第五十一話 比べるまでもなく
あの恐ろしい戦いの場から馬を駆って逃げること数分。
私は、傷ついたミリアさんを背に、移動を続けていた。
少し遠いものの、後ろには殿下も馬に乗ってついてきている。
逃げ始めた時、殿下は何か叫んでいたように聞こえたけれど、それもほんの少しの間のことで、今は馬を操るのに必死の様子だ。
とりあえず四人で離脱できて良かったけど、私の後ろにいるミリアさんが心配。
簡単に手当をしたといっても、ただ布で傷口を覆い、ドレス用の腰紐を代用して押さえているだけ。
雨で濡れた衣服は着替えるような余裕もなかったし、もちろん雨具も無いのだから、出血も相まってミリアさんの体温は下がるばかりだ。
「ミリアさん、気をしっかり。皆のところまで戻れば、もう少しちゃんと手当できますから……」
浅い呼吸を繰り返し、返事をするほどの元気も無いのか、寒そうに震えながら、ミリアさんは小さく頷いた。
良かった。まだ意識はある。
そのことに少し安心した私が視線を前方に移した時、遠く馬を駆る二人の人影が目に入った。
それが誰だかはすぐにわかった。
ノア様と、ルカさん。
「ミリアさん、ちゃんと……ちゃんと届いてましたよ。あの爆発……ぐすっ……」
これでやっと、やっと状況が好転するんだと思うと、まだ馬で走っているのだからと我慢しなければならないのに、視界が滲んでしまう。
お互いの距離が近づき、彼らも私も手綱を引いて馬の歩みを止め、それぞれの顔を見合わせた。
「ノア様、ルカさん、来てくださってありがとうございます。」
ミリアさんの状態もあり、あまり深くは頭を下げることはできないので、小さく頭を下げる。
まずは事情を説明し、早急にミリアさんの手当をしなければならない。
そう思って顔を上げた時、私の目に飛び込んで来たのは、怪訝そうな顔をして私の後方に視線を向けるルカさんだった。
「リネットさん、エリナはどこに……?」
「……えっ?」
そう言われて私も振り向いた。
ようやく追いついてきた殿下の駆る馬に、エリナさんの姿が無い。
瞬間、ヒュッと背筋が寒くなった。
どうして? 一緒に逃げてきたんじゃ……? と疑問符ばかりが脳裏に浮かんで何も言えなくなっていると、私たちの前まで辿り着いた殿下が涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら話しだした。
「エリナさんっ……エリナさんがっ……う、うぅっ……私だけ、逃がして……も、戻ろうとしたっ……したのに……馬、うまく……扱えなかったのぉ……」
もうそこからは殿下は慟哭するばかりで、まともな言葉は出てこなかった。
まさか逃げ始めた時に聞こえた殿下の叫び声が、エリナさんを呼ぶ声だったなんて。
ただただ逃げるのに必死で、後ろに殿下が見えたことに安心して、四人揃っていないことに気付きもしないまま、私はここまで来てしまったんだ。
あの異形と化したエディルを前に、エリナさんがたった一人で……左足を痛めて動き回ることも難しいのに……
私が愕然としていると、馬から下りたノア様が殿下の乗る馬の横へ来て、殿下を馬から下ろし、優しく声を掛けていた。
「お嬢様、私たちがいながらこんなことになってしまい、申し訳ございません。それでも、貴女様がご無事でいてくださるだけで、本当に良かった。エリナ嬢の事は我々に任せて――」
ノア様が殿下に声をかけている横で、ルカさんも馬を下りた。
ルカさんは私たちの誰ともまったく目を合わせないまま、一人道の先、私たちが逃げてきた方へ数歩進むと、肩越しにこちらを一瞥する。
「ノア殿、皆さんと馬の事、お願いします。」
「ル、ルカ殿? 馬から下りて一体……」
急ぐなら馬が一番のはずなのに、ルカさんは馬に戻る素振りもなく一言――
「俺は、エリナの元へ急ぎます。」
そう言って、膝を深く折ると、彼は小さく呟いた。
「《膂力強化》」
全身の筋力強化と――
「《敏捷性強化》」
移動速度の向上――
私は一体何を見ているのか。一瞬理解が追いつかなかった。
「術の……同時発動!?」
感応術師団で人間には不可能だと聞かされていた感応術の同時発動が目の前で行われている。
怪我で意識が朦朧としているミリアさんと泣きじゃくっている殿下は気付いていないみたいだけれど、私とノア様はあり得ない光景に言葉を失っていた。
でもそれがまさか、"その先があるなんて"――
「《風爆》!!」
身体能力を強化したルカさんが大地を全力で蹴りつけ、地面に放射状の地割れを作りながら、空へ飛び上がった。
しかも地面を離れる瞬間に、私のものとはまったく違い、効果範囲を極端に小さくそして周囲へ影響しないように調整された、でも威力は桁違いの《風爆》でさらに加速していく。
空から降ってくる雨粒を跳ね飛ばし、空気を切り裂いて飛んでいく、それはさながら、強弓で射られた矢のように。
あんな速さ、馬を駆って追いつけるわけがない。
だってもうほとんど見えないくらい遠くにいるのだから。
でも、あの速さなら、もしかしたら、と。
私はわずかな希望がそこにあるような気がして、小さく、小さく祈るように呟いた。
「ルカさん、どうかエリナさんを助けてください……」
◇◇◇
「とまぁ、そんな感じでさ。」
自分がどうやって自分を助けに来てくれたのか。
ルカは一通り話してくれたところで言葉を切った。
「でもそれって……」
そう。話を聞いて気がついた。
《膂力強化》と《敏捷性強化》、そして《風爆》の同時使用。
それはつまり――
「……術の同時使用ができるって、バレちゃったんじゃ……」
サテライトでアリスが懸念していた事でもあるけれど、ルカはこの世界では異質な部分がある。
で、おそらくその最たるものが"感応術の同時使用ができる"こと。
それがバレることはルカにとってあまりいい未来には繋がらない。少なくともアリスはそう予想していたし、私にもその意見は理解できる。
「んー……そうなんだけどさ……」
そこでルカは少し言い淀んだ。
バレると困るかも、というのはそのとおりだと思うのだけど、なんだか意外な反応。
どうしたのかなと小首を傾げると、ルカはふわりと表情を緩めて呟いた。
「比べるまでも無いだろ?」
「比べる?」
ははは、と苦笑いを浮かべるルカ。
「そういう事がバレるのと、エリナの無事と、どっちが重要かなんて決まってるだろ?」
「ぁ――」
命の危険も考えられたのだから、比較対象にならないのはそのとおりなんだけど……
でも改めて口にされると、言いようのない嬉しさが込み上げる。そして同時に、自分のせいで、という少し申し訳ない気持ちも。
なんだろう、さすがにちょっと照れるなぁと、俯き加減でいると、ルカは穏やかな声音でポツリと呟いた。
「間に合って……助けられて良かった。本当に。」
優しい、慈しむような、そんな微笑み。
瞬間、トクン、と心臓が跳ねた。
初めて見るルカの表情に、鼓動が早まるのがわかる。
「あ、ありがと……」
正直まともに彼の顔を見ていられなくて、私は思わずふいっと顔をそらしてしまった。
「(颯爽と駆けつけてその顔は……ちょっとずるくない!?)」
別に好きだとか恋愛感情がどうとか、そういうことでは無いのだけど、この状況でこんな優しい笑顔を向けられるとは思っていなかった。
元々優しいし、気遣いもまぁできる、それでいて決して顔も悪くないものだから余計にたちが悪い。
「だからさ――」
不意にルカの声のトーンが少し下がった。
優しげだった声音が少し冷えたような、そんな感じ。怒っているとか悲しんでいるとかではなくて、小さな不安の種が見え隠れする。
「……何?」
何を考えているのか、その顔を見上げて聞いてみた。
「色々と話したり休んだりしたいところだけど、もう少し頑張ろう。ミリアさんのことも心配だ。」
ハッと息を飲んだ。
先にノア様や皆と合流できているとは聞いている、でも手当の結果がどうなったかはまだわからない。
大丈夫だと信じたい気持ちはあるけど、あの時剣が刺さった傷は深かったはずだから。
早く、無事を確認したい。
「うん……」
私が小さく頷くのを見たあと、ルカは私を少し強くその両手に抱きかかえて、ぐんと移動速度を上げたのだった。




