第七十七話 妻には敵わない
「ねぇ、あんた。」
槌と麦亭の食堂を抜け、厨房のさらに奥、そこは「槌と麦亭」の主人ドルクと、その妻マルタの居住空間だ。
小さなキッチンとダイニング、リビングと寝室。それほど広くはないが、夫婦二人が生活するには十分だ。
キッチンはダイニングに対面するように作られており、備え付けのダイニングテーブルは二人が並んで腰掛けられるようになっている。
小ぶりな椅子の片方にはドルクが座っていた。ガッシリとした体躯を動きやすい作業服で包み、顎に髭をたくわえた初老の男。
もう片方の椅子にはマルタが座っている。少しふっくらとしたラインで目元や口元に年相応の小皺があるものの、宿の女将らしい快活な印象の女性だ。
宿泊客たちへ夕食を提供し終えた今、今日の二人の仕事はほとんど終わったと言って良い。
ドルクはその日の仕入れ分から残ったエールを、マルタは果実水を、それぞれ口にしながら一日の労をねぎらい合うのだが、今日のドルクはいつもと様子が違っていた。
木製のジョッキに入ったエールの水面を見つめながら、黙って俯いているのだ。
先ほどから妻が何度も話しかけているというのに、返事すらまともに返ってこない。
マルタはため息をついて頭を振ると、声を張り上げ、ドルクの背中を叩いた。
「あんた!」
「うぉっ……! な、なんでぇ、いきなり……」
「なんでぇ、じゃないよ。さっきからぼーっとしちゃってさ。気もそぞろって感じさね。柄にもなく一体何を悩んでるってんだい?」
ドルクはすっかり生ぬるくなってしまったエールを喉の奥に流し込み、空になったジョッキをテーブルの上にドンと置く。
「別に大したことじゃねぇよ……」
少し渋い表情を浮かべたドルクがぶっきらぼうに答えると、マルタは呆れたようにもう一つため息をついた。
「"大したことじゃねぇよ"じゃないさね。本当にわかりやすい人だよ……あの嬢ちゃんだろ? 何が気になるってんだい?」
「う……むぅ……」
マルタが口にしたのは、今日大怪我をした状態で運び込まれてきた女鍛冶師のことだ。
同じように商売を営む人間とは言え、職種も違えば店の場所も大きく離れており、これまで接点はなかった。
何年か前に「どこかから流れてきた女鍛冶師が工房を構えたらしい」という噂を聞いたくらいでしかない。
そんな女鍛冶師を宿泊客の少女が連れ帰ってきた。
緊急事態だから部屋を使わせてほしいと言われ、ドルクは二階の少女の部屋に彼女を運ぶのを手伝ったのだが、それ以降ドルクの様子が変なのである。
その女鍛冶師が何だとか、怪我人を連れ込まれたのが困るとか、そういった感じではない。なんといえばいいだろうか。少し物悲しいような、それでいて過去を懐かしむような、なんとも言葉にしにくい雰囲気が、ドルクの背中から見て取れる。
「あの嬢ちゃん……槌を、持ってやがったんだよ。」
「槌ぃ? 槌ならあんたも持ってるだろう? そんな特別なもんなのかい?」
マルタは不思議そうに首を傾げた。ドルクは今でこそ「槌と麦亭」という宿の主人に収まっているが、元々は鍛冶師だ。
そういった来歴もあり、「槌と麦亭」は宿でありながら、利用者たちの武具の修復や整備を請け負っている。
宿の裏手に作られた小さな小屋がドルクの作業場であり、そこにはもちろん彼が愛用している槌もあった。
当たり前だが、槌は鍛冶師にとっての大切な商売道具であり、誰しもが持っているのだから、珍しい話ではないはずだ。
「まぁな……ほれ、昔何度か話したことがあっただろ。俺の師匠の話をよ。」
「師匠ねぇ……あんたの面倒を最後までちゃんと見てくれなかったって人のことなんざ、忘れちまったね。」
ドルクが自分の師匠のことを口にすると、マルタは少しむくれたような表情を浮かべた。
以前に聞かされたドルクの師の話は、マルタにとってはあまり気分の良い話ではなかったからだ。
ドルクは若い頃、ダリオンという鍛冶師に師事していた。ダリオンはヴェールスフィア王国内では名の通った鍛冶師であり、王国とルメリア諸国連合との戦争中、実用性を重視した多くの業物を製作し、王国軍に貢献した人物でもある。
師の作り出す武器は、シンプルで美しい造形ながら、高い実用性を兼ね備えていた。そんな師の腕に惚れ込み成人する前からダリオンの元で修行し腕を磨いていたドルクだったが、最後の最後で、ダリオンは彼を一人前とは認めなかったのだ。
それがなぜなのか。当時は理解できずに荒れたものだ。
「そう言うな。今となっちゃ師匠がなんで俺を認めなかったのかも、わからなくもねぇからな。」
「そうかい……まぁ、あんたが納得してるなら、あんまりあれこれ言う気はないけどねぇ……で、槌だの師匠だのが何だってんだい?」
相変わらず機嫌はあまり良くなさそうだが、マルタは頬杖をつきながら、ドルクの顔を見ている。
ドルクはマルタに水を向けられ、ため息混じりに言葉を続けた。
「あぁ、あの槌はな、師匠の持ってた槌だ。持ち手なんかはさすがに変わってたが、頭に刻まれてた印は覚えてる。毎日見てたんだ、見間違えるはずがねぇ。」
「あん? じゃあ何かい? あの嬢ちゃんはあんたの師匠の親戚か何かかい?」
「いや、それはねぇ。師匠は身寄りがなかったからな。嫁さんもいたらしいが若い時に亡くしたらしいし、子どもも居なかった。だからあの嬢ちゃんは多分……」
ドルクは少し俯き言葉を詰まらせた。
マルタは鍛冶師の世界のことについてそれほど詳しくはないが、師匠と弟子という関係性や、槌が鍛冶師の大切な仕事道具であることはわかる。となれば、天涯孤独だったという師匠の槌を、同じ鍛冶師のレッタが持っている意味は、おそらく一つだ。
「妹弟子、ってことかい……」
「あぁ、それもおそらく、師匠に認められた、な。」
「そりゃまた……」
マルタはドルクの胸中を思ってか、複雑そうな表情を浮かべている。だが、それに対してドルクはふっと表情を緩めると、チラリと妻の顔を一瞥し微笑んで見せた。
「ははっ……しけた面してんじゃねぇよ。俺がダメであの嬢ちゃんが認められてることに思うところがないわけじゃねぇが、納得はできてんだ。その辺はもう気にしちゃいねぇ。」
ドルクは腕を組み、椅子の背もたれに身体を預けた。
ゆっくりと天井を仰ぎ見る。
「ただなぁ……」
「……同門の人間が事件に巻き込まれてるのが気になるかい?」
「……まぁ、そんなもんだ。」
マルタがドルクに少し呆れたような視線を向けた。
これでも長年連れ添った二人だ。相手が何を考えているのかは、なんとなくわかる。要は助けてやりたいのだ。
大怪我をして運び込まれてきた以上、面倒な問題に巻き込まれているのだろうが、同じ師のもとで腕を磨いた者が困っているのを放っておくのは何とも忍びない。とは言え無理に手を差し伸べるような真似をしては、妻に迷惑がかかる。
そう考えているのだろうと、マルタには分かっているのだ。
本当に仕方のない人だ。本当に。まぁそういうところも好ましいと感じてしまうのだけれど。
「はぁ……仕方ない人だねぇ。何があったか聞いてみなきゃ、助けてやれるかわかりゃしないけど、うちで助けられるなら落ち着くまで一部屋貸しておやりよ。その分何かうちの仕事の手伝いでもしてもらえば良いさね。」
「っ!……ほんと、お前にゃ敵わねぇよ。」
ドルクは気恥ずかしそうに頭を掻き、お手上げだとばかりに肩をすくめてみせた。
「……それじゃあ現役の鍛冶師様には、鍛冶仕事でも手伝ってもらうかね……」
「それがいいさね。あー、でも包丁には手を出させないでおくれよ。あたしにゃあんたの打った包丁以外は使いにくいったらありゃしないんだ。」
「はっはっはっ! そりゃ最高の褒め言葉だな!」
妻の口から出たのはドルクにとっての最高の褒め言葉。
機嫌を良くしたドルクの笑い声が部屋に響き渡る。
その様子を見て、少し安心したかのように頬を緩めたマルタは、空いたドルクのジョッキを持ってキッチンへ戻ると、酒の肴にと作っていた料理と共にお代わりのエールの入ったジョッキを持って帰ってきた。
「あぁ、旨いな……」
いつものように、いつもの道具で、妻が作ってくれた料理は、こころなしかいつもより旨く感じられたのであった。




