第二話・崖の上の不慮
《身形のよい若い女がじっと、こちらを見ている。嫣然たる笑みを湛えているが、全身は血の色に染まっている。その際立った対照が、禍々しい。と同時に、抗い難い魅力を感じるのも事実だ。俺は否応なく女に引き寄せられ、蜘蛛の巣のようなその魔性に、搦め捕られる――》
俺は天下一の走り屋だ。最高速度の亜光速に達すると、常人は勿論のこと、並の豪傑の目にも留まらない。走力で他の追随を許さない俺は、世界の緩慢な動きに腹立たしささえ覚える。
そんな俺をある時、一人の男が訪ねてきた。王家から大金を分捕る企てがあり、俺の力を頼みたいのだという。俺はただ、王女との駆け較べに勝てばいいらしい。俺は怒髪天を衝いた。
俺は、高速性、敏捷性、機動性において文字通り万物の頂点に立つ、絶対王者だ。至高の存在なのだ。それを凡人、しかも、お姫様なんぞと競わせるなど、冒涜以外の何ものでもない。
その無礼千万な申し入れを、思い直して引き受けたのには、それなりの理由があった。
近頃、同じ夢を見る。繰り返し、繰り返し、見る。無意識下に抑圧された死への衝動が表象されるような、甘美にして不吉な夢だ。そこに決まって出てくる蠱惑的な若い女こそ、誰あろう、王女なのだ。王女とは一面識もないものの、理屈を超えた何かが、俺にそう確信させる。
折も折、王女との勝負の話が俺に舞い込んできた。些か都合がよすぎる気もするが、因縁めいたものを感じないでもない。ここは、流れに逆らわず身を委ねてみよう、と考えた次第だ。
前夜祭や開会式では遠目に、愈々出発線に立つと間近に、俺は王女の顔を拝む機会に恵まれた。外見は確かに、夢の中の女だった。ところが、実物を目の当たりにしても、何ら心に響くものがない。因縁などなかったようだ。俺は気を取り直し、迷妄を破るように大地を蹴った。
次の瞬間には、折返し地点である泉に到着していた。ざっと、こんなものである。競技規則に則って、持参した壺を泉の水で満たしていると、俺は例の如く耐え難い睡魔に襲われた。
高速移動で消費される膨大な熱量は、健啖だけではとても補えない。勢い、突発性の低栄養に陥ることがある。それは不意に、強い眠気として現れる。そうなると、直ちに睡眠を取らねばならない。さもなくば低栄養が重篤化し、死に至ることもある。それが俺の第一の弱点だ。
馬の頭蓋骨を枕に、俺は泉の畔で横になる。王女が辿り着くのは、何時間も先だろう。
《赤く染まった女だ。いつもと違って、何処かが変だ……笑っていない。真剣な面持ちで、近くの崖の上を指差す。何だろう?――俺は半身を起こして、女の指差す先を仰ぎ見る……》
耳を聾する轟音が鳴り響き、俺の体のすぐ傍で何かが爆ぜた。見ると、枕にしていた馬の頭蓋骨が、木っ端微塵に砕けている。俺は直ちに稲妻と化し、その場から一目散に遁走した。
砂塵を巻き上げて急発進しながら、改めて崖の上に一瞥を投げると、そこには紛う方なき猟銃男の姿があった。糞ッ、あの馬鹿野郎、やりやがったな。奴が俺を狙撃したに違いない。
規定の走路から逸走し、勝負を放棄した俺は、一足飛びに王国の辺境へと落ち延びた。
荒野の真っ只中に腰を下ろし、携行食の高栄養棒を齧りながら、俺は小首を傾げる。解せない。猟銃男も俺も同じ男――頭目に雇われた身だ。俺は走るだけなので、計画の詳細は失念したが、同士討ちはどうにも理屈に合わない。猟銃男が裏切ったか、俺が謀られていたか……。
撃ち損じも不可解だ。俺の記憶だと、奴は二哩先の蝿を仕留める腕を持つ。あの程度の距離から外すとは、如何にも考え難い。あるいは、威し鉄砲だったとか?……いや、それもない。
最初は、発砲に驚いて飛び起きたのだとばかり思っていた。ところが、よくよく思い出してみると、そうではなかった。俺は半醒半睡の状態で、銃声が轟くより一瞬だけ早く、上体を起こしていたのだ。もし、その挙動がなかったら、俺は間違いなく被弾していたことだろう。
何故、そうした? 夢が俺に警告したとでも? そんな、馬鹿な……いや、あり得ることだ。
俺は俊敏性、機動性に富む分、強靭性には乏しい。俺の第二の弱点だ。高速移動中に障害物と激突すれば、俺の肉体は粉微塵に砕ける。故に、障害物との接触は悉く避けねばならない。
以前は、機に臨んで回避行動を取っているものと思っていた。実際にはしかし、動線上に起こり得る事象を予測しているようなのだ。脳内で諸々の可能性が検討され、そこから得られた計算式により、安全な動線が導き出されるらしい。高速に移る直前に、入念な計算を行う訳だ。
睡眠時となると、脳内で更に高度な情報処理が行われる。覚醒時のそれよりも遥かに複雑で、神秘的ですらある情報処理だ。その結果、俄には信じ難い現象が脳内で起こる。俺の先刻の挙動を説明するにはもう、それしかない――緻密な情報分析が可能にした、予知夢である。
それはさて措き、あの猟銃糞野郎め、ぶっ殺してやる……だけど、どうやって? 俺は高速性だけが取り柄で、膂力となるとからっきしだ。非能力者が相手であろうと、がっぷり四つに組んだら勝ち目はない。武器の扱いも拙く、戦闘能力はないに等しい。俺の第三の弱点だ。
《またもや、赤い女のお出ましだ。女は俺に、耳打ちする。囁くだけでいいのよ――と》
それはまさに、値千金の白昼夢だった。そいつは目から鱗だぜ――俺は、ほくそ笑んだ。
王都に戻った俺は先ず、姿を見られないよう用心しつつ、庶民を相手に実験を重ねた。
『商品を盗め』
『食い逃げしろ』
『男の財布を掏れ』
『目の前の女を殴れ』
『役人の顔に唾を吐け』
『便所の汚水で洗顔しろ』
『上衣を捲くって乳を出せ』
『その棒を尻の穴に突っ込め』
少々悪乗りしたが、実験は軒並み成功した。本人が知覚出来ないほどの高速で、閾値以下の刺激を適切に与えると、後催眠暗示と同じ効果が得られる。被験者達は、俺が超高速で接近して、耳元で電光石火に囁いた指示の通りに行動した。暗示されたという事実を忘れるよう、健忘暗示も抜かりなく与えておいたので、彼らは皆、自らの意志で行動したと思い込んでいる。
これを要するに、俺は神の声を手に入れたのだ――。
常人が相手だと十全に機能する手段が、豪傑を向こうに回して通用するとは限らない。
という訳で、実験を第二段階に進めることとする。被験者は豪傑で、本番宛らに行う。
俺らの中でも二軍的存在の二人が今、町外れの広場で球蹴りをして遊んでいる。鼻息男と氷結男だ。全く、暢気な連中だぜ。競技はどうなった? まあいいさ、俺にはもう、関係ない。
先ずは、鼻息男に狙いを定める。二哩先の七基の風車を、鼻息だけで全速回転させる男だ。
『肺が破裂するまで息を吸え』
俺の理不尽な命令に従った鼻息男は、盛大に吐血したかと思うと、その場に倒れ込んだ。氷結男が慌てて駆け寄るが、もう手遅れに違いない。人並外れた肺活量が、命取りとなった訳だ。
さて、お次はダサい帽子の間抜け野郎だ。ただ、間抜けは間抜けでも、斜めに被っている帽子をまっすぐに被り直すだけで、近くにいる者を凍死させる技の使い手だけに、用心が必要だ。
『帽子を裏返して、まっすぐに被り直せ』
帽子男もまた、俺の無茶な指示に盲従する。すると、帽子の効力が自身に及んで、見る見る全身を凍らせてゆく。肩を小突くと地面に倒れ、奴の体は四分五裂した。復元は困難だろう。
お次は、実験と云うより模擬戦だ。跡を尾けていくと、怪力男は一軒の仕立て屋に入った。
『店員と客との会話を聞き、俺に逐一報告しろ』
俺に誘導された通りすがりの女によると、手に入る中で最も強い生地で、可能な限り大きな袋を作るよう、客は注文したという。店員は、金剛糸で織った布地を勧めた。その糸は蜘蛛の糸より細く、硝子よりも透き通り、鋼のように頑丈だそうだ。客は満足そうに頷いたという。
俺は不意に、頭目の計画を思い出した。確か、怪力男が担げる限りの金貨を、国王に払わせる魂胆だった。道理で、巨大で丈夫な袋が要るはずだ。連中の浅ましさに、俺は改めて閉口する。下衆どもめ、神の声で成敗してやる――。演習は斯くして、仕置きの様相を呈し始めた。
尾けられているとも知らずに、怪力男が人気のない路地に入るのを見届け、俺は動いた。
『自分の頭を両手で叩き潰せ』
俺は度肝を抜かれた。怪力男が存外の俊敏さを発揮して、高速で走り去ろうとする俺の咽喉を扼したのだ。その力は凄まじく、痛さと苦しさと恐怖で、俺は意識が遠退きそうになる。
しかし、奴の握力は次第に弱まってゆき、やがて俺は解き放たれた。怪力男は苦しげに顔を歪めて、体全身を震わせている。傍目には、俺の暗示に精神力で抗っているようにも見えた。
暗示と精神力の相克は、さほど長続きしなかった。体の震えが止まったかと思うと、怪力男は打って変わって無表情になり、両掌で勢いよく己が雁首を叩き潰した。鮮血が噴水のように迸る。頭を失った奴の巨体は、二、三歩ゆっくりと前進した後、絶望したように膝を突いた。
「誰にも見咎められねえと思ったか?……チッ、チッ、チッ、俺の目は誤魔化されねえぜ」
背後からの声に驚いて振り返ると、そこには猟銃男と頭目が立っていた。俺としたことが、怪力男の退治にかまけて、高みの見物をしていたらしい二人の気配には気付かなかった。
「暗示、だよな?」流石は千里眼、猟銃男にはお見通しのようだ。「俺には通用しねえぞ」
まあいいさ、こちらから出向いていく手間が省けたぜ。俺は早速、猟銃男の耳元で呟いた。
『頭目を撃ち殺した後、銃口を咥えて引き金を絞れ』
妙だ。猟銃男が指示に従わない。俺は再び奴の耳元に顔を寄せる……耳栓ッ。道理で、暗示が効かないはずだ。俺は奴の耳孔を指で掻っ穿ったが、深く詰めてあって一向に取れない。
俺がもたついていると、猟銃男は「痛えよ、馬鹿野郎」と云うが早いか、至近距離から発砲しやがった。俺は間一髪で身を躱したが、野郎は矢継ぎ早に二発目、三発目を放ってくる。
動作速度では俺に敵うべくもないが、奴はその分、動体視力が途轍もなく発達している。装填、発射、排莢の一連の動作も驚異の速さで行い、全く淀みない。鳥撃ちの要領で、標的を面で制圧する散弾を未来位置に撃ち込むので、俺の俊敏さを以てしても避けるのは至難の業だ。その上、狭い路地ではこちらの動ける空間も限定される。そうしている間にも発砲は続く。
この儘だと、遅かれ早かれ、俺は被弾する――。苦しさ紛れに、俺は頭目に近付いた。
『猟銃男を襲え』
愚策だった。頭目は丸腰で猟銃男に襲いかかり、敢えなく額に風穴を穿たれる。だが、俺はその光景に活路を見出した。そうか。この手を使えば、敗走することなく奴を倒せるぞ――。
人で溢れ返る表通りに取って返すと、俺は誰彼構わず、手当り次第に声を掛け捲くった。
『食人鬼となって、路地にいる猟銃男を捕食しろ』
路地は見る見るうちに、黒山の人集りとなった。絶え間なく鳴り響いていた銃声はやがて止み、断末魔と思しき絶叫が一帯に響き渡る。人海に路地への進入を阻まれた俺が、辛うじて垣間見ることが出来たのは、老婆と幼子が大きな骨付き腿肉を奪い合うという、地獄絵図だった。
俺がまたもや、なす術もなく深い眠りの淵に落ちていったのは、その直後のことである。
《赤い女が云う。――私はこの国の王女です。今はまだ、手付かずの無垢な状態なので、貴方が運命を感じないのも無理はありません。私を貴方の運命の女に変えるのは、貴方自身なのです。貴方の手で……いえ、貴方のその声で、私を染めるのです。無敵の色、勝利の色、王者の色の、赤色に。そうして初めて、貴方は運命の女に巡り逢うのです。さあ、お行きなさい。そして、私の耳元で囁くのです。俺の色に染まれ――と一言。例の崖の上で待っています》
微睡みから醒めるや否や、俺はまっしぐらに、運命の場所――崖の上へと駆け付けた。
王女は果たして、そこにいた。真っ白な衣装にその身を包み、崖っ縁に背を向けて、独り所在なく佇んでいる。王女本人には依然、運命を感じないが、夢の中の赤い女に、俺は全幅の信頼を置いている。だから、少しも躊躇いはしない。俺は大地を蹴った。神の声を囁くために。
――罠だった。透明で強靭な金剛糸が、俺と王女の間に、蜘蛛の巣の如く縦横に張り巡らされていた。硝子のように脆い俺の体は千々に砕け、進行方向に向かって勢いよく飛び散った。
俺が最期に見た光景は、血肉の雨となった俺を満身に浴びて嗤う、赤い王女の姿だった。




