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 ふっと意識が浮上する。いつものように飼い主を抱きよせようとして、うまく腕が動かせないことに気がついた。なぜ、と黎は重いまぶたを持ちあげる。ゆっくりと数度瞬きをして、ここが灯真の部屋であることを思いだした。両腕が胸元にぎゅっと折りたたまれている。なんでだっけ、と寝起きの頭で考えているうちに、昨晩眠る前の記憶がよみがえってきた。どうやら一晩中、体に力をこめていたらしい。

 眠る前とは違い、部屋の中は真っ暗だった。灯真も寝ているらしく、ここにはいない。黎はぼうっとテレビのほうを見つめる。

 同じ空間にいるのにこちらに背を向けたまま大した会話もせず、黎とはまったく関係のないことをして、黎になにかを求めることも、構ってくることもない。かといって不機嫌に無視しているわけでも、いないもののように扱っているわけでもなく、折にふれて気遣ってくる。

 昨晩の灯真のふるまいは、黎にとってこれまで経験したことのないものだった。あんな時間、初めて過ごした。この家に来てから、初めてのことばかりだ。

 起きてしまったものの、まだ頭が働かない。今が何時なのか、時計を見るのも面倒だった。横になったままどこでもないどこかをうつろに見る。テレビも物音もしない部屋はとても静かだった。

 どれくらい時間がたったのか。寝室のほうから物音が聞こえた気がして、黎は慌てて目を閉じる。そうしたあとで、別に寝たふりをする必要はなかったのではと思いいたった。かといって起きる気にもなれなくて、黎は目を閉じたまま息をひそめる。

 少しして、寝室のドアがひらいた音がした。大きなあくびの声とともにカーテンがひらく。それからすぐ、灯真がソファへ近づいてきたのがわかった。灯真は黎の頭を撫でたあと、毛布をかけなおして離れていく。ぱたんと音がして、灯真が廊下へ出ていったのを察した。黎は自分の鼓動がはやいことを自覚しながら、くちびるをゆるく嚙む。当たり前のように毎朝くりかえされる灯真のこの行動の意図を、黎はいまだにはかりあぐねていた。

 灯真が起きたのだから、もう起きなければ。そうわかってはいるけれど、灯真が直してくれた毛布から出るのが、なんだかもったいないような気がしてしまった。しかし灯真の足音が戻ってくるのにあわせ、黎はのそりと体を起こす。


「おっ、起きた? おはよう」


 目が合ってすぐ、灯真は黎に声をかけた。黎はくちびるを薄くひらき、息を吸いこむ。しかしなにも言いだせず、そのままくちびるを結んだ。おはようくらい、今までの飼い主には平然と言えていたはずなのに。灯真の前では、なにをどんなふうに話せばいいのか、まだよくわからないままだった。灯真が黎に対してどんな役割を求めているのかがわからないから、話し方も、ふるまいも、決められない。

 黎が迷っているあいだに、灯真はキッチンに立っていた。コーヒーを準備しているがりがりという音を聞きながら、毛布の端をじっと見る。

 朝起きたらいつも、歯磨きして顔を洗えと言われていた。けれど今日はなにも言われていない。ということはやらないほうがいいのだろうか。それとも、言われる前にやるべきなのだろうか。


「……レイ、どうかした?」


 毛布の端を睨みつけるように考えこんでいると、うかがうような声音で話しかけられた。黎は小さく息を吞み、そろそろと灯真を見る。灯真はどこかふしぎそうな表情をしていた。黎は何度か口をひらいては閉じるのをくりかえしてから、意を決し、深呼吸をする。


「……あの」


 ためらいながら声をかけると、灯真の片眉がぴくりと動いたのが見えた。


「歯、磨いたほうが、いいの」


 緊張を隠すことなく訊くと、灯真の目が丸くなった。それからすぐに、ふはりと笑う。


「そーだな。歯磨きも、顔洗うのも、したほうがいいだろうな。でもおまえがしたくないなら、しなくてもいいんじゃねえ? いちにちサボったくらいじゃどうってことねえよ。毎日サボるのはやばいけど」


 灯真は喉を震わせながら言ったあと、「したくねえの?」と黎に訊いた。黎は首を横に振って答える。


「んじゃあ、してくるといいよ」


 灯真が瞳をゆるく細める。黎はくちびるを結び、小さくうなずいてから立ちあがった。黎がキッチンの横を通るときにはすでに、灯真は手元の作業を再開していた。

 歯を磨きながら、灯真との会話を反芻する。あのとき、したくないと答えていたら、灯真はしなくていいと言っていたんだろうか。

 別に、歯磨きをしたくないわけじゃない。朝起きたら歯を磨くのは、こどものころに言われた決まりのひとつだ。これまでの飼い主たちにも、いつも身なりは整えていろと言われていた。見た目しか取り柄がないんだから、と。灯真もそう言ってくれれば、それに従うだけだから簡単なのに。

なんとなく腹の奥がもやもやするのを感じながら、部屋へ戻る。


「おかえり。もうちょいでメシできるから、座ってて」


 灯真はこちらを見ることなく声をかけてきた。黎は目線を足元に落としたまま、無言で食卓についた。椅子に座ったあとで、ここで合っていたんだろうか、と不安になる。灯真の様子をうかがってみたが、灯真は黎になにも言わず朝食の用意を続けていた。怒られないなら、ここでいいんだろうか。黎は椅子に浅く座りなおし、灯真の動きを目で追った。

 灯真は昨日までと同じ朝食をふたりぶん用意したあと、テレビをつけて黎の向かいに座った。「いただきます」と手を合わせ、そのまま朝食を食べはじめる。黎のくちびるから、かすかな息がこぼれおちた。

 灯真は昨日、今後も同じ量で昼食を用意すると言っていた。昨日は朝の時点でもう用意してくれていた。でも今日は、どこにも置かれていない。作る気配も、ない。そう思ってしまい、黎は自分の思考を消すようにかぶりを振った。いったいなにを考えているんだ。


「レイ? どうした?」


 灯真に声をかけられる。黎は灯真と一瞬だけ目を合わせたものの、すぐに逸らし、首を横に振った。


「そう?」


 灯真は深く追及することなく、食事に戻っていった。うながされる前に、黎ものろのろと朝食に手をつける。

 もう昼食は用意しないのか、昨日の自分はなにか間違えたのか、なんて、聞けるはずもなかった。

 黎が食べおわるのを待って、灯真が「ごちそうさま」と挨拶をした。ふたりぶんの食器を下げ、そのまま洗い物を始める。鍋やフライパンもぜんぶ洗っているのを見て、黎は自分を恥じた。朝食を用意してくれただけでもありがたいのに、そのうえで、昼食があると思っていたなんて。こんなに世話してもらっておいて、なにひとつ対価を渡せていないくせに、ずいぶんとわがままなことを考えていたらしい。

 黎がダイニングチェアから動けないでいるあいだに、気づけば灯真は洗い物を終えていた。ふわふわと大きなあくびをしながら、寝室に向かうことなく、さっきまで座っていた椅子にふたたび腰を下ろした。そのままのんびりとスマホをさわっているのを見て、黎は目を瞬かせる。どうしたんだろう。いつもなら、朝食を食べたあとは着替えに行くはずなのに。


「……なに、なんかあった?」


 黎の視線に気づいたらしく、灯真が小首をかしげた。訊かれているのだから、答えなければ。ひらいたくちびるがかすかに震える。


「……仕事、いかないの」


 わずかな沈黙のあと、かすれた声でつぶやくと、灯真がきょとんと目を丸くした。それからすぐに腹を抱えて笑う。黎は笑う灯真を見ながら困惑してしまった。なにか間違えたのだろうか。灯真が急に笑いはじめた理由がまったくわからない。


「そんな顔、しなくても。今日、土曜だろ。休みだよ」


 灯真は笑ったまま、途切れ途切れに言った。その返答に、今度は黎が少しだけ瞠目する。


「やすみ」


 灯真の言葉をなぞるようにつぶやくと、灯真は頬杖をつきながらゆるくほほえんだ。


「そ。土日は休み」


 その言葉に、黎の肩からわずかに力が抜ける。休みだったのか。だから、着替えなかったのか。灯真が笑っていた理由がわかり、頬がじわりと熱を帯びる。

 今日が土曜日だと、気づいてすらいなかった。そもそも土曜日だから仕事が休みという発想も、黎の中にはなかった。……そうか。学校と同じなんだ。黎は結んだくちびるにそっと力をこめる。決まった曜日に休む仕事をしているひとに飼われるのも、初めてのことだった。

 大きく伸びをした灯真が、椅子から立ちあがる。そのままキッチンへと向かった。なにをするのだろう、と灯真の様子を見守る。灯真はスウェットの袖をまくり、掃除を始めた。黎は呆気に取られたまま、灯真の動きを目で追う。

 灯真はキッチンの掃除を終えたあと、テーブルを拭きあげた。今度は廊下へと出ていく。黎はじりじりとした焦燥感に駆られ、慌てて灯真を追った。灯真は手際よく洗面所と浴室を掃除して、次はトイレへと向かった。便座の前でしゃがんで掃除をしている灯真のつむじを、じっと見おろす。


「……あの」


 黎がおずおずと声をかけると、灯真はトイレ掃除を続けながら「んー?」と返事をした。


「おれも、なにかしたほうがいいの。おれは、なにをしたらいいの」


 声を振りしぼって訊くと、灯真の手が止まった。


「うーん……」


 灯真は少し悩むようなそぶりを見せたあと、しゃがんだまま黎を振りかえった。真剣な表情で見つめられ、黎は唾を飲みこむ。


「おまえがやりたいと思うならなんでもやればいいけど、やりたくなければやらなくていい」


 きっぱりと言われ、黎は愕然と灯真を見つづける。


「掃除に限ったことじゃないけど、なんかやってほしいとは今んとこ思ってないんだよ。別におまえがなんもしないからっておまえに不満を溜めることもないし、俺が掃除してるときにおまえが座ってたとしても、遊んでたとしても、腹立てたりしない」


 重ねられた言葉に、黎の顔が歪んだ。ほんとうに、なにひとつとして求められていないのだ。その事実に黎の内側がざわりと波立つ。灯真は難しい顔をして、ふたたびうなり声をもらした。


「でもこれはおまえに期待してないからとかじゃなくて、うーん……なんだろな……」


 灯真は言いよどんだあと、「あ」と小さく声を上げて黎に視線を戻した。


「ほら、ペットに対して、なんで自分でトイレ掃除しないんだってむかついたりしねえじゃん。家ん中で元気にのびのびしててくれりゃそれでいいみたいな。そういう感じかも」


 いいことを思いついたみたいな明るい声音で灯真が言う。黎はそれを聞き、は、と浅く息を吐いた。あんたなんてペットみたいなもの、とかつて言われた言葉が鼓膜によみがえる。

 ペットのように扱われても、これまではなんとも思わなかったのに。灯真からペット扱いされた途端、心臓がじくりと痛んだ。それと同時に、黎の中にうまく言葉にできないもやもやとしたものが広がる。灯真が黎に求める役割は、ペットらしい。ずっと求めていた役割をようやく与えてもらえたはずなのに、どうしてかそれを、素直に受けとめることができなかった。


「あっ、いや、おまえのことをペット扱いしてるわけでもねえんだけど!」


 黎の顔がこわばっていたからか、灯真がどこか慌てた様子を見せる。


「いや、なんか……ごめん、うまく説明できねえわ。とにかくおまえの好きにしてりゃいいよ。家事とかそういうの、おまえがしないからって俺の負担が増えるわけでもねえし。気にすんな」


 灯真はへらりと笑ってそう言ったあと、トイレ掃除を再開した。黎は目をしばたたかせながら灯真のつむじを見る。

 ペットみたいだと言った口で、ペット扱いしているわけではないと言う。いったいどっちなんだ。それはつまり、黎の役割はペットではないということでいいんだろうか。だとしたら、これからは結局どうふるまうのが正解なんだろうか。

 黎が考えこんでいるあいだに、灯真はトイレ掃除を終えてしまった。はっと我に帰り、灯真の背中を追う。頭の中ではずっと、灯真の言葉がリフレインしていた。やりたければやればいいけどやりたくなければやらなくていい。そんなこと言われたって、やりたいかどうかなんて考えたこともないのに。

 黎は自分がどうしたいのか、どうするべきなのかなにひとつわからないまま、てきぱきと掃除をこなす灯真のうしろをただついてまわった。灯真は黎がついてきても、なにも言わずに掃除を続けていた。


オリジナル小説は初めての作品です。

楽しんでいただけると嬉しいです。

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