第八十三話 黒の兆し
この世界は、一つの超大陸であるデューレイリア大陸と、その周囲の島嶼地域がすべてとされている。
そしてそのデューレイリア大陸では、ヴェールスフィア王国の他に、ルメリア諸国連合、ベルゼア神聖皇国、グランフェルト共和国、ナヴァルシア帝国という五つの国家がそれぞれの支配地域を有している。
航海術はあまり発達しておらず、船で沖へ出ることは出来るが、海岸線が見えなくなるような距離まで離れることは自殺行為と考えられていて、海の向こうに何かあるのか、それとも何もないのかは、調査の手が及んでいない。
海はあくまでも漁業と海運のための場所でしかないのだ。
そんな海に面した小さな港町リムウッド。バルディアから東に進んだ先にあるヴェールスフィア王国東部の海運拠点だ。元々は漁業で生計を立てているだけの小さな村だったが、王国東部の海運拠点とするために国が商業港を整備してからは、人も物も集まり、海の町として発展してきた。
とはいえ、もちろん漁業も無くなったわけではなく、水揚げされた水産物を加工して名産品として出荷するなど、街の経済を支える基幹産業の一つとなっている。
そんなリムウッドの沖合、漁師の父と息子がいつものように漁に出ていた。
白陽日前後のこの時期、南の暖かい海の魚が北上してリムウッドの周辺海域に現れ、旬の魚として皆の食卓に上がったり、干物に加工されて他の都市へ出荷される。この漁師たちが主に水揚げしているのもそういった魚だった。
「親父ー」
「あぁん? なんでぇ?」
漁船の舳先で漁場の様子を伺うように立っている息子が、舵を握る父親の方を振り返った。
呼ばれた父親は海岸線との距離感を確認しながら、いつもの漁場へと船を進めている。
「なんか最近の海、おかしくねえか? トラートもリーネも水揚げ量がどんどん減ってるしよぉ……」
「んー……お前もそう思うか? だがよぉ、海の中にいる数が減った感じはしねぇんだ……」
息子が口にしたのは海の違和感だった。季節柄たくさん水揚げされるはずの魚が、なぜかだんだんと減っているのだ。
父親の方も気が付いていたようだが、長年の経験から、ただ単純に水揚げ量が減っただけとは考えていないらしい。
「海の中で何が起こってんだろうなぁ……このまま減り続けたら生活できなくなっちまうよ。」
息子が自分のすぐ下に視線を落とした。
海は陽の光が穏やかな波にゆらゆらと揺らめいていて、何の違和感もないように見える。
「……ん? お、おい、親父!」
「あぁん? 何かあった……な、なんだぁ!?」
息子が指差す先には、美しいエメラルドグリーンの海が広がっていた。
だが、その水面の下には、黒く蠢く"何か"が海底一面に広がっていたのである。
波のせいで像がぼやけてわかりにくいが、ゆっくりと陸の方へ向かって動いているようにも見える。
「ありゃなんだ? 動いてるみたいだし、生き物か?」
「魚じゃねぇな……丸? いや、形がいろいろと変わってやがるのか?」
息子の問いかけに、父親が船の縁から目を細めて海底にいる黒い"何か"を凝視してみるが、彼の長い漁師人生の記憶に、その"何か"のような生物は何一つ思いつかなかった。
舳先の方から海を眺めながら息子が歩み寄ってくる。
「親父、潜って見てみるか?」
「やめとけ……なんだかわからねぇが、背筋が気持ち悪くて仕方ねぇ。大時化の前でもこんなになったことはねぇんだ……とっとと港へ戻って組合長に報告するぞ。」
黒い"何か"を見ていると、本能的に近づいてはならないと思わせる何かがある。すぐにでもこの場を離れるべきだ。そう父親の表情が物語っている。
「だけどよぉ……」
「やめとけっつってんだ。」
「……」
息子がまだ何か言おうとしていたようだが、一睨みして黙らせると、すぐに舵を取り、船の舳先を港へ向ける。
二人の乗る船は、その"何か"から逃げるかのように、漁場を後にしたのだった。
その後、港に戻った二人は、組合長に目撃したことを伝えると、しばらく漁には出ないと言い残して自宅へと戻っていったという。
二人の、特に父親の尋常ならざる様子に、組合長をはじめ多くの漁師はしばらく様子を見ようと出航を見合わせたが、二人の話を聞いてもまともに取り合わなかった漁師の一部は、勝手に漁に出てしまい、海から戻ることはなかった。
その数日後のこと、組合長の下には最悪の報告が寄せられていた。
リムウッドにほど近い海岸に、身体中を食い破られ、また場所によっては溶かされたような、見るも無惨な状態の漁師の姿が打ち上げられていたというのだ。
その周囲一帯には、件の親子が見たものと同じかはわからないが、黒いゲル状の物体が大量に漂着していたという。
ウォートランド公爵領の領都ウォートランド。
ヴェールスフィア王国でも屈指の有力貴族である、アルベルト=ウォートランド公爵の領地の中心となっている都市だ。
その中央にある領主の館の隣、公爵領の政務が行われている庁舎がある。
ウォートランド公爵領はヴェールスフィア王国にある貴族の領地としてはもっとも広く、王国の北東、ベルゼア神聖皇国との国境周辺地域一帯を治めている。
そのため、役人たちが仕事をしているこの庁舎は領主の館よりも大きい。
そんな庁舎の一角、南方の領地に関する業務を行っている部屋に大きなため息をついている男がいた。
「はぁ……またよくわからん報告が上がってきたなぁ……」
部下が持ってきた小さなメモ書きを手に、顔をしかめ、頭を掻く。
「急ぎってことではあるみたいなんですが……アルベルト様へ報告を上げてもいいですか?」
「馬鹿言うな。漁師が海で死んで、見つかった死体やその周りに黒い物体がついていたってだけだぞ? こんな理由のわからん報告、上げられるわけがないだろ。」
領地が広大だということは、その分領地運営のための仕事が多いということだ。各地の街や村から日々上がってくる報告や相談はかなりの量になる。
そうなると、すべてを領主が判断するのは現実的ではないし、優先度がそれほど高くない案件は、地域ごとの担当官がその裁量で処理することも多い。
要は国や領地にとって些末な問題であればあるほど、現場の担当者やその地域を担当する担当官が判断し処理することが望まれるということだ。
地方の領民が不慮の事故で死んだこと、その死体が少しおかしいこと。担当官にとって、その程度のことでは上司、ましてや公爵その人に報告を上げることなど有り得なかった。
「し、しかし……」
「ダメだ! 上への報告はしなくていい! 来月の定例巡回の時に調査するように指示しておけ!」
「……はい、承知しました……」
突き返されたメモ書きにある「重要事案」を示す印章に目を落とし、何とも言えない表情で部下は部屋を後にする。
確かに担当官の言う通り、報告内容だけを見れば上層部、ましてや領主である公爵まで上げるような話ではない。
ただ、リムウッドにいる現地の担当者がわざわざ「重要事案」の押印までしたことが、気にかかって仕方がないのだ。
「……」
所詮下っ端である。指示された定例巡回時に調査を追加するように手配しておくこと以外に、できることは多くない。
男は眉間に皺を寄せ、メモ書きを胸元にしまい込むと、足早にその場から歩き去っていった。
その後、王都エレドリアの担当部署に、ウォートランド公爵領から非正規の経路で報告が寄せられることになる。
だが、その一件を皮切りに、少しずつ似たような報告が上がり始めることとなった。そしてそのすべての内容に"黒"という情報が書かれていたのだった。




