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1-13


 灯真は掃除が終わっても、こまごまとした家事をのんびりとこなしていた。すべて終わるころには、もう昼近くになっていた。


「つかれたー」


 灯真は言葉とは裏腹に軽やかな声で言い、ソファに座った。そのままスマホを操作しはじめる。黎はソファのそばで立ちつくしたまま、視線をさまよわせてしまった。どこに座るべきなのか、なにも言われていない。それなら立っていればいいのか、座ればいいのか。散々迷った結果、灯真の足元に添うかたちで座った。これでも大丈夫だろうか、と灯真の様子をうかがう。灯真はスマホを見つめたまま、なぜか難しい顔をしていた。間違えたのかもしれない、と黎の胸に不安が広がる。


「なあ、レイさあ」


 こちらを見ることなく声をかけられ、黎の肩が大きく跳ねた。そのせいか、灯真が目線だけを黎に向け、口端をかすかにゆるませる。


「昼、なに食いたい? なに食うか決めらんなくて」


 なにを言われるのかと身構えていた黎は、まったく予想もしていなかった質問に目を瞬かせてしまった。


「……あるの?」


 黎がぽそりとこぼすと、灯真の目尻に皺が寄る。


「そりゃあるよ。腹減っただろ。俺も腹減ったし」


 当たり前のように言われ、黎はますます戸惑ってしまった。目をしばたたいていると、灯真がスマホから視線を外し、おかしそうに息をもらす。


「なんでそんな顔してんの」


 喉の奥で笑いながら訊かれ、黎の目が泳いだ。答えることで怒らせたりしないだろうか。でも、答えなければ。黎は覚悟を決めて息を吸いこんだ。


「……昨日みたいなの、なかったから」


 正直に白状すると、灯真がぱちりと瞬きをした。「きのう……?」とゆっくり首をかしげる。怒られるのだろうか。こんな、身の程知らずのことを考えていたから。黎の肩に自然と力がこもっていく。


「……ああ!」


 灯真はわずかに考えこんだあと、ふいに声を上げた。それに驚いてしまい、一瞬息が止まる。


「昨日みたいなのって、弁当の話か? 今日は作んないよ。俺も休みだもん。あれはまた月曜日な」


 言いながら、灯真がくつくつと笑う。灯真の言葉を頭の中でなぞっているうちに、くちびるの隙間からかすれた吐息がこぼれおちた。

 月曜日。今日は土曜日で、明日は日曜日。灯真は日曜日も休みだから、灯真が仕事に行く月曜日になったら、また、あの昼食を用意してもらえる。月曜日になってもここに黎がいることを、疑ってすらいないかのような口ぶりだった。

 月曜日まで、まだたっぷりと時間がある。それまでどころか、月曜日になってもここにいていいのだろうか。また灯真に、昼食を用意してもらっていいのだろうか。それは、身の程知らずのわがままではないのだろうか。自分は灯真になにもできていないのに。

 黎はくちびるを結び、膝を抱えなおした。そのままつまさきに視線を落とす。視界の端に、灯真がまたスマホを操作しているのが映った。


「あ!」


 しばらくお互い無言の時間が続いたあと、灯真が唐突に大きな声を出した。黎の肩がびくりと揺れる。


「なあ、レイ!」


 まだ動揺が残る中で呼ばれ、黎は心臓を跳ねさせながらもなんとか灯真を見た。灯真の瞳が輝いて見えて、黎は目をしばたたく。


「おまえピザ好き⁉︎ ピザ食う⁉︎」


 つかみかからんばかりの勢いで訊かれ、黎はその勢いに圧倒されてしまった。なにも考えられないまま反射でうなずいたあと、ピザ、という言葉にようやく思考がたどりついた。


「好き⁉︎ いいねえ!」


 灯真は黎の反応を肯定ととらえてしまったらしい。わかりやすいほどうきうきしてスマホに視線を戻す。もういまさらなにかを言いだせる空気ではなくなった。好きかどうかなんてわからないのに。うろたえている黎をよそに、灯真が声をはずませる。


「いやあ、この歳になると、ちっちゃいピザでもひとりで食いきるのきついんだよ。残してあとで食うのもなんか違うしさあ。斎はピザあんまり好きじゃないとか言うし。でもレイがいるなら半分ずつで食えるんじゃねって。おまえがいいなら、昼はピザ食おうぜ」


 少し早口で話したあと、灯真は黎を見てにっと歯をのぞかせた。少年のような笑みがなぜかまぶしく見えて、黎の肩から力が抜ける。


「なににすっかなー。せっかくだから、サイドメニューも頼んじゃおっかな。レイは? なに系のピザがいい?」

「な、なんでもいい」


 もう完全にピザを注文する流れになったらしい。意見を求められ、黎はどもりながらもなんとか返事をした。ピザなんてほとんど食べたことがない。かなり昔に、そのときの飼い主が残したひときれをもらったきりだった。味すら覚えていないのに、どんなのと言われてもわかるはずがない。黎の返答が不満だったのか、灯真がむっとくちびるを尖らせた。間違えた、と一瞬で血の気が引く。


「そんな、なんでもいいはつまんねえじゃん。レイも一緒に見ようぜ」


 灯真がソファから降り無防備にスマホを見せてきたことに驚き、目が泳ぐ。画面を見たら怒られるかも、でも一緒に見ようと言われたから、と黎はおちつかなさを感じながらも灯真のスマホを見る。

 写真を見たところでなにが違うのかわからないうえに、体がくっつきそうなほどすぐそばに灯真がいることに意識がどんどん引きずられ、なおさら頭に入ってこない。そもそも灯真が食べたいのなら、灯真の好きなピザを選べばいいのではないだろうか。灯真がどれを選んだとしても、文句なんて言わないのに。

 ずらずらと並ぶピザの写真をスクロールに合わせて目で追っていると、灯真がふいに「うわ、これうまそ。期間限定かあ」とつぶやいた。しかし灯真はそこで止まることなくスクロールを続ける。おいしそうだと思ったのなら、なんでそれにしないんだろう。灯真の好きなものを選んだらいいのではないか。


「どーすっかなあ」


 黎が困惑しているあいだに、最後までスクロールしおわったらしい。悩ましげにうなじを掻いている灯真の横顔を見る。


「レイは? なんか気になったのあった?」


 灯真もこちらを向いたことで、間近で目が合ってしまった。黎は反射的に目を逸らす。意見を求められたことに困惑しながらも「……さっきの」とかぼそい声で答えた。


「さっきの? どれ?」

「さっきの、……うまそうって、言ってた」


黎が説明すると、灯真の表情がぱっと明るくなった。


「あの期間限定のやつ? うまそうだったよなあれ。それにするか。あっ、そうだ。サイドメニュー、このポテトとチキンが一緒になってるの頼んでもいい? 前から気になってたんだよ」


 灯真の視線が黎とスマホを行き来する。どうしていちいち黎の同意を求めてくるのか、さっぱりわからない。訊かれているから一応うなずくと、灯真が嬉しそうにスマホに顔を戻した。しばらく操作したあと、スマホを無造作にテーブルへ置く。


「ピザ食うの、すっげえ久しぶりだわ。楽しみ」


 そわそわと体を揺らしながら、灯真が声をはずませる。今の灯真は昨日ゲームをしていたときと同じように、なんだかとても幼く見えた。


「あっそうだ。ピザ食いながらなんか見ようよ。映画とかさ」


 灯真はそう言って、テレビのリモコンを手に取った。テレビの画面が今までとは違うものに切りかわる。


「レイ、どんなジャンルが好きとか嫌いとかある? ホラーはだめとか血が無理とかあったら教えてよ」


 テレビから視線を外すことなく訊かれ、黎はおちつかなさから膝を抱えなおす。


「……なんでもいい」


 なんとなく息苦しさを感じながらも小さく言うと、「またなんでもか」と灯真がからりと笑った。黎はくちびるをきつく結び、膝を抱える腕に力をこめる。

なんでもいい。好きも嫌いもない。なにをされても、されなくても、文句なんてなにもない。すべて従う。言われたとおりにする。自分の意思なんて必要ない。黎はそういう生き方しか知らない。だから、灯真になにかを確かめられるたびに居心地が悪くなる。なにも訊かないでほしい。なにも、答えられないから。

 灯真がリモコンを操作する音だけが部屋に響く。しばらく沈黙が続いたあと、灯真が小さく息を吐いた。


「なににすっかなあ」


灯真が静かにつぶやく。たぶんひとりごとだろう。黎に向けられたものではなさそうだ。悩んでいるような雰囲気はあったけれど、黎を責めるような鋭さはどこにもなかった。それなのに、自分がなんでもいいと言ったから困らせているのでは、という思考が黎の中に重く沈んでいく。

くちびるの内側を嚙み、つまさきをじっと見ていると、チャイムの音が鳴った。黎の肩が小さく揺れる。


「お、きたきた」


 灯真がリモコンを置き、立ちあがった。もしかして、もうピザが届いたのだろうか。さっき注文したばかりなのに。黎は内心驚きながらも灯真の動きを目で追う。灯真はドアモニターの相手に軽快な挨拶をし、廊下へ出ていった。

黎はいつのまにか詰めていた息をそっと吐きだし、テレビに視線を向ける。たくさんの写真と文字が並んでいる画面を見たところで、なにがなんだかさっぱりわからなかった。

 灯真が玄関から戻ってくると、部屋の中にふわりと食べ物のにおいが広がった。


「レイ、これあけといてもらっていい?」


 灯真はローテーブルに箱をふたつ置き、すぐにキッチンへと向かった。黎は少しだけ目を瞠る。灯真から、やることを与えられた。ここに来てから初めてのことかもしれない。

 黎はいそいそと膝立ちになり、大きな箱から広げた。中には円形のピザが一枚入っていた。思わず息をもらす。丸いままのピザを見るのもまじまじと見るのも初めてだった。魅入りそうになってしまい、黎はあわててかぶりを振る。もうひとつの箱をあけると、中にはポテトとチキンが半分ずつ入っていた。濃いにおいに腹が鳴り、黎ははっとする。腹が鳴るのはいつものことだったはずなのに、この数日は灯真がたくさん食べさせてくれていたから、ずっと鳴っていなかった。なんだか久しぶりに聞いたような気さえして、黎は自分の腹をそっとさすった。

 箱をあけてしまうと、もうすることがなくなった。黎は手持ち無沙汰で膝を抱え、灯真を見る。灯真はてきぱきと箸やおしぼりを用意したあと、冷蔵庫をあけた。「あ、やべ」とつぶやいたのが聞こえる。


「レイー、ちょっとおいで」


 キッチンから呼ばれ、黎が向かうと、灯真は困ったように眉を下げていた。


「俺はビールあるからいいけど、おまえが飲むもん考えてなかったんだよね。ジュースみたいなのなくてさ。なにがいい? 炭酸水か、牛乳……あと、コーヒー? どうする?」


 こてりと首をかしげられ、黎は思わず眉を寄せる。そんなことを訊かれると思ってもいなかった。


「……水、にする」

「えっ、水?」


 黎の返事を聞いた灯真が、大げさな声を上げた。困惑したような表情を浮かべたあと、今度は訝りながら黎を見る。


「……もしかしておまえ、水以外の飲み物、好きじゃなかったりする? コーヒーとか炭酸水とか、普通に渡しちゃってたけど」


 どこか申し訳なさを含んだような声音で訊かれ、黎は思わず一歩あとずさりながらも必死に首を振って否定した。


「ちがう、そういうわけじゃない。なんでもいいから、水でも、俺」


 うろたえているのを隠せずに言うと、灯真の表情が一転し、呆れまじりに息をもらした。


「なんでも、ね。水がいいわけじゃねえんだ?」


 確かめるように訊かれ、黎は一拍置いてからうなずく。絶対に水がいいわけじゃない。与えられればなんだって飲む。わざわざ用意しなくたって、水道水でじゅうぶんというだけだ。灯真は黎を見て「ふうん」と息を吐く。


「炭酸水は? 嫌いじゃない?」


 黎はそろそろとうなずいた。それを見た灯真が冷蔵庫から炭酸水のペットボトルを取りだす。


「じゃとりあえず今日はこれってことで」


 灯真はそれを黎に渡したあと、自分のビールも取った。てのひらに冷たさを感じながら、ソファに戻る灯真の後ろをついていく。灯真はソファには座らず、さっきと同じ場所に腰を下ろした。そのままぽんぽんと自分の隣を叩く。ここに来い、ということだろうか。そのしぐさにうながされ、黎も灯真の隣にふたたび座った。


「コーヒーも嫌いじゃない? いつもブラック飲んでるけど、苦くて無理ってわけじゃない?」


 元の場所に戻るやいなやまた質問され、黎はそれにもうなずいた。苦味は感じるが、飲めないことはない。無理をしているつもりもなかった。


「そっかそっか。じゃあ、牛乳は? 嫌いじゃない? 飲んだら腹痛くなるとかもない?」


 重ねて訊かれ、黎は今度もうなずいた。すると灯真の頬がわずかにゆるむ。


「あれば飲む?」


 そう訊いてきた声は、さっきまでとは少し違い、どことなくそわついていた。どうしてだろう、と思いながらも黎がうなずくと、灯真が顔をほころばせる。


「じゃあさ、おまえも飲むなら牛乳でっけえの買えるじゃん。毎日絶対飲むわけじゃないからでかいの買えなくてさあ。割高で気になってたんだよ。へへ、やった」


 にこにこと笑う灯真の言葉を聞き、黎は面食らってしまった。灯真は目尻を下げたまま続ける。


「おまえがいるおかげですんげえ久しぶりにピザ食える。ありがとな」


 まさかの発言に、黎は思わず息を呑む。今、灯真は、ありがとうと言ったのだろうか。信じられない。どうしてそんなことを。なにもしていないのに。むしろ感謝するべきなのは自分のほうなのに。ありがとうのひとことすら、自分は、言えないままなのに。

 黎はうまく言葉にできない感情をいだきながら、持ったままだったペットボトルへ視線を落とす。灯真は楽しそうに表情をゆるませ、ビールの缶を黎に向かってかかげた。これは、乾杯のしぐさだ。それに気づき、黎もおずおずと炭酸水のペットボトルを持つ。


「かんぱーい」


 にっと口角を上げた灯真が、缶とペットボトルを軽くぶつけた。そのままビールに口をつけ、大きく息を吐く。なんだかすごくおいしそうに飲むな、とまじまじ見つめていることに気づき、黎も慌てて炭酸水を飲んだ。灯真がテーブルに向きなおり、ピザの箱へ手を伸ばす。


「適当に半分ずつ食おうぜ。食いきれなかったら、そんときは残して夜食おう。足りなければ言って、わけるから」


 灯真はそう言って、ピザを一枚取った。ひとくちで半分ほどなくなったことに黎は目を瞬かせる。


「うま! やっぱいいよなあ、ピザ」


 灯真は機嫌がいいのがよくわかる声音で言って、残りの半分もあっというまに食べてしまった。唾を飲み、おそるおそるピザに手を伸ばす。持っただけであたたかいのが指先に伝わってきた。灯真がしていたように、三角の頂点からかじってみる。するととろけたチーズが伸びて、黎は目を丸くしてしまった。すごい、と黎はピザをじっと見ながら咀嚼する。黎の記憶にある冷えたピザとは、まったくの別物だった。

 ピザを片手にリモコンを操作していた灯真が「あ」とふいに声をもらす。


「なあ、これ見ていい? 気になってたやつ。配信始まってたわ」


 わざわざこちらを向いて訊かれたことに戸惑ったものの、ためらわずにうなずく。灯真は目元に皺を寄せ、テレビに視線を戻した。すぐに映画が再生される。黎は画面に目を向けながらも、灯真がピザを食べればピザを、ポテトを食べれば同じようにポテトを手に取った。

 誰かと並んで映画を見ながらピザを食べるなんて、すべてが初めてのことだ。慣れないことばかりでおちつかない。灯真との距離の近さにだってずっと緊張している。

 それなのに、どうしてだろう。胸の奥がほこほことして、あたたかくて、こそばゆい。起きているはずなのに夢の中にいるみたいで、ふしぎな気分だった。

初めてのオリジナル小説です。

楽しんでいただけると嬉しいです。

感想・コメントなどいただけると励みになります。

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