第八十六話 友人というもの
ヴェールスフィア王国の王都エレドリア。その中央に位置する王城は三つの塔が寄り添い、つながったような姿をしている。
そのうち中央にある一際高い塔に、その部屋はあった。ちょうど先日の白陽礼の時に、リィゼたちが国民の前に立ったバルコニーのある部屋だ。その部屋は、今夜予定されている食事会の為に、部屋のレイアウトが大きく変更されていた。
バルコニーに続く大きなガラスがはめ込まれた扉からは、だんだんと夜の気配が近づく中、明かりが灯りだした城下の街が見えるが、今夜は美しい刺繍で飾られたレースのカーテンで遮られていた。光を遮るほどのものではないが、部屋の中に誰がいるかを判別することは難しいだろう。
運び込まれた長いテーブルの上には、質の良いカトラリーや美しい装飾のグラスが並べられ、いつでも賓客を饗せるようにと準備が進んでいる。
忙しなく動き回っていた使用人たちも、その準備の終わりが見え始めると、各々が所定の位置に立ち、主の到着を待っていた。
程なくして廊下側の扉が使用人の手によって開かれると、その向こうに見えたのは国王であるエアルドの姿であった。
少し黄色の混じった灰色の髪に青灰の瞳。筋骨隆々というわけではないが、程よく鍛えられていることがわかる身体は、泰然として穏やかながらも国王としての威厳を感じさせる。
すぐ後ろにはリュシア――リュシア=レムナート=ヴェールスフィアとセレス――セレス=ロイナー=ヴェールスフィア、そしてリィゼが続く。最後に宰相のゲルハルトが入ってきたが、二人の王子の姿はなかった。
エアルドが部屋の中へ進み出し、テーブルの最奥の席に悠然と腰掛けると、続けてエアルドの左手前にリュシア、右手前にセレス、そしてセレスの隣にリィゼが座り、最後にゲルハルトがエアルドの斜め後ろに移動して、控えるように立った。
すると、王族が全員座ったのを見計らったかのように、扉の向こうからよく通る女性の声がした。ミリアの声だ。
「失礼いたします。ルカ様、エリナ様、ならびにアーヴ様をお連れいたしました。」
「うむ。入ってもらってくれ。」
ミリアの声にエアルドが入室を促すと、扉の両サイドに控えた使用人が小さく一礼した後、両開きの扉をゆっくりと開く。扉の向こうに立っていたのはミリアだが、室内へ一歩入るとすぐに横へずれ、後ろの三人に道を譲るようにして下がった。
すぐ後ろにはルカとエリナとアーヴの三人の姿。
ルカがエリナの手を取って、エスコートするように立ち、エリナの反対側にアーヴが立っている。
ルカとアーヴは黒に近い濃紺の上衣とズボンを身にまとっていた。袖口や襟元などに銀糸で美しい刺繍が施され、シンプルながらも上品にまとめられている。エリナの方は淡い若草色のドレス。首元は浅く、袖も手首の手前まであり、過度な露出はない。腰の位置から柔らかく広がるスカートには、光の加減でようやく見えるほどの控えめな草花の刺繍が施されていた。髪はサイドを編み込んでハーフアップにして刺繍同様草花の模様をあしらったバックルでまとめている。
それぞれ貴族のような華やかさや豪華さはないが、少なくとも王城に出入りする姿としては十分な装いであった。
見るからに緊張で表情を引きつらせ、ガチガチに固まっているエリナに合わせ、まだ多少余裕の見えるルカが歩調を合わせるようにして数歩進む。
それに比べてアーヴはというと、緊張はしていないようだが、どこかそわそわと落ち着かない様子で二人の横に並ぶように立った。
背筋を伸ばし、まっすぐ正面を見る男二人がさっと一礼すると、それに気が付いたエリナが、慌てて空いている方の手でドレスのスカートを摘み、カーテシーをとる。
履いたこともない高さのヒールがある靴のせいでふらふらとしながらも、何とか転けるような醜態を晒すことなく乗り切った。
背中に嫌な汗をかきながら恐る恐る視線を上げると、にこやかな様子の王族に混じって、今にも吹き出しそうな笑顔でリィゼがこちらを見ているのが目に入る。
「(リ、リィゼってば、も~~!)」
国王や妃殿下たちの手前、何も言えないエリナは必死で笑顔を作って耐えるしかない。
「ルカと申します。本日はこのような席にお招きいただき、誠にありがとうございます。」
「え、エリナと申します! 本日はお招きいただき、ありがとうございます!」
「陛下、並びに殿下方におかれましては、ご機嫌麗しゅう存じます。私、名をアーヴと申します。本日はこのような席にお招きいただき、恐悦至極に存じます。」
ルカから順に、三者三様に名乗り、挨拶を口にする。
ルカとエリナはそれぞれらしいと言えばらしいのだが、意外だったのはアーヴだ。普段の様子を知るルカやエリナ、リィゼ、ミリアは驚いたように目を見開き、逆に初対面であるエアルドやリュシア、セレスは感心したように微笑んでいる。
一呼吸おいてエアルドが立ち上がった。
「わざわざ来てもらってすまなかった。今宵はあくまでも非公式の場だ。王族と国民としてではなく、ある少女の家族とその少女の友人たち、という間柄でいられれば嬉しく思う。さぁ、かけたまえ。」
いくら娘の窮地を救ってくれたことに対する謝意を抱いているとはいえ、一国の王が簡単に口にしていい言葉ではない。後ろのゲルハルトが渋い表情になっているところを見るとよくわかる。
エアルドの言葉を受けて、三人は再度一礼すると、それぞれが準備された席へと移動した。エリナはリィゼの隣に、ルカはエリナの正面に、アーヴはルカの右隣に案内される。
ルカとリュシアの間の席が一つ空いているのは気になるが、そこに案内されなかったということは少なくともルカたちの席というわけではないのだろう。
「(後から誰か来るのか……?)」
気にはなるが、ルカはあまり深く考えることはせず、今はこの場に集中することにした。
非公式と明言されているとはいえ、それでも相手は王族だ。こちらの言動に失礼なり問題なりがあれば、自分たちの今後に影を落とす可能性は十分考えられる。
緊張しているエリナ、意外に落ち着いた様子のアーヴ、嬉しそうなリィゼ、穏やかな笑顔を見せるエアルドと二人の妃。出席者の表情を眺めているうちに、使用人たちによってそれぞれの前に置かれたグラスに淡い琥珀色の液体が注がれた。これはかなりアルコール度数の低い食前酒の一つで、花の蜜で作られた酒を水で割り、ハーブで味を整えたものだ。一滴も飲めないほど酒に弱い者でなければ、年若い者も口にすることができる。
全員のグラスに酒が行き渡ったことを確認したエアルドがグラスを持つと、他の面々も同様にグラスを手にする。
すると、エアルドの決して大きくはないが、よく通る声が響いた。
「今宵は我が娘リィゼを窮地から救い、その心を支えてくれた友人たちであるルカ殿、アーヴ殿、エリナ嬢をこの席に招くことができ、私はとても嬉しく思う。緊張するなというのは難しいかもしれんが、堅苦しいことを言うつもりはない故、まずは料理と酒を楽しんでもらいたい。」
エアルドは一人ひとりの顔を見回した後、手にしたグラスを掲げた。
「皆の健勝と、このよき出会いに……乾杯!」
「「「「乾杯!」」」」
エアルドに続いてその場にいる者たちの声が響く。エアルドがグラスを口元へ運ぶと、それに続くように他の者も手にしたグラスの中身を口にした。
花の蜜の甘さが淡い酒精の香りと混ざり合い、喉から鼻に抜けていく。残るのはハーブの爽やかさだ。
確かに酒ではあるのだが、喉を焼くような感覚は皆無で、普段酒を口にすることのないエリナやリィゼにしてみれば、少しばかり背伸びした大人の味といったところだろう。
たった一口ではあるが、初めてのドレスに王族への挨拶、そしてそのまま王族と同じテーブルにつくことになり緊張続きだったエリナは、やっとひと心地ついたらしく、少しホッとした表情を浮かべていた。
そこから先は、実に和やかな雰囲気で食事会は進んでいく。
招かれたとはいえ、こちらは傭兵であり平民だ。王侯貴族を前にしてはどうしても身構えてしまう。だが、平民出身のセレスだけではなく、エアルドやリュシアも、ルカたちを見下すような素振りはなかった。
エアルドの言葉通り、「ある少女の家族とその少女の友人たち」として見てくれているところもあるのだろうが、言葉の端々からそれだけではないということはよく分かる。
王侯貴族は特権階級ではあるが、その特権は無制限ではない。自分の領地や支配下にある民を庇護し、導くことができなければ、その特権を振るうに値しない。同様に民は庇護され、導かれることの対価として、税を納め、労働力を供するのだ。両者は車の両輪であり、どちらかだけに偏っていたり、どちらかしかなかったりするようでは、領地であれ国家であれ、まともに機能しない。それでは繁栄も平和も手にすることはできない。
そういった思想や理念が、生まれながらにして王族であったエアルド、公爵家の出身であるリュシア、平民から輿入れすることになったセレスとルーツの異なる三人のそれぞれに、等しく共有されているのだ。これは極めて稀な例だろう。事実、前王時代は身分や階級による差別はもちろん、民草に圧政を敷く領主もかなりの数だったと聞いているし、他国でもそれぞれの国の政治体制の差などから多少の違いはあるものの、やはり階級や立場が上の者が下の者を見下し虐げる例は枚挙にいとまがない。
「もちろん、最初からこうだったわけではないのですよ? 私が輿入れしてきてすぐの頃は、リュシア様は怖いし、陛下はオロオロして頼りにならないしで大変だったのですから。」
「セレス……あの頃のお話はよして頂戴。私も平民階級の人間との接点なんてほとんどなかったから戸惑うばかりで、貴女にどう接すれば良いのかわからなくて困っていたのよ? でも王家としての立ち居振る舞いはしっかりしてもらわないと内外に示しがつかないし、陛下は惚れた弱みなのか貴女に強く言えないものだから私が言うしか無いし、アルヴェインはお腹の中で元気に動き回るしで毎日大変だったのだから。」
「うぐぐ……二人して私を責めるのはやめてくれんか……私は私で当時は大変で……いやいや、客人の前で言う話ではなかろう!」
どっと笑いが起こる。
見回してみると、ミリアのような距離感の近い侍女や使用人だけではなく、壁際に控えている者たちも皆一様に笑顔だ。この場限りで装っているわけではなく、普段から家族としての仲も良好なのだろう。一人エアルドの後ろに控えているゲルハルトの表情だけがどんどん険しくなっていくのが何とも滑稽だった。
「お、いるいる。どうやら間に合ったみたいだね。」
エアルドの声に似ているが、それにしては若い。艶と張りがあり、自信に満ち溢れた、よく通る声がした。
少し弾んでいるように聞こえるのは、急いできたからか。
皆の視線が一斉に声の主へと向けられる。
「あら、思っていたより早かったわね。アルヴェイン。」
「間に合わせようと頑張ったのですよ、母上。リィゼの恩人の方々に会えるのですから、多少の無茶くらいは、ねぇ? それにレオニスは騎士団の任務で出払ってしまっているし、それなら私だけでも顔を見せないと、兄が二人ともいないなど、申し訳が立たないでしょう?」
人の良い笑顔を湛えながら、リィゼに向けてウインクして見せたのは、エアルド譲りの青灰の瞳に、淡い金色の髪の美青年、アルヴェインだった。
自身の家族に笑顔を向けたあと、エリナ、ルカ、アーヴと順に視線を巡らせていく。
「あ、アル兄様!」
「アルヴェイン殿下!?」
飛び跳ねるようにエリナが椅子から立ち上がった。
「あ、えっと、あの……わ、私! え、エリナって言いますっ! お、お会いできて、光栄ですっ!」
憧れの王子様の登場で、エリナの頭の中からマナーは綺麗に吹き飛んでしまったのか、カーテシーも忘れてただ深々と頭を下げる。
なにせ前々から旅人に頼み込んでは様々な評判やエピソードを聞かせてもらい、術版画を穴が開くほど眺めて、長く憧れていた王子様が目の前に現れたのだ。エリナが平静を保っていられないのも無理はない。
突然のエリナの反応に、リィゼは口元を押さえて肩を震わせ、ルカは呆然とし、隣のアーヴは頭を振ってこめかみを押さえていた。
「エリナ、ここはカーテシーをとって挨拶するところよ?」
「え? あ、嘘っ! うわわっ! も、申し訳ありません!」
言うな否やまたも一礼。カーテシーは頭から綺麗に飛んでしまっているようだ。
「はははっ! いいよ、それくらい気にしないさ。さて、じゃあ私も座らせてもらおうかな?」
アルヴェインは特に気にした様子もなく笑い飛ばすと、エリナにひらひらと手を振って、自分の席へ向かう。リュシアとルカの間に空いている席。どうやらそこがアルヴェインのために準備されていた席のようだ。
アルヴェインがルカの隣の席に腰掛けると、食事会は一段と華やかになった。これまではどこか落ち着いた雰囲気で進んでいた部分があったが、会話の中心が、エアルドやリュシア、セレスの年長者三人から、アルヴェインへと移ったからだろう。
王子として教育を受けているからか、様々なことに造詣が深く、かといって話が難解にならないよう、言い回しはエリナにも分かる平易な言葉を選ぶ。絵画のように整った顔で笑顔を振りまけば、エリナや、比較的年若い使用人には目の毒と言っても過言ではない。
「エリナのヤツ、王子様以外見えてねぇな……」
「まぁ憧れてたみたいだし、仕方ないだろ。」
「いや、リサの嬢ちゃんから聞いてたけどよ……想像以上だったわ。」
もはや瞳がハートマークになろうかという表情のエリナを、呆れたようにルカとアーヴが見ているが、当の本人は気付きもしていない。
確かにあの美貌と立ち居振る舞い、声も良く知性に満ち溢れていて、加えて王子である。好きになるなという方が難しい。
「そういえば、リィゼ。三人は恩人だと聞いているけど、エリナ嬢とは友人としても親しくしているというのは本当かい?」
「うん……いろいろあってね……エリナは私が王女かどうかなんて関係なく、ちゃんと友達として接してくれるの。」
ふと、リィゼにアルヴェインが問いかけた。その問いに、先程まで談笑していたエアルドやリュシア、セレスも反応し、耳を傾けている。
王族や宰相など一部の面々は、リィゼが帰還したあと、王都を発ってからの一連の出来事の報告を受けていた。もちろん本人からだけではなく、セオやミリアといった関係者からもだ。
そしてその中で、エリナという友人ができたという話も耳にしていた。最初はフィリスとして接していたことも、途中でやむを得ずリィゼであることを明かしたことも。
妹であり、王女であるリィゼに友人ができたということは、本来素直に喜ぶべきなのは確かだ。だが、王女という身分から、対等な友人を持つことが非常に難しいということを、リィゼの家族は身を以て理解している。それはただ単に「友人を作ることが難しい」ということではない。多くの場合、王女にできた友人などという存在は、何かしら思惑があって近づいてきたのではないかと疑われるのが常だ。裏表なく対等に付き合ってくれるような人間など、探したところで見つかるものではない。
「最初は身分を隠したままだったから、一度は騙した形になってしまって……でもエリナは変わらずにいてくれたの。」
リィゼは足の上で組んだ自分の手元に視線を落とし、柔らかな微笑みを浮かべていた。
「――リィゼ、私のお友達になってくれる? そうしたら、嘘ついてたの、許してあげる。」
二人きりの天幕の中で、エリナが口にしたあの言葉も、その時の表情も、リィゼは鮮明に思い出せる。
あの言葉が、どれほど嬉しかったか。どれほど救われたか。
リィゼの表情をじっと眺めていたアルヴェインが、少しだけ頬を緩める。
「そうか……リィゼにとっては良い出会いだったようだね。じゃあ次はエリナ嬢だ。少しいいかな?」
アルヴェインの視線がリィゼからエリナへと向けられた。緩んでいたはずの表情から、笑顔が消える。威圧的、とまではいかないが、冷静に何かを見極めようとする、少し冷たい視線だ。
「は、はい!」
先ほどまで和気藹々と会話に興じてくれていたはずの王子様から思いもよらぬ視線を向けられ、エリナの表情に緊張が走る。
ふと見ると、エアルドたちもアルヴェインほどではないが、静かに見定めるような視線をエリナに向けているし、ゲルハルトに至ってはかなり厳しい目をしている。
「(やはりこうなりますか……)」
リィゼの背後、壁際に控えているミリアの表情が曇る。
表向きは王女の護衛についての感謝を伝え、報奨について話をすることが目的だと言われているが、やはりエリナがリィゼの友人として相応しいか、ある種の見定めが行われるのだと予想していた。
「(エリナさんは貴族や商人などではないですし、姫様に近づいてどうこうしようという考えはないでしょうが、陛下や殿下方がどう見るか……)」
ミリアの位置からエリナの表情を窺い知ることはできないが、緊張していることはわかる。彼女の身体が力んで強張っているのは背中からでもわかった。
アルヴェインという人間は人当たりがよく、人格者だと世間一般に広く知られている。だが、それでも彼は現時点で王位継承権第一位にある王子だ。王となるべく様々な教育を受けているし、王族というものが優しいだけでは務まらないことも理解している。自身に憧れの目を向ける少女にプレッシャーを与えるような振る舞いは心苦しいが、それでも妹のためには避けては通れない。
「申し訳無いけど、君のことは少し調べさせてもらっているんだ。ブレーヴェ村出身で実家は小さな商店。両親とは死別していて、今は兄と義理の姉との三人家族。最近まで村を出たことはほとんどなかったようだけど……合っているかな?」
「はい……仰る通りです。」
エリナがその目を見開いた。まさかただの村娘でしかない自分のことを、王子が知っているなどとは思いもよらなかったのだろう。
王族ともなれば、裏稼業の人間が相手でもない限り、国民の情報を調べること自体は容易い。本人に縁のある村の長なり役所なりへネクサバードを飛ばせば、この程度の表面的な情報は、ものの数日で集められる。だが、表面的な情報ではアルヴェインが懸念している事を推し量ることはできない。
「まぁ、この辺りの情報は特に問題はないね。ごく普通の村人だと言っていい。ただ、ほとんど村から出ることのなかった君が、どうして突然リィゼの護衛になろうとしたのかがわからないんだ。事情を知らない私たちにとっては、そこをどうしても疑わないといけない……」
「アル兄様! エリナはっ――」
「リィゼ。これは大事なことなんだ。話が終わるまで黙って待っていなさい。」
「……っ!」
アルヴェインの詰問とも取れる物言いに、リィゼが声を荒げた。
大切な友人を疑うなんてと、怒りに顔を紅潮させて椅子を跳ね飛ばすように立ち上がる。
だが、アルヴェインは冷静に、それでいて有無を言わさぬ目をリィゼに向けた。今までこんな目でアルヴェインに見られたことはない。
兄の視線に射すくめられ、言葉が出ないリィゼは、思わず一歩後ずさってしまった。退いた右足が椅子の足にコツンと当たり、尻餅をつくように椅子に座り込んでしまう。
俯き、膝の上でギュッと手を握っているリィゼを見て、アルヴェインは一瞬悲しそうな目をしたが、彼はその感情を即座に覆い隠し、エリナに向き直る。
「さて、途中ですまなかったね。じゃあ改めて聞かせてもらえるかな? なぜ君が、あのタイミングでリィゼの護衛として村を出ることにしたのか。君の考え、思い、私たちの知らない事情も含めて、嘘偽りなく話して欲しい。いいね?」
アルヴェインの口調に高圧的な感じはない。だがその声音には有無を言わせぬ力がある。
エリナの表情は引きつり、血の気が引いてしまっていた。だが、ルカもアーヴも、ここで口を挟もうとはしない。
おそらくそれはエリナとリィゼのためにはならないだろう。アルヴェインや他の王族、そしてゲルハルトといったこの場にいる者たちにとって、エリナ自身の言葉が重要なのであって、それ以外の者の言葉は求められていないのだ。
「それは……」
なんと答えればいいのか。
何から話せばいいのか。
うまく話せる自信はないが、もう正直に話すしかないだろう。元々ルカについて村を出ることが目的だったのであって、言い方は悪いがリィゼの護衛任務自体はついでだったのだ。
エリナは小さく息を吐くと、顔を上げた。ルカをちらりと見た後、その隣に座っているアルヴェインの目を見る。
「リィゼ殿下が村にいらっしゃる前、私はアルヴェイン殿下の隣にいるルカに出会いました。私の実家の雑貨屋に、旅の途中で村に立ち寄った彼が来たんです。昔から村の外のことに興味があった私は、いつも旅人に話しかけるのと同じように彼にも話しかけました。ルカはとてもいろんなことを知っていて、私や周囲の人たちが思いもつかない視点の話をしてくれるんです。村が生活のすべてだった私には、彼から教えてもらえるいろんなことが本当に衝撃的で……」
エリナが語りだしたのは、ルカとの出会い。今のところアルヴェインの問いへの直接的な答えにはなっていないが、だれも彼女の話を止めようとはしない。
アルヴェインも黙ってエリナの声に耳を傾けている。
北の森やサテライトの話は意図的に避けているようだ。
「そんな感じで、彼は迷惑だったかもしれませんが、無理を言ってずっとついて回ってました。そんなある日、ふと思ったんです。あぁ、この人に付いて行ったら、この人の隣で同じものを見て回れたら、私一人ではたどり着けない未来を見ることができるんじゃないかって……そう思ったら居ても立ってもいられなくなって……気がついたら、兄と義姉、そしてルカに頭を下げて、一緒に旅に出たい、ついて行かせて欲しいってお願いしてました。でもその時、ルカにはすでに護衛依頼の話が来てたみたいで……」
顔を伏せたまま、じっとしていたリィゼが、いつの間にかその視線をエリナへと向けている。
「ルカが依頼を請けるなら、彼がバルディアへ行って戻ってくるまで、いつになるかもわからないまま待たなきゃいけない。そんなの、我慢できなくて……そしたら義姉が女性の護衛を探しているみたいだって教えてくれたんです。だから、翌日すぐに護衛部隊の皆さんの元を訪ねて、護衛を志願しました。これが事の経緯になります。ですので、護衛依頼そのものや報酬については、正直なところそれ自体が目的ではありませんでした……それを馬鹿正直に話したものだから、対応してくださったセオ様にも"言葉が軽い"とお叱りを受けてしまって……」
いつの間にか周囲の視線のすべてが自分に向けられていることに気が付いたエリナは、少し照れたように頬を染め、顔を伏せた。
アルヴェインの視線も、先ほどよりわずかに緩んでいるように感じる。
「ふむ、なるほど……」
エリナが口を噤み、訪れた僅かな静寂の中、エアルドが小さくつぶやいた。
腕を組み、顎先に手を添えて何事か思案しているように見える。
その時、エアルドの後ろに控えていたゲルハルトが口を開いた。
「失礼ながら、私からよろしいでしょうか。」
「ゲルハルトか……うむ、言ってみよ。」
エアルドが促すと、ゲルハルトはエリナを一瞥してから、エアルドに向かって話し始めた。
「私は、リィゼ殿下とエリナ嬢が友人として親しくすることには反対です。」
「ゲルハルト卿!?」
王族や本人を前に、何のためらいもなくはっきりと言い放ったゲルハルトに、リィゼが悲鳴にも似た声を上げた。
だがゲルハルトは眉一つ動かさない。さも当然のように続ける。
「確かに先ほどの話を聞く限り、何か思惑があってリィゼ殿下に近づいたのではないのかもしれません。ですが、先ほどアルヴェイン殿下が示された通り、彼女はほとんど村から出たことがない。つまり学と呼べるものは役場の週末教室程度……実家の商店を手伝っている可能性を加味したところで、リィゼ殿下が彼女から得られるものはないと断言しても良いでしょう。そのような者との交流に時間を割くくらいであれば、王族としての教育や公務にお時間を割いていただくべきだと愚考します。」
ゲルハルトの意見は、王侯貴族としての正論だ。日々王侯貴族が高度な教育を受けている以上、そういった教育を受けていない平民との付き合いに時間を割くことに大きな価値はないと考えているのだろう。
王立学院なり、学術都市シルヴァーレンの研究機関なりに所属していれば違うのかもしれないが、あいにくエリナはそういった組織とは無関係だ。
「なるほど、それがゲルハルトの考えか。リュシア、セレス、二人はどうだ?」
ゲルハルトの考えを聞いたエアルドは、是とも非とも言わぬまま、二人の妃へと水を向けた。
「私はゲルハルト卿ほど厳しくは申し上げませんが、そのお考え自体には概ね賛成です。エリナ嬢と交友を深める時間に価値を見いだせないのであれば、ご遠慮願う他ないでしょう。」
リュシアも少し表情を曇らせてはいるものの、ゲルハルトの意見に賛同した。リィゼが悲しむのは本意ではないが、彼女のためにはエリナと付き合うべきではない、と考えているのだろう。
一方のセレスは、一度口を開きかけた後、リィゼに申し訳なさそうな視線を向けると、エアルドの方へ向き直った。
「私は……リィゼの実母ですから、何を口にしても公平なご判断に水を差しかねないでしょう。ですからこの場で意見を申し上げることはいたしません。」
母として、娘の気持ちに寄り添ってやりたいとは思う。自身も平民出身であるからこそ、そういった身分の者と交流を持つことに意義があると訴えることもできるだろう。逆に厳しいことを言ったとしても、額面通りに受け取ってもらえないかもしれない。
そういったことを逡巡したセレスは、あえて意見を述べないことにしたのだ。
「そうか……ではアルヴェイン。お前はどう見る?」
セレスのもどかしい思いを見て取ったのか、エアルドは少し憐れむような目をセレスに向けたが、その後視線はすぐにアルヴェインへと向けられた。
エリナの言葉を正面から受け止める形となった若き王子がどう考えたのか、全員がその言葉を待つ。
「そうですね。ゲルハルト卿や母上のご意見はもっともでしょう。」
アルヴェインはゲルハルトとリュシアの意見に同調した。王族としては確かにそのとおりだと。
その言葉を受け、リィゼはがっくりと肩を落とした。顔を伏せ、涙をこらえ、小さく震えているようにも見える。
だが、アルヴェインの言葉は止まらない。続けられた言葉は、先の二人の意見とは全く異なるものだった。
「ですが、私の意見は違います。リィゼはヴェールスフィア王家の一員。第三位とはいえ王位継承権を持っている以上、女王となる可能性がありますし、どこかの貴族の元へ嫁ぎ、領地を運営せねばならないという未来もあり得ましょう。国王である父上ならよくご存知のことかと思いますが、為政者にとって、もっとも見えづらいものの一つ……それは"民草の思いや価値観"ではありませんか? 我々や貴族の物の見方だけでは治世は平穏たり得ぬもの。人心掌握と言ってしまえばいささか悪く聞こえますが、エリナ嬢との親交は己の言動によって民草がどう感じるかを、リィゼが身を以て知る良い機会と考えます。」
「アル兄……様……?」
リィゼの潤んだ瞳がアルヴェインを捉える。
いつもの優しい笑顔でありながらも、力強く、己が意思をまっすぐ伝えようとする、そんなアルヴェインがそこにいた。
フッと微笑んでみせた後も、アルヴェインの言葉は続く。それは妹を思う兄の言葉であり、国を思う王子の言葉でもあった。
「セオからの報告では、セオ自身の名でネクサバードの所有許可を出しているようです。加えてこの後ルカ殿と共に南西のセルディアの辺りに立ち寄った後、王国東部を経てベルゼア神聖皇国、グランフェルト共和国、ナヴァルシア帝国と各国を見聞して回る予定と聞きます。リィゼの友人として親交を持ちながら、場合によっては他国の市井の様子を教えてもらう、ということもあるでしょう。リィゼの心に寄り添い、民草の価値観を知るきっかけとなり、他国の文化や風土を知る一助にもなる……リィゼとエリナ嬢とが友人同士であることに、私は十分すぎるほどの価値があると考えます。」
実に堂々とした物言い。
別にゲルハルトやリュシアの意見を頭ごなしに否定したわけでも、妹の思いを盲目的に後押ししたわけでもない。
しかし、今アルヴェインが持ちうる情報と、彼自らが考える国家と王族のあり方を踏まえた上での言葉であった。
「なるほど……良い意見です。民草の価値観、他国の様子……確かに価値を認めることもできましょう。」
アルヴェインの言葉の後、少し静かになった部屋の中に、リュシアの美しい声が響いた。価値を認める、つまり言外にリィゼとエリナの付き合いを認めると言っているのだ。
正妃として、ヴェールスフィア王国と夫エアルドを支える立場にある者として、己の考えや私情よりも、国益に適うと判断できるのであれば、躊躇うことなくそちらを選択する。その判断ができるリュシアは、アルヴェインの言葉を受け、リィゼとエリナの交流が国益に資すると考えたようだ。
「り、リュシア殿下、お待ちください! そもそも"民草の価値観"など、役人からの報告でも十分ではないですか。加えてリィゼ殿下は一部の貴族が眉をひそめるのも構わずお忍びで街へ繰り出し、自身の目で平民の暮らしぶりをご覧になっていらっしゃるでしょう。他国の話にしても、調査員を派遣しているわけですし、あえて彼女からそれを聞かねばならないわけでもありません!」
「ゲルハルト卿の言葉もある意味では正しいでしょう。ですが、国の組織や役人の視点と、それらとは無関係であるエリナ嬢の視点では見える景色が違うでしょうし、また彼女は王都の民ではないのですから、リィゼが城下へ出掛けるだけでは得られない知見を得られるのではなくて? 他国の話も、やはり調査員が重要と思うものと、彼女が気づき興味を持つもの、その違いは無視してしまうには惜しいように思います。」
自身の意見に賛同していたリュシアに意見を翻された形になったゲルハルトは、感情を抑えつつも抗議の声をあげる。
だが、ゲルハルトの言葉はリュシアを再び翻意させるには至らなかった。
「ふむ……まぁ各々の意見はよくわかった。立場ある者の時間の価値、国益、それらの観点もそれはそれで重要であろう。だが、私はそのようなものを気にせずとも良いのではないかと思うのだ。」
「……」
エアルドの口から出たのは、ゲルハルトやリュシア、アルヴェインの意見とは異なる視座からの言葉。
一瞬、その場の全員がエアルドの意図を理解できず、部屋は水を打ったように静まり返った。
だが、瞑目し、右手を顎先に添えたエアルドの表情は、穏やかに微笑んでいるようにも見える。
「……と言いますと?」
ゲルハルトが恐る恐るといった様子でエアルドに問いかけた。彼が何を考えているのか、まだ計りかねているのだろう。
「友人というものは、そこまで損得を考えねばならんのか? ゲルハルトよ……そなたにも親友の一人くらいいるであろう? リュシアは王立学院時代の腐れ縁の三人娘、セレスは実家の隣にあるパン屋の娘だったか……私なら悪友だな。立場に関係なく自然体で同じ時を分かち合える関係というのは、ある意味で他の何物にも代えがたいものだろう。限度はあるゆえ、友人と遊んでばかりでは困るが、ネクサバードで手紙のやり取りをし、たまに王都に寄った際には少しの時間を共にする。普段は王女としての教育や公務に精を出しているのだから、たまには気が休まる時があっても罰は当たるまい。違うかね?」
エアルドはリィゼとエリナの交流を認めている。
国王の意図が明確に述べられた以上、ゲルハルトはその言葉に従う他はない。
リィゼの護衛に参加した目的についても、調査員からの情報、セオやミリアから事前に受けている報告、エリナ自身の言葉、これらに問題があったわけではない。王家に対してあまり協力的ではない貴族や組織に関係しているわけでも、外国にルーツを持つわけでもないとなれば、これ以上本人に身の潔白を証明しろと詰め寄ったところでそれは悪魔の証明にしかならないだろう。
「……陛下がそのようにおっしゃるのであれば、私に否やはありません。」
それでも思うことがあるのは確か。ゲルハルトは内心穏やかではないが、感情を表に出さず飲み込んだ。
自分の後ろに控えている男が苦虫を噛み潰したような表情になる様を想像していたのか、困ったような笑顔を浮かべていたエアルドは、小さくため息をつくと、リィゼとエリナの方へと向き直る。
その表情は、国王としてのそれではなく、一人の父親としての穏やかな笑顔だった。
「さて、エリナ嬢。感謝を示す場として招いたというのに、いろいろと辛い話をしてしまったな。私たちにとってリィゼは、王女であると同時に大切な家族ゆえ、あのような話は避けられぬことだったのだ。どうか許して欲しい。」
「あの、私は……リィゼ殿下とのことを認めていただけただけで十分ですので……」
「ふふっ……あとはそうだな……私たちの前では遠慮はせんでいい。リィゼのことはいつも通り呼んでやってくれ。君が"殿下"を付けて呼ぶのは気に入らんらしいのでな。」
「はい。お許しいただきありがとうございます。ふふっ……リィゼ、その顔……」
友人付き合いを認めてもらえたのは嬉しいのだが、何とも言えない膨れっ面になっているリィゼの様子にエアルドは気が付いたらしい。
エリナはもちろん、リュシアやアルヴェイン、セレスからも笑顔を向けられ、リィゼは照れたように頬を赤らめる。
「も、もう! いきなりあんな話になるんだもん、どうなることかと思ったんだからー!」
リィゼが文句を言うが、返ってきたのは皆の笑い声。
怒って見せたいが、エリナとこれからも友人でいることを許された嬉しさは隠しきれない。
やがて王都に帰還してから一番の笑顔を見せるリィゼを中心に、長く会話の花が咲いたのだった。




