第五十三話 命を繋ぐもの
ノアが天幕内に入って数分、ノアから「ルカがミリアを助けられるかもしれない」と聞かされたセオは、先ほどのノア同様かなりの疑念を抱いた。
だが、いずれにしてもこのままではミリアに先はない以上、可能性があるならばとセオはルカの提示した条件を飲んだ。
ルカとミリア以外に天幕内に残ったのは、フィリス、リネット、テオバルト、セオの四人。
セオが条件を飲んだ後、ルカが提示したいくつかの条件に合う人間と、すべてを見届ける立会人としてセオが残った結果だ。
ルカが提示した条件は「水を扱える者」、「風を扱える者」、「患者の体調を客観的に見られる者」の三つ。
結果として、水を扱うフィリス、風を扱うリネット、患者の体調を見極めるテオバルト、となった。
風については、他の索敵者を呼ぶことも検討されたが、ルカから他言無用という条件を優先したいという申し出があったため、すでに親交のあるリネットに決まった。
「さて……」
天幕の中でルカは椅子に腰掛け、横たわるミリアを前にしていた。
ルカのすぐ前、眼下には未だ血を流し続けている刺創が見える。
そんなルカの左隣には小さなテーブルがあり、その上に五つの器。
ミリアを挟んで反対側にはリネット。そしてルカの右側にはフィリス。
テオバルトはテーブルの向こう、ミリアの頭の横で常に脈を確認できるよう待機している。
セオは少し離れたところ、リネットの右後ろに立っていた。
「最初に、今の状態についてですが、ミリア殿は昏睡状態で脈拍微弱、腹部の刺創からの出血が多く、失血死直前で低体温状態。合っていますね?」
ルカは淀みなくミリアの状態を口にし、テオバルトに視線を向けた。
テオバルトは少し驚いたように目を見開いたが、すぐに表情を戻した。
「ああ、その通りだ。良くわかっているな。」
ルカはテオバルトの言葉に小さく頷いた。
「……だからこそ、ここからどうにかできるとは、私には思えん。」
テオバルトはまだ疑っているのだろう、睨むように目を細めて呟いた。
テオバルト自身も王女付きの隊列に随行できる程度には、衛生担当としての能力は高い。
そのテオバルトから見て、現状のミリアに何らかの処置をしたところで、どうにかできるとは思えないのだ。
ルカからは「オリジナルの感応術を使う」と聞いているが、本来感応術による人体の回復はほとんどできないと言われている。
高度な感応術を駆使する術者であっても、小さな切り傷や擦り傷を塞ぐことができるくらいで、戦闘行為でできるような怪我を治療した例は確認されていない。
それは「感応術は身体の内から外へ発する力だから」だとか「そもそも人体の中、しかも臓器の細かいイメージができていないからだ」とか、いろいろな言説がまことしやかに囁かれているが、本当のところは学者たちにも解明できていないのだ。
もう一つ、ベルゼア教の教会関係者の一部が使うという"祝福"であれば多少は治療できるとも聞くが、そちらも重症者を治療できるほどではない。
だが目の前の男はそれができると言い切った。
それが本当のことなのか、何らかの目的でこの場の人間を謀ろうとしているのか、セオが認めた以上否やはないが、テオバルトはルカという人間が信用に足る人間だとは、敢えて思わぬように意識していた。
数多くの死を見届けてきた者として、生死にかかわるこの場でふざけた真似をしようものなら、即座に叩き出してやろうとも。
「では、最後の準備に入ります。皆さん、他言無用の件、お願いしますね。」
ルカは天幕内の全員の顔を順に見てから、椅子を立った。
横たわるミリアの身体、特に腹部に向けて両手をかざす。
「《身体検査》」
ルカの両の手のひらから、見えない何かがミリアの身体に向かって伸びる。
ちょうど焚き火の向こう側を見たときに、空間が揺らいで見えるあの感じだ。
その揺らぎがミリアの身体に触れ、やがて身体全体を優しく覆うように広がると、ルカは十数秒ほどその状態を維持した後、術を解いた。
「左腹部の刺創の奥、想定通りですが、剣で貫かれた位置にあった臓器と血管が傷ついていますね。やはり大量の出血が一番の問題です。急ぎましょう。」
ルカはその場に屈むと、足元の地面に右手の五本の指先を付け、小さく詠唱する。
「《抽出》……」
ゆっくりと指先に集中して触れた地面から、その奥へ。
大地の中にあるはずの"それら"を集め、吸い上げる感覚を強く意識する。
少しずつ引き寄せ、指先へ。
周りの四人がその視線を注ぐ中、ルカの指先から白い湯気とも煙ともつかない気体がシュウシュウと音を立てて立ち上る。
そしてルカがゆっくりと地面から手を引き上げると、五本の指先それぞれに異なる物質がサイコロのような立方体となって張り付いていた。
ルカは集中状態を維持したまま、その手をテーブルの上に置かれた五つの器に一つずつ入れていく。
立方体だったのは、ルカの術によってその形に維持されていただけのようで、ルカの指先を離れ器に入った瞬間にその形は本来あるべき姿に変化した。
光が通り抜けるほどに透き通った透明の立方体の結晶が二種類、あとは純白の粉末、濡れたガラスのように見える柱状の結晶、赤褐色の粉末。
「……それは何だ?」
テオバルトが問いかけた。
ルカが地面から引き抜いたように見えるその物質が、一体何なのか。他の面々はもちろん、テオバルトにもわからない。
「簡単に言えば、人の身体に必要な成分の一部、です。」
ナトリウム、カリウム、カルシウム、マグネシウム、鉄――つまりミネラルと言い換えてもいい。
怪我が軽微なものであれば、損傷した皮膚や筋肉、内臓の修復や、失った血液は体内にある物質だけを使って回復できる。
だが、今回の怪我は重傷で出血が多く、とてもではないが、ミリア本人の体内にあるものだけでは足りない。
となれば、不足する成分をどこから持ってくるのか。
そう、ルカは、足元の土壌からこれらの成分を含む化合物を感応術で無理やり"抽出した"のだ。
とりあえず先の五種類の成分があれば、失った血液を補う補液や電解質は何とかなる。
「ではリネットさん、《風の封壁》を足首より上で発動して、我々全員を包みこんで下さい。」
「は、はい! ……《風の封壁》!」
リネットがルカの指示の下、《風の封壁》で全員を包み込む。
これで地面からのゴミや浮遊物、雑菌の類を、加えて天幕の天井から雨粒が漏れて落ちてくる可能性も同時に排除することができたことになる。
「次に……」
ルカがフィリスに視線を向ける。そういえば名前も聞かされていない。
その視線に気付いたフィリスはすぐに反応した。
「フィリスと申します。」
「失礼。フィリス様、小さくて構いませんので、水の塊を作って手元に維持していて下さい。ただし、作る水は限りなく純粋な水である必要があります。難しいでしょうが、可能な限り他のすべてを意識から排除して、ただ"純粋な水を作り、維持する"ということだけに集中してください。混じり気のない、"純水"であればあるほど、彼女の生存率が上がります。」
ミリアを生かすために必要なことではある。だが同時にフィリスにとっては重圧だろう。
フィリスが生唾を飲み込む音が今にも聞こえそうだ。
「純粋な……水……」
「プレッシャーでしょう。でも私も全力を尽くしますので、フィリス様も全力を尽くして手伝って下さい。お願いします。」
真摯な態度と声。
そして頭を下げて乞い願うルカを見ていた潤んだ水色の瞳は、ミリアの青い顔へ視線を移し、その奥に強い光を灯す。
「はい。その役割、必ず果たしてみせます。……《水塊》!」
フィリスは自身の身体の前に手を軽く広げ瞑目すると、両手の間に少し白く濁った水球を作り出した。
「(純粋に……純粋に……水以外は、何もいらない……)」
ふよふよと両手の間で浮かぶ水球は、フィリスの思いに応えるようにだんだんと色を失い、やがて向こうが見通せるほどの美しい透明へと変化していく。
見る限り不純物が混じっているようには見えない。
「では、テオバルトさん、状況に明確な変化が出たら教えて下さい。」
頷くテオバルトを確認し、ルカは椅子に座り直すと、ミリアの刺創を囲むように四角形の頂点の位置に親指と人差し指を置く。
「《結合》……《再生》」
ルカが瞑目し、続けざまに感応術を発動する。
瞬間、ルカの首元の髪がふわりと靡いた。
風が吹いたわけではない。
何か見えざる力の奔流に押し流されているかのようだった。
緩やかに、それでいて力強い力の流れは、ルカの周囲で渦巻きながら、やがて小さな光の球となってミリアの傷口の上へ収束していく。
その光に呼応するように、今度は五つの器に入った物質とフィリスの作り出す水が反応した。それぞれが目で見るのも困難な程に細く、糸のように吸い上げられ、撚り集まり、一筋に束ねられて、光球を周回し始める。
ルカの額にはすでに大粒の汗が浮かんでいた。だが、深い集中状態に入っているルカは汗が流れ落ちることを気にも留めない。
光球の下部から一条の光の筋がゆっくりとミリアの傷口へ伸びていく。その筋を追うように、光球を周回していた"命の糸"とも言うべき撚り糸が、光の筋を螺旋状に這いながらミリアの身体の中へ進む。
傷の表層から皮下の筋肉を抜け、その奥の内臓、そしてさらに小さな世界へ"潜る"。
剣で貫かれたことにより切り裂かれた内臓組織の断面を、光が優しく覆う。
脈動するかのように明滅する光は傷ついた組織をゆっくりと、確実に元の形へと再生し、同時に撚り紡いだ”命の糸”も、解きほぐされるように分かたれ霧散し、ミリアの体内へと染み渡っていく。
「……(脈が戻ってきている?)」
ミリアの手首を握っていたテオバルトは、その変化に気がついた。
もうほとんど感じることができないまでに弱り、戻ることはないと諦めていた彼女の脈が触れたのだ。
呼吸はまだ弱々しいが、よく見ると顔色も少し赤みが差しているように見える。
「信じられん……脈が取れるレベルになったぞ。」
「……わかり、ました……」
一方ルカの方は見るからに消耗しているのが見て取れた。
頬を伝い落ちる汗の量は尋常ではない。体温もかなり上がっているのか、うっすら湯気が立っているようにすら見える。
「内臓の修復は、でき……ました。」
過集中状態を維持したままだからか、ルカの言葉は途切れ途切れにしか出てこない。
「ミネラルと……水分を、補給……して……傷口を……と、閉じ、ますっ……」
ミネラルなどと口にしても他の誰にもわからないが、今のルカにはそれを噛み砕いて説明するところまで気が回っていない。
瞑目して眉間に皺を寄せ、小さく呻くような声を漏らしながら、ルカは最後の仕上げに入った。
光球が光を増し、"命の糸"を強く引き寄せながらミリアの身体へ吸い込まれるように消えていく。
数秒だったのか、数分だったのか。その場の誰もが流れる時間を忘れ、目の前の光球が消失するまで動けずにいた。
「ぁ――」
小さくフィリスが口を開いた。
その目はミリアの腹部、刺創の"跡"を見ている。
「傷が……治って……治ってます!」
「えぇ、終わりました……。テオバルトさん、どうですか?」
ミリアの腹部から手を離したルカは、疲れた表情で膝に手をつき、テオバルトに水を向ける。
だが、テオバルトは目の前で起こった光景に、少し呆けたまま固まっていた。ルカに声をかけられ、ハッとしてミリアの状態を確認する。
「あ、あぁ。まだ多少弱いが、脈は正常と言っていいだろう。顔色も悪くない。内臓がどうなっているか、中が見えん以上しばらく私の方で経過観察は続けるが、傷口があった部分と同じレベルで治っているなら、命の危険どころか、"休んでりゃ直る"と放っておけるレベルだろうな。」
テオバルトは呆れたように頭を振った。
ここまでされてしまうと、もはや認めざるを得ない。
「まさかこんなものを見せつけられるとは、衛生担当としては自信をなくしそうだ。まったく……。」
テオバルトは立ち上がると、治療の邪魔になると避けてあった毛布をミリアに掛け、リネット、セオ、そして最後にフィリスへと視線を向ける。
「殿下。ミリア殿は助かります。あとは私が対応しますので、安心して御身をお休めください。」
「本当に……本当にミリアは助かった……のね? あぁ……良かった、良かっ……」
もう最後は言葉にならなかった。
フィリスは両手で顔を覆い、その水色の瞳から、滂沱の涙をこぼしていた。
つられて目尻に涙を浮かべたセオは空を仰ぎ見、リネットは優しく微笑みながら、フィリスを見ている。
そして視線をフィリスの隣で疲労困憊の様子のルカへ向けた。
「(これが、ルカさんの術……未熟な私でもわかる。私や感応術師団の人たちが立っているステージと、そもそもの次元が違うんだ……)」
紛いなりにも「感応術師団」という感応術の専門集団に所属するリネットには、その異質さを空恐ろしく感じていた。
一緒に随行している他の索敵者はおろか、感応術師団の精鋭も、感応術師団長ですら、おそらく足元にも及ばない境地に、彼はいるのだ、と。
「(きっと負荷が問題だっただけで、万全の状態なら私や殿下の役割も、一人でできてしまうんだろうな……)」
自分の両手を開き、手のひらに目を落としながら、リネットは一人心の内で呟く。
「(頑張っていつかは並び立てるくらいに……なんて難しいだろうけど、一歩ずつ頑張るしかないよね。)」
自分より少しだけ年上の彼が目の前で見せてくれた奇跡が、今もまだリネットの脳裏に鮮やかに残っている。
「(たとえ難しくっても、目指してみよう。ルカさんの見ている世界を……)」
リネットはその赤い瞳に焼き付いて離れない光景を、自身の目標にと密かに決意したのであった。




