第八十八話 破滅の匂い
王城の一角にある執務室。調度品の類は極めて少なく、実用性を突き詰めた結果、壁面はほとんど棚で占められてしまっている。
そこはヴェールスフィア王国の宰相である私――ゲルハルトの執務室だ。
ほんの少し前のこと、私はこの部屋に戻ってきた。
リィゼ殿下……いや、平民混じりの小娘か……それと友人になったという平民の見極めを行う者の一人として、出席を命じられていたのだ。
仕事の最中ではあったのだが、命令とあっては仕方がない。残った仕事を後回しにして、一時的に執務室を離れていたというわけだ。
その者については思うところがあり意見を述べたものの、最終的には陛下自身の判断によって友人付き合いは許されることになった。
まったく嘆かわしいというか、度し難いというか……まぁいい。あの平民がどうあれ、すぐに国政に影響があるわけではない。
二人の付き合いが問題になるのであれば、それはそれでうまく使えば良いだけのこと。
少し気分は悪いが、一旦頭の中から追い出して、早々に残った仕事を片付けてしまうことにした。
執務用の机には、処理中の書類の束と共に、専属の従者に準備させた飲み物と軽食が置かれている。
未処理のままの書類も残りわずかとなり、私は黙々と残った仕事を進めていた。
軽食を口に放り込みながら、さらさらとペンを走らせ、積み上がっていた書類の束を、次々と処理していく。
「ふむ。今日のところはこれで終わりか。」
私は、すっかり温くなってしまったグラスの飲み物を喉の奥へと流し込んだ。
入っていたのは果実水。白陽日を過ぎ、暑い季節の足音も近いからか、爽やかな香りのする、あっさりした喉越し……悪くない。
よく冷えたものが欲しいところだが、扉の外はもちろん、執務室の周囲に人の気配はなかった。
もちろん普段であれば、たとえ夜中であろうと、そんなことはないのだが、今は敢えて部屋に近づかぬようにと従者に命じていたからだ。
「一度冷えたものを持ってこさせたいところだが……そろそろ時間だな。」
小さくつぶやいて、私は両手を椅子の肘掛けに置き、まぶたを閉じた。
時刻はすでに夜。王都の賑わいも、この時間になると繁華街や歓楽街を除けば静かなものだ。
それよりもこの後の用事を前に、ほんのひと時でも休息を取っておきたかった。
「(ふふ……せっかく一息ついたところだというのに、すみませんね。)」
眼球の奥、頭蓋の内と言ってもいい。はっきりと女の声が響いた。
すみませんなどと謝罪しつつも、その声音に申し訳なさそうな気配は一切ない。
一国の宰相である私に対する言葉としては、いささか軽すぎるその声に、わずかに眉をひそめたが、それも一瞬のこと。
閉じられていた瞼を開いた時には、いつも通りの平然とした表情を装う。
もう一度、耳をそばだて、執務室の外に人の気配がないことを確認してから、私は落ち着いた声音で答えた。
「いいえ、時間通りですよ。アシェラ嬢。」
会話の相手の名はアシェラ。その背景は謎に包まれている。
宰相という立場上、個人的に組織し、運用することを許可されている専属の諜報部隊に加え、子飼いの賊である隻鷹団の人員を動員して調査させてみたが、文字通りほとんど何もわからなかった。わかっていることと言えば、名前と容姿、そしてその口から語られた目的、加えて、彼女がどこから入手したのか、常識では考えられないモノを持っている、というくらいだろう。
人間としての能力を文字通り拡張することができるB.N.I.Cという"薬"、強靭な肉体を持ち、特定の音波で一定の制御が可能な猟犬である"ノクスハウンド"など、彼女から私に提供されたものはどれも明らかに怪しいのだが、機能や効果は彼女の言葉通りだった。
「(B.N.I.C投与後の調子はいかがですか?)」
「良好ですよ。こうやって離れている貴女との会話に問題はありませんし、他の能力も助かっています。身体の不調も特にありませんね。」
四年ほど前、私はアシェラからB.N.I.Cという薬の提供を提案された。
指揮官や指導者のような者向けのType-Cというものと、前線に立つ兵士や騎士のような者向けのType-Lの二つがあるという話だった。
だが、薬というものは身体に直接入れるものだ。さすがにすぐに信用するのは難しい。
そのため、当時ちょうど自分の息のかかった者を王国軍に入隊させる予定だったこともあり、その者にType-Lを投与することにした。
それが当時十八歳のエディルだ。
効果はすぐに現れた。
元々、エディルは語り口が軽妙で、人の輪に入り込むのはうまかったが、戦闘技術については平均以下でしかなく、一兵士としてならなんとかやっていけるものの、騎士になれるほどの腕はなかった。
だが、Type-Lを投与した後、エディルの戦闘技術は驚異的な早さで向上したのだ。
体術に短刀術、剣術、槍術、弓術と、おおよそ何を触らせても、一線級ではないものの、一通りこなしてしまうほどに。
さすがに護衛騎士団のセオやノアほどの腕には届かなかったが、二年で騎士になり、その翌年には護衛騎士に任命されるほどに腕を上げた。
その効果を目の当たりにし、さらには三年間エディルの身体でもって投与後の経過観察までできた私は、自身もB.N.I.Cという薬を投与することにした。
もちろん投与するのは指揮官や指導者向けと聞かされていたType-Cだ。
薬を自分の身体に受け入れるのは確かに緊張したが、投与後の変化は目覚ましいものだった。
身体能力と思考能力の底上げ、と言えば良いだろうか。
身体能力の底上げについては……まぁ非戦闘員の私にはさほど意味のある恩恵だとは思っていなかったが、筋力や体力以外にも様々な感覚が鋭敏になったのだ。
会議中、わずかに意識を集中させるだけで、参加者の目の動きや、何か書き記している内容、小声での相談、迂闊に漏らした一言に至るまで、様々な情報が拾えてしまう。
そうなると、相手方の意見や提案の穴を突き、こちらの望むように議論を誘導することなど、いとも容易いことだった。
また、思考能力の底上げも、文官である私には嬉しい効果だった。
普段通りに目の前の物事を考えながら、別のことにも思考を割くことができるようになり、さらには記憶力もかなり良くなったのだ。
元々記憶力は良い方だったが、直近数年分の王国各地の税の詳細な収支状況や、農産物の生育状況、人口動態まで苦もなく記憶できてしまったことにはかなり驚いた。おかげで陛下の治世にも大きく貢献できるようになり、狙い通りに自身の評価を高められている。
「(それは良かったです。ただ、くれぐれも体調にはご注意ください。貴方に投与したのは"彼"とは違ってType-Lではありませんし、"臨界化"の能力もありませんから、問題はないはずですが、気をつけておくに越したことはありません。)」
「えぇ、気をつけるようにしますよ。」
アシェラが口にしたのは、エディルの身に起きた異常のことだ。
侍女のミリアの話では、上半身が異常に肥大化し、身体は黒くなり、およそ知性と呼べるものが無くなったように見えた、と聞いている。
Type-Lの投与を受けている者は、一時的に身体能力を大きく強化する"臨界化"という能力を行使できる。これは前々から聞いていた。本来、問題なく行使できる能力だが、エディルは何らかの問題を抱えている状態で、これを使ったために異常をきたし暴走した、というのがアシェラの見立てらしい。
私に投与されているType-Cにはこのリスクはないとは聞いているが、鵜呑みにするわけにはいかない。"臨界化"という能力がないにしても、無理に身体能力に頼る行動は避けるべきだ。
「(それと、ノクスハウンドの試験ですが、ご協力ありがとうございます。想定通りの良い結果が得られました。残っている子たちは好きに使い潰していただいて構いませんので、ご自由になさってください。それとも追加が必要ですか? 数は準備できませんが、多少なら供与できますよ。)」
「あの程度で良かったのですか? 試験というからには何度か繰り返すなり、パターンを変えるなりすることが必要なのでは?」
「(いえいえ、大丈夫です。笛による音波で制御でき、王国軍の兵士で構成された部隊を相手にそれなりに戦えたのでしょう? どのような戦術でどのように運用されたのかは知りませんが、人間を相手にでき、損害率は五割程度……はい、十分です。)」
何が大丈夫なのか。何が十分なのか。声の主が目の前にいない以上、その表情は見えないが、ノクスハウンドが想定通りに運用できたことも、損害率が五割もあることも、まったく意に介していないように聞こえる。
いや、むしろ五割という数字自体は不服そうですらあった。もっと高くても、なんなら全滅でも……そんなふうに聞こえたのは、私の気のせいだったのだろうか。
なんとも気持ちが悪い。
「そうですか……わかりました。追加は……今は不要です。子飼いの傭兵団崩れに預けているので、要望が上がってきたら改めて、ということにしてください。」
笛で制御できるとはいえ、今まで見たことも聞いたこともない"黒い狼"という存在は、自然界に存在しないはずの異物だ。
なんとなく、今追加で供与を受けるのはやめたほうがいい気がして、私はノクスハウンドの追加供与を断った。
動物や害獣の類は、意思疎通が難しい上に、笛以外の介入方法が隠されている可能性を否定できない。そういう意味でも、やはり信用できないだろう。
「(わかりました。そういえば、お姫様の件は……)」
「一言で言えば、失敗、ですな。」
「(残念ですね……)」
唐突にアシェラが話題を変えた。小娘がバルディアへ向かう途中に起こった、一連の事件のことだ。あれはそもそも私が裏で糸を引いていたものだ。
私の目的のためには、あの小娘は少々邪魔だったからだ。これ以上民衆の人気を得る前に、国政への影響力を奪ってしまいたかった。
といっても、元々はあれほどの大事にするつもりはなかったのだが。
大規模な戦場はもちろんのこと、王侯貴族の子女が箔付けのために帯同する、賊の討伐のような小規模な戦いすら経験したことのない小娘だ。バルディアへの移動中に護衛を数人殺してやれば、怖がって王都に戻ってくると踏んでいた。
そのままもっともらしく恐怖心を煽り、過度に警護を厚くしてやれば、自室に引きこもりがちになる。襲撃犯の顔が割れていないのを盾に、リスクを吹聴して外出を制限し、公務から距離を置かせ、事実上の軟禁状態に持っていく。
適当な時期に身分以外に取り柄のない、暗愚な貴族にでも輿入れさせ、その後適当な不祥事でもでっち上げて嫁ぎ先の家の爵位を下げられれば十分だった。
「まさかバルディアへの移動を強行するとは……」
もちろんその可能性を考えなかったわけではない。加えて、襲撃から離脱した隊列が向かったのは人口が百人にも満たない辺境の小さな村だ。リヴィエナのような規模の街ではない。となれば、まともな護衛の補充などできるはずがなく、バルディア行きの判断は難しかったはずだ。
しかし、時を同じくして、村には多少腕の立つらしい旅人と、シングルで動いていた任務帰りの傭兵が立ち寄っていた。
これが最初の誤算だろう。この二人がタイミングよく護衛騎士たちからの護衛要請に応じてしまったことが、バルディア行きを強行するという判断につながってしまった。
次の誤算は例の平民だ。先程本人の口からも聞いたが、旅人の男についていくという目的のために、小娘の護衛を願い出てきた。
現地での細かい諸々の対応は、エディルに任せる形にしていたが、奴の報告を聞いた限りでは足手まといを連れて行くほうが事を起こしやすいと考えたらしい。
確かにまともな戦闘や従軍経験のない村娘であれば、その判断は妥当と言える。ただの村娘に、護衛対象のためにその身を擲つほどの覚悟など、あろうはずがない。却って対象の護衛や離脱を妨げるはずだったのだ。
だが、セオからの報告書を見て愕然とした。
裏から感応術師団に手を回し、嫌がらせのように見せかけてねじ込んだ半人前の術師――リネットと共に、短時間とはいえエディルと渡り合ったというではないか。さらにはその後、知性を失ったエディルから、その身を呈して小娘を逃がしてみせた。エディル自身は小娘が二人、どうということはないと油断した面も多分にあるのだろうが、何にせよあの平民のせいで奴の想定通りにはならなかったのは確かだ。
最後の誤算はエディル自身だ。能力が暴走したからか、別の思惑があったのかはわからないが、指示していなかった小娘の殺害を企んだ。
邪魔ではあるが、腐っても王族なのだ。誰から見ても疑念を抱きにくい形にできないのであれば、殺すべきではない。従軍して戦死しただとか、重い病で病死したとかであればいいが、移動中に襲撃されて死んだとなれば、軍を派遣して大規模な調査を行うことになる。そうなれば隻鷹団を動かしていることは早晩明るみになり、芋づる式に私のところに累が及ぶ危険性があった。
まぁこれは結果的に阻止されたから良かったものの、奴は戦いの最中に要らぬ話を漏らしてしまっている。
人名だと断定はされていないようだが「アシェラ」という言葉はセオやミリアの報告書に書かれているし、それを根拠にエディルの単独犯ではなく、何かしらの背後関係があると気づきつつあると考えていい。
まったく、馬鹿なことをしてくれたものだ。
ただ、すべてがすべて悪い方向だった、というわけではない。間接的にではあるが、私にも利のあることもあった。それはとある"男"の情報を得たことだ。
「良かったことと言えば、お探しの人が見つかったことくらいでしょう。」
「(えぇ、本当に! 長く待ち望んでいましたの!)」
私の言葉に、女の声は蕾が花開くように弾んだ。これまでの付き合いの中で、この女がこれほどまでに喜んだことなどないと断言できるほどに。
それほどまでに待ち望み続けた者――ルカが見つかったという連絡をしたからに他ならない。
恋焦がれた異性、というのが、一番近いような気がしないでもないが、それだけかというと、どうにも違和感がある。
あの男がアシェラにとってどういう存在なのかはわからないが、私がアシェラと接点を持ってからというもの、彼女はずっとあの男を探していた。
もちろん私にとって、あの男に大した価値はない。剣の腕が立ち、感応術も器用に扱えるとは聞いているが、それだけだ。
だが彼女にとっては違う。あらかじめ聞いていた名前や特徴に一致する男が、辺境にあるブレーヴェ村にいることを確認した。たったそれだけの情報でこの女は狂喜乱舞したのだ。それほどまでにルカという男の情報はアシェラという女にとって重要らしい。
「(ゲルハルト卿、今日ルカと会ったのでしょう? 貴方から見て、どうでしたか?)」
いつもの落ち着いた淑女然とした様子とは違い、明らかに熱を孕んだ声音で嬉しそうに問うてくるアシェラは可愛らしい年頃の乙女のようだ。私にしてみれば、本当に普段やり取りをしている相手なのかと疑いたくなるくらいに……
「えぇ、直接言葉を交わしてはいませんが、私の見る限りでは好青年でしたよ。その場に合わせた立ち居振る舞いができ、陛下を前にしても実に堂々としていましたね。」
「(本当に? うん、そうよね……あぁ、やはり思った通り……素晴らしいわ……)」
「聞いた話では、南西にある港湾都市セルディアの方へ行った後、我が国を出て東の方へ足を伸ばす予定だとか。」
「(セルディア? そうなのね……ふ……ふふっ……セルディアね……)」
顔が見えない以上、その表情を見ることはできないが、頬を赤く染め、歓喜に震えているだろうことは容易に想像できる。
ここは一つアシェラが喜びそうな提案をしておいたほうが良いだろう。
「せっかく見つかったわけですし、今後は私の手の者に行動を追わせておきましょう。また新しい情報があれば、都度お耳に入れるということでどうですかな?」
「(あぁ! なんて素敵なことでしょう! こちらからお願いしようと思っていたのですけど、そちらからご提案いただけるなんて! 感謝いたしますわ、ゲルハルト卿。なにか貴方のためになりそうなものを考えますので、後日お届けいたしますわね!)」
私の提案にアシェラは喜んだ。私は、彼女と彼女が所属していると思われる組織には、そもそも人自体が少ないと見ていた。本当にそうなのであれば、人手の必要な対応はこちら側で協力し、恩を売ったほうがいい。そうしておけば、彼女は言葉通りこちらに利するものを対価として提供してくれるからだ。
そしてその予想は正しかったらしい。
「それはありがたい。どのようなものなのか、楽しみにしておきますよ。」
「(えぇ、貴方の次の計画には間に合うようにいたしますね! あぁ、こうしていられません。いろいろと準備しなければ……ゲルハルト卿、今夜はこれで失礼いたしますね!)」
「え、えぇ、それでは、また……」
興奮も冷めやらぬまま、捲し立てるように言い切ると、アシェラは会話を打ち切った。
うっすらと感じていた、奇妙な感覚。言うなればアシェラの意識と繋がっているかのような感覚が、ふっと途切れる。
私は深くため息をつき、椅子の背もたれに身体を預けた。妙に疲れた感覚が残っている。
「あの男の話が聞ければそれで満足、ということか……」
おそらく今日は、あれこれと自分や私の目的や計画について話をしたかったわけではなく、ルカという男の話が聞きたかっただけなのだろう。
アシェラのルカに対する偏愛、偏執、妄執……言い換えれば依存とも言える歪んだ情愛に、危うさを感じずにはいられない。
今はお互いの利害が一致していることもあり、協力関係を維持しているが、あの女は破滅の匂いがする。ルカという男を巡り、本人が破滅するのか、周囲が破滅するのか。
私はどこかでこの女との関係を断つという判断をせねばならないだろう。
それがいつになるのか見通すことはできないが、引き際だけは誤ってはならない。
私は机の端に置かれていた鈴を鳴らした。すぐにでも従者がやってくるだろう。
後片付けを任せ、帰ることにしよう。疲れを残したままでは正しい判断はできない。私は狂った女のせいで破滅するつもりはないのだ。




