬目を閉じてしまう。


「部屋、真っ暗なほうが好きなんだったらそれでいいけど、そういうわけじゃないなら電気くらい勝手につけていいんだよ」


 灯真は眉を下げて言ったあと、窓のほうへと歩いていった。その後ろをついていくと、灯真がカーテンを閉める。


「……いいの」


 黎がつぶやくように訊くと、灯真がこちらを向いてふはりと笑った。


「いいよ。もちろん」


 穏やかな声が返ってきて、黎の肩からふっと力が抜ける。灯真はまだ眠いのかあくびをしたあと、黎を見て小首をかしげた。


「昼いっぱい食ったからあんま腹減ってねえや。レイは? 腹減ってる?」


 灯真に訊かれ、黎はわずかに迷ったものの首を横に振った。空腹かどうか、よくわからない。腹が鳴ってないからきっとまだ大丈夫なんだろう。


「そっか」


 灯真は軽い調子でそれだけ言って、今度は廊下のほうへと向かった。黎もなんとなくその後ろをついていく。灯真は一度だけ黎を振りかえり、ふっと瞳を細めた。


「風呂沸かすから、先入りな」


 平然と言われ、黎はくちびるを薄くひらく。いつも自分ばかりが先に入らせてもらっているのが申し訳なかった。灯真の家なんだから、すべて灯真が優先でいいはずなのに。けれど灯真が先に入れと言うなら、それに従うべきなのかもしれない。結局なにも言えずに立ちつくしているうちに、灯真は風呂の支度を終えたらしい。黎の肩をぽんと叩いた灯真に「部屋戻るぞ」と声をかけられる。黎ははっと意識を戻し、灯真の後ろをついてリビングへ戻った。

 灯真がソファに座り、テレビをつける。灯真が寝る前はついていたはずなのに、いつのまにか消えていたらしい。リモコンを操作している灯真を見ながら、黎は目線をさまよわせる。座れとは言われていない。座るとして、場所の指定もされていない。どうするか悩んだ結果、黎はソファの空いた座面の前にそろりと腰を下ろした。灯真の手足だけが視界に映る。


「ソファ座ってもいいんだよ。狭いけど、場所空いてるし」


 座面を軽く叩く音とともに話しかけられ、黎は体をひねって灯真を見た。灯真の眉がまた下がっている。黎は灯真とソファと自分の足元を何度も見たあと、首を横に振った。「ここで……」と言いかけて、はっとする。この言い方はだめな言い方だ。それでいい、は、怒られる。黎は息を吸いこみ、あらためて灯真を見た。


「……ここ、がいい」


 心臓が爆発しそうなくらい跳ねている。それでもなんとか言いきると、灯真は「そう? ならいいけど」とこともなげに言った。そのまま灯真の視線がテレビに向く。黎は小さくうなずいてから、膝を抱えて座りなおした。灯真に倣うように前を向く。

 座っていいなら、場所はどこだっていい。言われたところに座る。床でも、ソファでも、飼い主の隣でも、どこでも。けれど……けれど、もし選ぶことがゆるされるのなら、ソファに座るよりも、灯真の隣に座るよりも、足元のほうがよかった。なぜかわからないけれど、ここのほうが、おちつくような気がした。

 しばらくして、風呂が沸いたのを知らせる音が鳴った。灯真がこちらを見ることなく「いってらー」と声をかける。黎はのろい動きで腰を上げ、うながされるままに浴室へと向かった。洗面所に入り、静かに息を吐く。

 ここに来てから毎日同じように風呂へ入らせてもらっているが、まだ慣れない。こんなに続けてあたたかな湯船に浸かるのは、もしかしたら初めてかもしれなかった。黎は全身を洗い、浴槽の中で抱えた膝に頬をくっつける。

 静かだ、と思った。自分が立てる音以外なにもない。灯真の気配もない。静かで、ひとりだった。黎はふいに、自分の内側が妙にざわめくのを感じる。

 ここは灯真の家だ。だから灯真がどこかへ行くことなんてないはずなのに、風呂から出たらいなくなってるかもしれない、と急に不安になった。それかこれまでのことはぜんぶ夢で、風呂から出たら元の飼い主のところに繋がっているのかも。あるいはなにもできない黎に愛想を尽かした灯真に、もう面倒見られないと追いだされるかも。

 ひとつ考えはじめたからか、一気に不安がふくれあがっていく。それに耐えられず、黎はいつもよりはやいとわかっていても風呂を出た。今日はゆっくりと言われていないから、と自分に言い訳をしながら体を拭き、服を着る。悠長に髪を拭いている気にもなれない。かといって水滴が落ちれば、灯真に迷惑がかかる。考えた末に首にタオルをかけて部屋に戻ると、ソファにいた灯真が黎を見てわずかに目を丸くした。


「はやいな、ちゃんとあったまった?」


 驚いた様子で訊かれ、黎は曖昧に顎を引いた。あたたまったとは思う。しかし自分でもはやく上がった自覚があるから、じゅうぶんだったのかはわからない。


「おいで。ここ、しゃがみな」


 困り顔で笑う灯真に手招かれ、黎は灯真を直視しないようにしながらも足元にしゃがみこんだ。首にかけていたタオルがするりと抜きとられる。かと思うと灯真がまた黎の髪を拭いてくれた。灯真の手に頭を委ねたまま、黎はそっとくちびるを嚙む。

 当たり前のようにくりかえされるこの行為。されている最中はどうしてもそわついておちつかない。灯真の手を煩わせている。この程度もできない役立たずだ。頭の中で誰かが黎を罵っている。にもかかわらず、自分が今どこか安堵を感じているのも、黎はうっすら自覚していた。黎は膝を抱える腕に力をこめる。タオルがあいだに挟まっているはずなのに、灯真のてのひらを強く意識してしまっていた。


「ん。まあこんなもんか」


 灯真は仕上げのように黎の髪を手櫛で整えたあと、タオルを持って立ちあがった。


「俺も風呂入ってくるわ」


 そう言って灯真が浴室へと向かう。灯真が座っていたところには、今日もスマホが放りだされていた。なぜ、と黎は苦いものを見るように顔をしかめる。もう持っていかないことにしたのだろうか。黎の前にスマホを放置していても、気にしていないんだろうか。

 黎はそっと息をこぼし、ソファの座面に背中を預けるように座りなおした。できるかぎりスマホを視界に入れたくなかった。

 なにも見ていないのに怒られるのと、さわっても怒られないのは、どっちのほうがいいんだろう。答えの出ないことを考えながらも、背後に置きっぱなしのスマホの存在をずっと感じていた。

 ぼうっとテレビの画面を眺めていたら、灯真が風呂から戻ってきた。黎は灯真に顔を向ける。灯真はそのままキッチンに立ち、悩ましげに腕を組んだ。「なに食うかなあ」とつぶやいたのが聞こえる。


「……昼ジャンクだったし、軽くうどんでも食うか」


 少し悩んだあとにそう言って、灯真が夕飯の支度を始めた。その言葉がひとりごとなのか黎にも向けられているものなのかは、判然としなかった。

 黎はソファの前に座ったまま、灯真の動きを目で追いつづける。灯真はあっというまに夕飯の用意を終わらせたらしい。エプロンを外し、黎に笑いかけた。


「おいで、食べよ」


 灯真に呼ばれ、黎はのたのたと食卓につく。それとほとんど同時に、灯真がふたつの丼をそれぞれの席の前に置いた。灯真が黎の向かいに座り、手を合わせる。


「いただきます」


 灯真は快活に言って、うどんをすすった。黎ももくもくと湯気の立つ丼へ視線を落とす。うどんだけでなく肉や野菜などの具まで入っていて、黎は内心驚いてしまった。あんな短い時間で、こんなに豪華なうどんを作れるなんて。

 黎はそうっと箸に手を伸ばし、ひとくちサイズに切られた肉を口に入れた。指示されることなく食べはじめても、灯真は気にした様子もなく自分のうどんを食べすすめていた。

 灯真が食べおわってからあまり時間をあけず、黎もうどんを完食した。汁まで飲みきり、息を吐く。


「ごちそうさま」


 灯真はそう言っていつもどおり食器を下げ、洗い物を始めた。黎は椅子に座ったままその様子を見つめたあと、深呼吸をする。


「……あの」


 黎が声をかけると、灯真が手を止めることなく目線だけを黎に向けた。


「おれ、やったほうがいいの。できるよ、洗い物」


 かすかに震える声でなんとか訊くと、灯真がふはっと笑った。


「やりたい?」


 ゆるやかに瞳を細めた灯真に訊かれ、黎は言葉に詰まってしまった。そのまま会話が途切れる。

 灯真に訊いたのはそれくらいやらないといけないのではと思ったからで、やりたいとか、やりたくないとか、そんなことは考えてもいなかった。今朝の掃除の話が頭をよぎる。やりたいならやればいいけどやりたくないならやらなくていい。じゃあ、今は、どっちなんだろう。黎が考えこんでいるうちに、灯真は手元に視線を戻していた。


「おまえがやりたいって言うなら任せるけど、そうじゃないなら座ってていいよ。言っただろ。おまえは元気にのびのびくつろいでればそれでいいって。気にしなくていいよ」


 笑みまじりに言われてしまい、黎はくちびるの内側を強く嚙みしめた。

 なにもしなくていいよ。かつての飼い主たちの声が鼓膜の奥で勝手に再生される。大丈夫だよ。安心して。わたしがちゃんとお世話してあげる。俺に任せておけばそれでいい。だから、なにもしなくていいよ。みんな、優しい笑顔とともにそう言ってくれた。

 けれどどの飼い主たちも、長く一緒にいるうちになんでなにもしないのかと黎を叱責するようになった。それくらい普通やるでしょ。甘えすぎ。そう怒られても、黎には普通なんてわからない。なにをすればいいのか、なにをしなくていいのかの判断もできなかった。

 言われたことをやろうとしても、うまくできない。正しいやり方を教わったこともなかった。失敗すれば、よけいに飼い主の手を煩わせてしまう。セックスだけじゃその苛立ちをぬぐいきれない。そうしてどの飼い主たちも、最後は黎を追いだした。これ以上面倒見きれない。彼氏ができたからもういらない。邪魔。さっさと出ていって。それが黎にとっての、当たり前だ。

 灯真もきっと、いつかそうなる。その前に、なにかしたほうがいいのでは。しかし灯真はなにもしなくていいと言う。じゃあどうすればいいんだ。どうすれば、捨てられないで済むんだ。誰か正解を教えてほしい。不安ばかりがじくじくと強くなる。洗い物をする水の音が、いつもよりもやけに大きく聞こえた。

 ずっと鳴っていた流水音が止まり、黎ははっと意識を戻す。灯真に目を向けると、洗い物を終えたのか冷蔵庫の前に立っていた。牛乳パックを取りだしたあと、顔の横にかかげて黎を見る。


「ココア作るけどレイも飲む?」


 灯真に訊かれ、黎は反射でうなずく。ためらうそぶりを見せるのさえ、今はこわかった。

 灯真はふたりぶんのココアを作り、それをローテーブルに置いた。そのままラグに腰を下ろす。そこに来いということなんだろうか。黎はなぜか重い体をなんとか動かし、ソファのほうへと向かった。息を潜め、灯真のななめ後ろあたりに座る。映画を見ていたときよりも遠い場所。手を伸ばさないと届かない。ここなら、体がふれてしまうかもと緊張することもない。灯真は少しだけ眉を下げ、黎にマグカップを手渡してくれた。


「今日もゲームさせて。明るくて悪いけど、眠くなったら寝てな」


 それだけ言って、灯真がテレビに向きなおる。いつのまにかテレビの画面は、昨晩眺めていたゲームの画面に替わっていた。

 黎はマグカップを持ったまま、ゲームの画面と灯真の後ろ姿をただ見つめる。頭の中がずっとぐちゃぐちゃと騒がしくてしかたなかった。なにも考えたくない。言われたことだけをやっていたい。言われてないことをやらないといけないなら正解がほしい。

 黎は手元のココアに目を向ける。これを飲むのは、たぶん、正解だ。作ってもらったのだから、飲まなければ。そう思い、カップに口をつける。すると甘やかな香りが鼻からふわりと抜けていった。あたたかいココアが口の中にじんわりと広がる。黎は知らず知らずのうちに、ずっと詰めていた息をゆるませていた。

 邪魔にならないようにできるだけ小さくなって座りながら、ゆっくりとココアを飲み、ゲームと灯真を眺める。ココアがあたたかいからだろうか。だんだんと眠気が強くなっていることに気づき、黎はあくびを嚙みころした。そういえば今日は昼間もずっと起きていたことに思いいたる。

 少しぬるくなってから、ようやくココアを飲みおえた。マグカップをそうっとテーブルに置くと、「お」と灯真が声をもらした。黎の肩が勝手に跳ねる。


「飲みおわった? 眠くなったらいつでも寝ていいからな。カップもそのままでいいよ。寝る前に歯磨きだけしておいでね」


 こちらを見ることなく言われ、黎は洗面所へと向かった。歯を磨けと言われたからそれに従ったものの、ココアの甘みが歯磨き粉に上書きされていくのは、なんだか少しもったいないような気分になってしまった。甘かったな、とぼんやり思いながら、歯磨きを終えて口をゆすぐ。口内にはもう清涼感しか残っていなかった。

 黎が部屋に戻ると、灯真はゲームから目を離すことなく「おかえり」と出迎えてくれた。ただ歯を磨いてきただけなのに。風呂から戻っても、歯を磨いても、おかえりと言われることに慣れなくて、黎は奥歯をぐっと噛みしめる。おかえりなんて、今まで言われたことがあっただろうか。

 自分で思っていたよりも眠いのか、また小さなあくびがこぼれかけた。眠くなったら寝ろ、の言葉に従い、ソファに横になる。それに気づいたのか灯真が体をひねって振りかえった。手が伸びてくるのが見えた途端、体がこわばる。しかしその手は、黎の髪を混ぜるように頭を撫でただけですぐに離れていった。


「おやすみ。まぶしくてごめんな」


 灯真は眉を下げて言い、すぐにテレビへと向きなおった。おかえりにも、おやすみにも、なんの反応もできなかった、と思いながら、黎は鼻先まで毛布にうずまる。昼間灯真が使っていたからか、昨日までよりも灯真のにおいが濃く残っているような気がして、黎は静かに息を吸いこんだ。

 とろとろと瞬きをしながら、ゲームに夢中になっている灯真の背中を見る。その背に手を伸ばそうとして、けれど今夜もできないまま、毛布の中でぎゅっと体を丸めた。

 どうしてあの背中にふれたくなるんだろう。隣にいるときは少し体を揺らせばふれてしまいそうなことに怯えていたはずではないか。

 ただでさえ灯真のなにもかもがわからなくて困っているのに、そのうえ自分のことすらわからなくなっていく。自分が自分ではないみたいだ。これからもここにいたら、自分はどうなってしまうんだ。このままだと、知らない自分になってしまうかもしれない。それがこわいと思うくせに、昼間に出ていかなかったことを後悔する気持ちはどこにもないのが、ふしぎで、わけがわからなくて、よけいにこわかった。



初めてのオリジナル小説です。

楽しんでいただけると嬉しいです。

感想・コメントなどいただけると励みになります。

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